花と獅子

悪童の幸福論 上


「む?」
「兄上、どうかされましたか」

煉獄家の食卓には朝からたくさんのおかずが並ぶ。焼き魚、葉物のお浸し、ふんわりとした卵焼き、練り物の焼いたもの、煮豆、海苔、お新香、梅干し、そして温かい白ご飯とお味噌汁。

千寿郎は兄が珍しく新聞に見入っている様子を不思議そうに見上げる。柱を辞した父が昼頃に起き出してぼんやりと読んでいる姿は見かけるが、兄上は家にいても鍛錬か日輪刀の手入ればかりであった。
うまいうまいと言いながらぱくぱくと食べ進めていた手を止めて、もとより大きな眼でじっと記事を注視する様子にそんな凄いことが書かれているのかと兄上の横に回り込んで覗き込む。
もうすぐ誰でも空を飛べるようになるらしい。電話というのも都市にはあるそうだ。そんな道具があることを知って、聞きたい声がすぐに聞こえるとはなんて素敵なんだろうと千寿郎は胸が躍った。だから兄上がじいっと見つめる先にもきっとなにかすごく素敵な新しいものが出来たのかなと思っていた。

そんな予想とは全く違い、兄上の見つめる先は美しい女性の写真であった。白黒であってもその柔らかそうな髪や小さな顔、大きな瞳から大変美しい人であることが分かる。
「お美しい方ですね」
異国の姫君のような洋装にほうっとため息をついて感想を述べる。うんともすんとも返事の返ってこない兄を不審に思い、ぽん、と肩に手を置くとようやくゆっくり自分とお揃いの陽光のような目がこちらを向いた。
「兄上?」
暫く夢を見ていたような顔をした兄は、そうだな、と感情を抑えた声で答えると、またぱくぱくと食事を再開した。お味噌汁を飲み終えると、おかわりをせずにさっと立ち上がった。

なんと、兄上がおかわりしないなんて!

体調が悪いのですか、美味しくなかったですか、と聞いても笑顔で頭を撫でられご馳走さま、と食器を片してしわまれた。

「千寿郎、兄は修行に行ってくる!」
「えっ…今日は歌舞伎の新作を観に行かれる予定では?」
「予定変更だ…行ってくる!」
夕方までには戻ると言って、日輪刀を持って家を出て行ってしまった兄を玄関で見送り、千寿郎は兄の異変に何だったのだろうかと頭をひねる。ぴちち、と小鳥が頭上を飛び去り、夏の前のむわっとした湿気が頬を撫でた。



「ごめんください、煉獄杏寿郎様はご在宅でしょうか」

午後の鍛錬をしていた時だった。
鈴のような柔らかい女の人の声が玄関から聞こえたので、中庭での素振りを止めて小走りに門扉へ向かう。朝から門は開けたままであったので誰でも入れるが、煉獄家を訪れる人は多くない。特に、母が亡くなってからは。

「お待たせしました、あの、兄は出ておりまして…」

門扉の前に日傘を手に佇んでいた女性は千寿郎を視界に入れるとぺこりと頭を下げる。
美しい人だ、というのが第一印象であった。柔らかそうな黒髪をすっきりとまとめ、大きな瞳を弓のように細めてにこりと微笑む姿にどきりと心臓が跳ねる。滲むような柔らかい白地の絽小紋の着物が彼女の雰囲気とよく似合っていた。傘を畳む流れるような優雅な所作に、この人はどこかのお姫様ではないかと思う。

「今日は非番だと伺ったのですが、お留守でしたか」
「はい…えと、あの、失礼ですが、何方でしょうか…」
「そうでした、名乗りもせずに失礼しました。松方ゆきと申します。煉獄様にお礼に伺ったのですが、日を改めます」

松方ゆきさん。
そう言って千寿郎より頭一つ高い身長を同じ目の高さに合わすように腰を屈めた彼女の大きな黒目が、ぱちぱちと瞬きながらじぃっとこちらの顔を見てくる。長い睫毛が瞬きに合わせて動く仔細まで見える距離。お餅のような白いすべすべの肌や桃色の唇が近づいて心臓がどくどくと早くなる。

