ことり、と目の前にスウプが置かれて、私は湯気をたてるその真赤な液体を心から悪趣味だと思ったのですけれど、何も言わずに手を付けることにしました。
私に逆らうという選択肢は無いのですから。
ジョット様は私の向かいの席にお掛けになって、悠然とした表情で私を眺めました。
私はその視線に気付かないふりをしながら、スプウンを手に取り、血液のようなそれを掬いました。
「本当にそれだけでいいのか?」
スウプを一口含んだところで、ジョット様はそう仰いました。
スウプは予想通りトマトの味がしましたが、それにしてはいやに赤いのです。
私はその液体を飲み下して、口を開きました。
「あまり食欲がございません」
たっぷり間をあけて答えると、彼はそうか、と言っただけでした。
結局その瞳を見る勇気がないまま、私は二口めのスウプを掬います。
そのときでした。スプウンが私の手からすべり落ちたのです。
咄嗟のことになにも出来ず、スプウンは重力に従い、私に降りかかりました。
真白のお洋服に、赤が散ります。からんからんと音を立ててスプウンが床に転がりました。
「名前、大丈夫か、」
言って、ジョット様は席を立ち、私に近付きました。
「申し訳ありません、お洋服が」
「いいから。火傷は?」
「大丈夫です」
ジョット様は私の目の前までいらして、そこで初めて私は彼の顔を意識的に見たのです。
ジョット様の、空のような様相のその瞳には、何かに耐えるような苦しげな色が浮かんでおりました。
私はほんの少しぞくりとなって、彼から目を逸らして席を立ちます。
「着替えておいで」
返事もしないで彼に背を向け、歩き出しました。
それから私はいじわるな気分になって、言ったのです。
「ジョット様、今宵は、満月ですわ」
***
恋をしていたのだと思います。
私は修道院で神に仕えるむすめで、そこで、ジョット様と出逢ったのです。
彼は足を撃たれてひどい怪我をしていました。
私は偶然に、息も絶え絶えな彼を見つけました。
求める者には与えなさい。私は彼を看護することに決めました。
修道院の近くの空き家に、彼を匿いました。周りの目を盗んで、私はそこに通うことになりました。
おおごとにはしたくなかったのです。
ジョット様は口数が決して多い方ではありませんでしたから、ふたりでいる時はとても静かでした。
いつも、澄んだ青空を彷彿とさせる穏やかさでもって、私をご覧になりました。
薄々、気付いておりました。ジョット様が普通の人間ではないということは。
彼の怪我はわずか数日で完治しました。
けれど私は彼を引き留めたのです。恋でした。私はもっと、ジョット様が知りたかった。ジョット様は苦しげに私を見て、もう少しだけ、と仰いました。
もう少し。次の満月の夜が来るまで。
次の満月まで、もうあまり日がありませんでした。
いちにち過ぎるごとに、私は悲しさで死んでしまうかもしれないと思うようになりました。
私はいけないむすめでした。神様のことよりも、ジョット様のことを思う時間の方が多かったから。
ついに、満月の日が来ました。
私は身を引きちぎられるような思いで、彼の元へ向かいました。
夕暮れ前に、そこを離れる予定でした。お別れです。けれど、私は再び彼を引き留めたのです。
空の瞳を見つめると、彼は悲しそうな苦しそうな表情で私を見て、そして私を強く強く抱きしめました。
そしてやがて月が出ました。辺りの星がみんな霞むほどまぶしい満月でした。
ジョット様が消えそうな声で、すまない、と仰って、私は何事かと思ったのですが、すぐにその言葉の意味を理解することになりました。
私は、ジョット様に犯されたのです。
私を引き倒した彼は、恐ろしい嵐のような光を持った瞳をしていました。
彼は私の首筋に歯を立てました。ジョット様はやはり人ではなかったのです。彼は吸血鬼だったのです。
彼は私を喰らいました。血液を。純潔を。
神様に仕える資格を失った私は、修道院に帰ることなど出来ませんでした。
