花と獅子

悪童の幸福論 下


どことなくぎきしゃくとした雰囲気のまま、訪問の目的であった先日のお礼を煉獄様になんとかお伝えできた。明日はお館様にお目通りしそのあと数日は近隣の旅館に泊まる予定であると話すと、そうか、と煉獄様は少し考える素振りの後に送ろうかと申し出てくれたがちょうど日が落ちる前に別件を終えた鈴音が煉獄邸まで迎えに来てくれた。別れ際に千寿郎さんがまたお会いできますか、と可愛らしく声をかけてくださり、もちろんですと二つ返事で返して別れた時にはすっかり日が傾いていた。

先日も治療してくださったお医者様であるヨハネス・シュルツ先生をお館様へご紹介することになったのが今回の旅の発端である。
夕闇に染まった閑静な庭を眺められる縁側で先に旅館にご案内していた先生と合流して、鈴音と三人で夕食の前にお茶をいただいく。ふと、先刻の煉獄家で千寿郎さんに見せてもらった新聞の内容を思い出して苦い薬を飲んだような心地になる。

兄が静かにしかし冷徹なまでの怒りを持って追い返した陸軍将校からの求婚がまさか婚約という形で新聞な載っているとは思わなかった。こういった話はお兄様達が基本的にほぼ全て断ってくれている。私の気持ちを考慮した優しさなどではなく、お兄様の厳しい選考を通過する御仁などいないからであるが。

これまでも何度か、実は誰それと許嫁だの、実業家と恋仲などと噂になってしまったことはある。それは私だけでなくお兄様たちだってそうである。
女学校で友人たちからどうなのですか、とわくわくした好奇心満載の瞳で婚約話の経緯を聞かれたり、見合いの申し込み相手が人気者だったりしてお顔の詳細を聞かれりした。でもそれは同じ階級の中だから広まった噂であり、今回の新聞は明らかに違う。
これでこちらから断るにあたり、当たり障りなく、しかし家名と私の身体の清廉潔白を守れるような理由を世間に公表する必要ができてしまった。

「いっそ傷物だとでも、言ってしまいましょうか」
「キズモノ?なんですそれ?」
「処女ではないということです」
「お、お嬢様!そのような物言いはなりません!」
にこっと笑って説明すれば真っ赤になった鈴音に止められた。このくらい3人しかいないのだから許して欲しい。
「あぁなるほど、愛の営みを知っているというこですか」
「愛の営み、欧米の方は詩的ですね」

先生は松方家が是非にと日本へ招いたお医者様である。数年にわたり先進国の医療研究について諸大学を交えて教えを請うていたのだが、契約期間が終わってもこの東の国を気に入ったようで祖国に帰らず小さな医院を営みながら血液の研究をしている。
私たち兄弟にとっては初めて我が家にやってきた異国人であり、博識で紳士な彼が家を訪ねるたびに歓待していたものだ。夏休みには家庭教師の真似事までしていただいたし、大人になった今では罹りつけのお医者様である。

「確かにお貴族様にとっては、一大事ですね」
「そうでございます、男性と二人きりで逢引されるだけでもどんな噂になりましょうか」
「ではこの場に鈴音がいないことにして、先生と逢引をしたことにしましょうか。そうすれば新聞のなんとか将軍も、私など見向きもなさらないでしょう」
「えー、僕じゃあ喜壱くん怒ります」

先生の左腕にするりと両手を添わせると、お兄様の前に鈴音が目に見えて怒っている。

「お嬢様はお仕事に対しては熱心ですが、ご自身のことにはとんと無頓着でいらっしゃる!喜壱様が万が一にも婚約に承知されたらどうなさるおつもりなのですか。あの結城少佐はお嬢様とふた周りもお年が離れているのですよ?ちゃんとご縁談相手のお写真とお名前くらい見てくださいませ」