「本当にそっくりでいらっしゃいますのね…!」
「あっ!あ、兄上とですか。よくそう言って頂きます」
「ふふふ、綺麗な御髪も大きなおめめもお揃いで素敵ですね」
「あ、ありあとうございます(き、きれい!すてき!嬉しい…!)」
「では、お騒がせいたしました」

満足したようにすっと背を伸ばして門から出て行こうとする彼女を思わず呼び止めてしまったのは、千寿郎にとっては非常に珍しいことであった。

父上に怒られるかもしれないと思ったけれど、暗くなるまでは自室に引きこもっておられるので、大丈夫だろう。
玄関からすぐの客間に通してお茶を淹れるとゆきさんは「お上手ですね、千寿郎さん」本当に美味しい、と笑って褒めてくれた。
煎茶を飲みながらゆきさんから兄上に助けていただいた話や、鬼殺隊と関係のある方であることや、兄上から弟である自分の話を聞いたことなどを話してくれた。じっとこちらを見て話してくれるところや、時折見せてくれる微笑みが本当に綺麗で、閉鎖的な毎日を送る千寿郎にとってはとても楽しい時間であった。

「兄上はきっともうすぐお戻りになります。夕方までには、と仰っていたので」
「そうですか。待たせていただいてありがとうございます。あ、千寿郎さんお手が…」
湯飲みに薄く赤い跡がついてるのを見つけたゆきが千寿郎の手をそっと取る。剣を振るう為の訓練でできた胼胝が潰れて血がにじんでいたようだ。手を洗った時には気付かなかったが、よくあることであった。
背は自分よりも頭一つ高かったけれど、千寿郎の右手を掴んだゆきの白い手はずっと小さく細い。この手はきっと綺麗なものだけを触ってきたのであろう。自分の醜い傷だらけの掌がその美しい手の中にあることが申し訳なくなる。
「あぁ、すみませんお着物を汚してしまいますね」
万が一ゆきさんの綺麗な小紋についてしまっては失礼だ、と奥の部屋に簡単な救急箱を取りに行く。
「…千寿郎さん、私が巻いてもよろしいでしょうか?」
客間の隅で利き手と逆の手でのろのろと包帯を巻き始めると、ゆきさんが近くに寄って来てそっと包帯を掴む。

「…ありがとうございます」
「私もやったことがないので、うまくできないかもしれませんが」

お互いの膝がつきそうな距離でくるりくるりと包帯を巻いてくれるゆきさんのお顔をもう一度ちらりと盗み見る。目線を落としたことで睫毛が頬に影を落とす。この影、よく見たことがある。母上のお顔だ。擦りむいた膝に軟膏を塗ってくれる時や、爪を切ってくれる時、泣いた僕を抱きしめてくれる時。

「僕、剣がうまくないんです。煉獄の家に生まれたのに、兄上のようにはなれなくて。だからこの傷も、情けないんです。痛いのに、うまくはならなくて、なんで傷だけは出来るのかなって」

初めて会った人なのに、自分は何を泣き言を言っているんだろう。母上のことを思い出したからか、思わず口から出た弱音に羞恥心がこみ上げる。恥ずかしい、きっと彼女も迷惑だろう、こんなことを急に言われて。

「私は剣を振るうこともできませんから千寿郎さんのこの手をただただ尊敬します…例え違う道を選ぶ日が来ても、この道に生涯を掛けても、どちらにしてもひたむきに向き合ったことは、その人の中で確かな糧となってくれると信じています」

「どちらにしても…?」

「えぇ、そうです。この手を恥じる必要などどこにもありませんよ」

キュッと結ばれた包帯は、やったことがないと言っていたのにとてもきっちりと巻かれていて指を曲げても痛くなかった。
手当を終えてもそっと両手で包んでくれるゆきさんを見上げると、どこまでも深い夜のような瞳に白い星がいくつも輝くように煌めいていた。