ジョット様は涙を流し続ける私を連れて、遠くへ遠くへと逃げました。
そして今は、彼の所有物の屋敷に暮らしています。
彼はあれ以来一度も、私を喰らったことはありません。満月の晩にはかならず、姿をくらましてしまうのです。
それは彼がやさしいからでしょうか。私にはよくわかりません。
あの、空のように穏やかな瞳は、感情が見えないのです。
***
汚れた白いドレスをばさりと脱いで、ベッドの上に放り投げると、私はクロオゼットの扉を開けました。
クロオゼットの中には、色の薄いお洋服ばかり。私はその中から一着取り出しました。
さっき着ていたものとデザインの異なる、白いドレス。
月明かりに照らされて、白が浮かび上がります。しろ。ホワイト。雪の色。
鏡に映して身なりを整えていると、微かながら物音がしました。
きっと、ジョット様はお出かけになるのです。今宵は、満月だから。
鏡の中の女は、無感動に私を見返しました。
私は翻って、ふとテエブルの上に置かれた果物ナイフに目をやりました。
銀の、装飾の美しいナイフ。私はほとんど無意識に、それを手にとりました。
それから部屋を出て、螺旋階段をゆっくりと降ります。
ちょうど、ドアのところに、ジョット様の後姿を見つけました。
やはりお出かけになるようでした。黒のコオトを持っていらしたから。
彼は足音に、振り返って私を見ました。私はとっさにナイフを背に隠しました。
「お出かけに、なられるのですか」
ジョット様は静かに微笑みます。
「ああ、すこし、出かけてくる」
「もし私が、行かないでくださいと申し上げたら?」
どうなさいますか。
最後まで言わずに、口を噤みました。
私は何を言っているのかしら。
ナイフを、握りしめる。
「それはできない」
「それは、今夜が満月の日だからですか」
ほんの一瞬、ジョット様は驚いたような顔をなさって、でもその表情はすぐに消えました。
穏やかな両の目が私を映しています。
「そうだ」
みじかく答えた彼は、コオトを羽織り、靴音を鳴らしました。
止められない。私は賭けに出ました。
「ジョット様は、私がなぜ白いお洋服を好んで着るのかおわかりですか。白には、赤がよく映えるからですわ」
ナイフを握る手が汗ばみます。私はその切っ先を、ゆっくり自分の肌へすべらせました。鎖骨のあたりから、胸元へかけて。
じんじんとした痛みに、私は涙ぐみました。
ほのかな血の匂いに、振り返ったジョット様は目を見開きました。
じわりじわりと、私の血が白に染みていきます。
ジョット様の瞳に、明らかにさっきとは違う色が灯りました。ああ、私はきっとこの目が見たかったのです。
「名前、」
私を呼ぶその声の、なんと苦しげなこと。
かすれた声で返事をすると、まるで箍が外れたように、ジョット様は私を乱暴に押し倒しました。
ナイフが尖った音を立てて床に落ちます。
「ジョット様。お慕い申しております」
囁くようにそう言うと、彼は狂おしげに表情を歪めました。
名前、名前、愛してる。
押し殺すような声は、確かに私に幸福をもたらします。
そして文字通り咬み付くような$レ吻が与えられました。唇の端に痛みが走って、口内に鉄の味がして、噛まれたのだと理解しました。彼は、吸血鬼なのですから。
彼の触れるところから甘い痺れが広がって、私を麻痺させました。
きっと吸血鬼の牙には、麻薬が含まれているに違いありません。
彼が私のすべてを喰らい尽くして、そして私も、彼に血液という甘い毒を含ませるのです。
神様。白状いたします。私は、浅ましい女なのです。ほんとうは、望んでいるのです。
こうやって彼に、なにもかもを捧げることを。
首筋に鋭い痛みが走りました。牙を立てられることは慣れそうにない、とぼんやり思って、それでも噛まれた場所から私を侵す幸福に、私はすべてを投げ出したのです。
Bloody Mary
(091031)
ハロウィン企画。
[ 2/7 ]
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