ツンツンしている鈴音にごめんなさいと謝るけれど、私の縁談相手を私が選べるはずもないので見るだけ無駄だと思ってしまう。
お兄様方は表現方法は違えどお二人とも私を目に入れても痛くないくらいに可愛がってくださっているので、それ相応の方(お兄様基準で行くなら完璧な欠点なき御仁)にしか引き合わされることはないだろう。
でもその人ですら、ゆきにとってはどうでもいいと思ってしまう。

いったい私が私であることにどんな価値があるというのだろうか。

「ふた周りとは?」
シュルツ先生は幼い頃よくしてくれたようによしよしと頭を撫でながら、片手でイチニイサンシ、、と指を折る。
「24歳年上ということです」
「24っていうと、40歳以上?僕と同じくらいか」
「先生、もう四十を超えてましたの?我が家にいらっしゃた時は王子様のようでしたのに」
初対面は金髪に青い目の優しいお兄さんだったのだ。友人たちにきゃあきゃあと話したものだと思い出す。今も白皙の美貌はあるものの若さよりは渋さが優っている。それはそれで引く手数多であろうが。

「お嬢様は結婚したくないのですか?」
「そういう訳ではございませんが…」
「ではお慕いする方がいらっしゃる?」
「…先生、どうしてこのようなことをお聞きになるのです?」
「興味本位ですよ。親戚のおじさんが姪っ子を可愛がるようなモンです」

はぐらかしてもよかったのだが、先生の薄氷の目で見られると自分の言葉の薄っぺらさや欺瞞が透けて見えているようで、嘘をつけない。

「…慕っていたとしても、そうでなくても、選べるものではありません」
「まぁ…お嬢様の立場を思えば意地の悪い質問でしたね。でも、心まで縛ってはいけません。君がいい子なのはよおーく知ってますが、心の内で思うこと、考えることはみな自由にしていいんです。君は、君の中では女王様にも幼子にもなれるのですから。それを自分自身に許すのは悪いことじゃない」

空になった湯飲みの縁をなぞる先生の長い指を目で追いながら、抽象的な言葉を噛みしめる。

「人を思うことで生まれるエネルギーといものは、存外すごいものです。国すら傾ける事もあるのですから。良い方向へ働かせれば想像以上の結果が手に入りますよ。大事にした方がいい」

心のうちだけで、思うだけなら許されるのだろうか、本当に。

そう思っただけで、脳裏にふと浮かぶ顔があることを自覚して、急いで思考を黒く塗りつぶしぱたりと本を閉じるように頭を切り替える。
恐ろしい生き物が身の内に潜んでいることを、鏡ごしに見せられたようなぞわりとした静かな恐怖が背筋を這う。

こんなものを許容してしまえば私は私でいられない。この気持ちと共存していくことで得られるものなど苦しみ以外にないのではないか。

「…シュルツ先生のお話は、難しゅうございますね」

先生は答えずに口元を少し上げて笑うだけだった。
「さて、そろそろ夕食ですかねぇ」
ぐーっと伸びをして縁側から空を見上げた先生につられて目線をあげると、三日月が鋭利に輝いていた。


遠出に疲れた身体は見知らぬ宿の布団でも違和感を感じる間もなく、ぐっと深く眠りに連れて行ってくれた。
目蓋の裏にちりちりと焼きつくような炎の色が揺らめいて目を開けると、朝日が昇ったようだ。欄干の窓枠の隙間からちょうど一直線に顔に差し込む光の筋に目を瞬いて身を起こす。宛てがわれた2階の部屋からは遮るものがなく、薄青と桃と橙を溶かした空に燃えるような太陽がよく見えた。美しいものを朝から見れたことにちょっとした優越感が湧き上がる。寝間着の浴衣の上に羽織を羽織って窓に近づくと、昨日三人で見た夜の庭をちょうど眼下に眺めることができた。美しい日本庭園は宿を囲うように伸びており、どこに泊まっても緑があるように設計されていた。