「私の話も聞いてくださいますか?」

手を握ったままゆきさんは青々と茂った草木が夕方の薄い橙色に染まりはじめた庭をぼんやり見ながら淀みなく語り始めた。

「私には兄が2人おりまして、父は生まれる前に母の腹にいる私を男だと聞いていたそうです。野心家で向上心の強い父は事業の拡大を目指しており、息子3人で各分野を盛り立てて欲しかったのでしょうが、生まれた子は女であり、大変落胆したそうです。もちろん可愛がってくださいましたが、兄2人に寄せる期待とは天と地ほどの差に感じました。兄を羨ましく思い、同じ方向に努力したところで兄以上にはならずそんな立場を求められもしない…関心を向けてもらいたくて家業を学び、相応しい人間になろうと努力しても結局何も手に入らなかった」

そこで言葉を買った彼女は、視線を彷徨わせて目を閉じる。

「男であればよかったと、何度も思いました。努力した分だけ成果を得られる兄たちが羨ましく、妬ましかった…だから千寿郎さんの気持ちが少し分かるような気がします。でも人を羨む気持ちが大きくならないように、向き合い方を見つけた方がいいですね。人はみんな弱いから、他人を責めたり、こうやって自分を責めたりしてしまう」

ふわりと柔らかく頭を撫でられると、きゅうっと胸が苦しくなって目頭がじわりと熱くなった。

「あらあら・・大丈夫ですか。可愛らしい貴方を泣かせたなんて知れたら煉獄様に叱られてしまいますね」

「ご、ごめんなさい…悲しくないのに、涙が出てしまって…」

ぽろぽろ零れた涙を包帯と掌で擦って泣くまいと目を瞑ると余計に涙が溢れてしまう。
ゆきさんがとんとんと背中を摩ってくれる。その感覚がまた懐かしい母を思い出してしまい、涙が止めらなくなってしまった。
するとぎゅうと後ろからよく知る匂いとともに力強い腕が己の体を抱き上げた。

「わっ!あ、兄上!」
「ただいま、千寿郎!」

驚きと、いつもの優しい兄の顔を見ると涙がすぅと引っ込んでいく。
ゆきさんの前で少し恥ずかしかったけれど身をよじってぎゅうと兄上の首にしがみつくと、分かっているというように頭を撫でられて畳の上に降ろされる。

「帰ってみると千寿郎が客人をもてなしていることにも驚いたが、よもやそれがゆきさんだったとは!」

「お邪魔しております。千寿郎さん、お噂通りの可愛らしい弟さんですね」

「そうだろう!自慢の弟だ!なにやら二人が仲良くなっているようで嬉しい!」

ご機嫌な兄上がゆきさんの隣に腰を下ろしたので、兄の分もお茶を淹れようと湯飲みを取りに部屋を出る。
兄上の声は大きいので、きっと父上は客人がいることを分かっただろうが奥の部屋からは物音一つしなかった。

「兄上、お茶をお淹れしますね」
「ありがとう!」

客間の襖を開けると、二人は並んで縁側から夕焼けの空を見ていたようで、淡い橙色に二人でとぷんと浸かったように見えた。
こちらを振り向いて微笑むゆきさんを見てはたと気づく。
この角度、この顔…どこかで見た。そうだ、異国のお姫様。

「あ!新聞の!」
思わず大きな声が出てしまった。
「新聞?」
きょとんと首を傾げるゆきさんを残して、三度部屋を出る。
まだ食卓に置いたままの新聞を手に戻ると、先程までのご機嫌はどこへやら、今朝と同じどこかぼんやりした様子の兄の姿があった。

「ここです!とても綺麗すね。僕にはお姫様に見えました!」
「まぁ…ありがとうございます。写真が出ていることは知りませんでした…」

ゆきさんの写真の載ったページを見たまま、兄上がぽつりと口を開く。


「婚約されたのだな…おめでとう」


婚約。
そうか、この写真はゆきさんの婚約の記事であったのか。きっとゆきさんはご立派な家のお嬢さんなのであろうと想像がついた。物腰の柔らかさや落ち着いた所作は普段触れ合う人々とは違っていたし、千寿郎の手当てをしてくれた白い手は柔く、家事や炊事とは無縁であろう。
千寿郎はそんな彼女の手が着物の袖の中で指先が白くなるほどぎゅうと握り締められていることに気付いて視線を上げる。

「ありがとうございます」

彼女の言葉も表情も、一切の揺らぎのない穏やかな返答であった。


ゆきさんはきつく握り締めた手の中にどんな言葉を封じ込めたのだろう。