少しだけこの誰もいない美しい庭に出て散歩がしたいと思い、簡単に髪を梳いて静かに部屋を出る。隣の部屋の鈴音はもうそろそろ起きるだろうか、そろそろと旅館の中を移動するのはどことなく悪いことをしているような気分になる。
静謐な庭に誘われて庭先へ出ると朝の空気が瑞々しく満ちていてすぅとひとつ息を吸う。
目に美しい青紅葉の垣根を頭上に見やりながら、水音のする方へと足を向ける。
小川の淵を何も考えずただただ歩いていると庭の端まで来てしまっていた。
そろそろ引き返そうと踵を返したところで、大きく開いた正面玄関の小道に知った顔を見つけた。

「煉獄様」

漆黒の隊服に身を包んだ姿を見るのは今回が初めてだ。詰まった襟元と腰に刺さった刀に、あぁこの人は鬼狩り様だ、と幼い頃祖父と見た鬼殺隊士たちの姿が重なった。
足を向けたのは私の方からだった。
青紅葉の下で佇む煉獄様と2、3歩の距離で足を止める。

「ゆきさんに会えるかと思って、寄ってしまった」

いつものおおらかで歯切れの良い声ではなく、それこそこの朝の庭のような静かな声である。

「朝から約束もなく会えるわけがないと思っていたのだが、よもやこんな僥倖もあるものだな」

目力の強い瞳を緩ませて笑みを浮かべた煉獄様を見ていると、昨日塗りつぶした黒の中にあった顔はそういえばこんな風に笑った顔であったと気づいた。

「私にとっての貴方は幸いでしょうか。嵐のようで、恐ろしい」

考える間もなく自然と溢れた本音はどう伝わったのかわからないけれど、煉獄様は嬉しそうに口角を上げた。

朝日の如く私に光を差し込む人。
その眼差しにじっと見つめられると、名付け難い感情が去来する。私が名前を知らない感情。人にどう見られるか、どう思われるかを考えて生きることは松方公爵家令嬢と言う肩書きの私にとって、嫌という程身に染み付いた習慣であった。それでも、煉獄様とは初めてそれを抜けたところで一人の人間として向き合ってほしいと、この人に良く見られたいという愚かな欲が身のうちにあることを自覚する。昨日先生に気付かされたばかりの身体の中に潜む恐ろしい怪物が目を覚ます。

「昨日の祝辞は撤回させてくれ。俺はどうやらゆきさんが他の誰かにその瞳を向けることが許せないようだ」

煉獄様の言葉がひとつひとつ胸の中にふわりふわりと落ちてくる。
柔らかい心のうちを凶暴な嵐が吹くような苦しさと喜びを甘受して、相反するその二つをどうしようもなくて胸の前で両手を握ると煉獄様が二人の間の二歩の距離を詰めてその大きな手でぎゅうと握っていた私の手を包み込む。

「強く握ると跡がついてしまうぞ」
「あ…」

指先のこわばりを解いて両の指先をそっと包まれる。
大きくて硬い手が驚くほど熱くて指先から燃えていくようだ。

「すまない、勝手に触れてしまった」

指先の骨ばった関節ををすりと煉獄様の親指が撫でる仕草がどことなく淫美に見える。
どんな顔をしていらっしゃるのだろうかと恥ずかしさを耐えてそろりと指先に落としていた視線を上げると、そこにはいつも通り自信に満ちた笑みを浮かべた煉獄様がいた。
こちらばかりが翻弄されているようであり、勤めて平静を保った顔でその目を見返すと嬉しそうに相貌を崩す姿になんと素直な人であろうかと驚くとともに、彼の前で虚勢を張る意味などないのだとふ、と肩の力が抜ける。

「また…会いに来てくださいますか?」
「あぁ、勿論だ。酷なことを言っていると分かっているが、どうか待っていてほしい」
「…はい。いつもご無事を祈っております」

愚かだと、客観視したもう一人の自分が言う。
いつ死ぬか分からない人だ。どこにいて、どんな危険にあっているかも分からぬのだ。あぁなんという恐怖か。
私はこの瞬間に昨日までの自身とは違う生き物になってしまったようだ。
目覚めたばかりの感情が支配する心が苦しいと叫ぶ。

それでもこの指先に灯った熱を、この眼差しを、私もまた煉獄様と同じように他の誰にも渡したくなかった。