花と獅子

ひと匙のマキナ


どこかでゆきが泣いている。

押し殺した声が、硬く閉ざされた桃色の唇を震わせている。黒い瞳から泉のように湧き出る涙が、白い頬を濡らし、彼女の纏う花弁のような洋装の布地に次々に染みを作っていく。
どうしたんだ、どこか痛いのか。そう声をかけたいのに、杏寿郎の腕はぴくりとも動かない。瞼すら縫い付けられたかのように、開かない。そう気づいた途端、身体中が鉛のように重たく地面に飲み込まれてしまうような感覚に襲われた。どうして動けないのだろうか、俺は何をしていたのだろうか、直前の記憶が何一つ分からず、この暗闇が現実のものなのか、夢の中なのかさえも曖昧だ。
それでもどこかから聞こえてくる、か細い声は紛れもなくゆきのものだ。人に涙を見せることなど滅多にない、あの気高い令嬢がこれほど悲嘆にくれている。起きなくては、ゆきの涙を止めてやらねば。


「なにを泣いている」

そう、言葉にしたと思ったが自分の喉から搾り出された音はひゅうひゅうという風のような声だった。引きつる喉の痛みに加えて、ようやく開くことのできた瞼から差し込む光に目が眩む。
「杏寿郎さん…?」
ゆきの声がぼわんと膜を張った中で響く。彼女の姿を探してもう一度目を開く。ぼやけた視界の中でこちらに向かって手を伸ばす人がいる。頬に触れたその手の温もりが、じんわりと身体中に広がっていくようだ。頭から肩を通り指先まで自分の体の感覚が繋がっていくとともに、鈍い痛みと痺れを感じる。
「杏寿郎さん、分かりますか?」
ようやく像を結んだ視界にはゆきが黒い瞳に涙をたっぷりと溜めてこちらを覗き込んでいる。ゆき、と呼び掛けたつもりなのにやはり喉からは風のような音しか出なかった。代わりにその頬を撫でようと腕を上げようとしても思うように動かず、自身の状況が分からず困惑する。
「あぁ、よかった。目を開けてくださって、本当によかった…。今しのぶ様をお呼びしてきます」
ゆきは杏寿郎の頬に添えた手を離すと、くるりと身を翻して杏寿郎の視界から消えてしまう。

一人きりになると、周りを見る余裕が生まれぐるりと見える範囲を確認する。しのぶを呼びにいったことからここは蝶屋敷なのだろう。白い布団の下の己の体がどうなっているのかはよく分からない。窓から見える青空は白い雲がぽつぽつと浮いており、長閑な午後の空気を感じることができた。ゆきの様子から随分と心配をかけたようだと、申し訳なく思いながらどうしてこうなったのかと思い出そうと記憶の糸を辿る。そうしているうちに珍しく涙ぐんだ胡蝶や、顔馴染み隠や隊士が次々に集まってきた。皆に口を揃えてよかった、と言われ泣いたり笑ったりと賑やかになる。
「さぁ皆さん部屋を出てください。重傷者の診察をします」
そう言ってぱんと手を打った胡蝶の鶴の一声で病室はまた穏やかな午後へと戻る。また後で、と名残惜しげに杏寿郎の手から指先を話したゆきの後ろ姿を見送り、寝台の側の椅子に腰掛けた胡蝶に目を向ける。

言葉を選ぶように、逡巡していた胡蝶が大きな目で真っ直ぐにこちらを見る。
「記憶はどこまでありますか?」
「…あまり、はっきりしていない。汽車の鬼を倒した後、新たな上限の鬼と交戦し……そのあたりから朧げだ」
「そうですか。では竈門隊士から伺った経緯と、貴方の負った傷についてのお話と、そして今後のことをお話しましょう」
「頼む」
すぅと美しい唇が息を吸い込む。落ち着いた音色で淡々と紡がれる話にじっと耳を傾けていると、どうやら自分は想像していたよりも重症だと分かってきた。身体のこと、鬼殺隊のこと、今後が全くと言っていいほど見えなくなったことに戸惑い、返す言葉が見つからなかった。黙り込んだ杏寿郎の様子に、胡蝶もいたわしげに眉を下げる。
「まだしばらくは絶対安静です。呼吸を使おうなどと思わないでくださいね。煉獄さん、ここからの方が貴方にとっては辛いかもしれません…」

また明日の朝に診察に来ると言って胡蝶が出ていくと、入れ違いでゆきがやって来た。涙の跡が残った目元は赤く腫れている。それでも柔らかな微笑みを浮かべて側に来てくれたゆきは、相変わらず美しく、ひどく懐かしい。水を飲ませてもらい、わずかに動く指先でゆきの手を握り返すとゆきはまた涙を零しながら笑う。
「泣かないでくれ、俺は君の泣き顔に一等弱いのだ」
「はい、でも、これは嬉し涙です。よかった、杏寿郎さん、本当によかった」
「約束しただろう…君の元に帰ると」
「えぇ。そうですよ、ちゃんと帰って来てくださいました」
掠れた声では格好も付かないな、と思いながらゆきの顔を見ているとそのまままた眠り込んでしまった。ゆきの泣き声は、もう聞こえない。そのことに安心して眠りの波に身を任せた。


胡蝶の言った通り、それからの日々の方が杏寿郎には辛いものであった。
聞かされていた通り、左目は潰れ体の臓器もまだうまく動いていないらしく寝台で体を起こすのがやっとであった。力の入らない体に愕然としながらも、どこか冷静な思考でもう日輪刀は握れないだろうと思う。訓練でどうにかなるものではない。この傷は剣士として生きていくには致命傷である。この先歩けるようになるのか、一人で生活が出来るのかということすらも、全く想像が出来ないほどに杏寿郎の身体は以前とは違っていた。それでも杏寿郎の機能回復に向けた懸命な訓練と、ゆきや千寿郎が甲斐甲斐しく世話をやいいてくれるおかげで、日常生活がおくれるほどには回復することができた。


「ふぅ、ここが限界か」
歩行ができるようになったことで、蝶屋敷からは退院し炎柱邸に戻ると毎朝散歩に出るのが日課になった。コン、と軽い音を立てる飴色の杖を相棒になんとか休まずに歩ける距離を日々伸ばしている。
「焦りは禁物ですよ、杏寿郎さん」
着物姿で隣を付き添ってくれるゆきは、「奥」の組織の取りまとめに忙しいはずなのに三日と開けずに炎柱邸に泊まっていた。婚前だと彼女の兄上が怒っている様子が目に見えるが、彼女曰く看病であると言い張っているそうだ。

日傘を畳んだゆきは木陰で休む杏寿郎の額をハンカチで拭ってくれた。ふわりと香る甘やかな匂いや、手首の白さに胸がつきりと痛む。

ゆきは今もこんな男の妻となることを望んでいるのだろうか。

強靭な肉体も、人生をかけた剣技も全て過去のものだ。生きながらえた身で贅沢を言うつもりはないが、今の杏寿郎にあるのは杖が無くては長く歩けない身体、片目のない醜い傷のある顔、地位もなく、鬼殺隊すらも引退した男に、彼女の伴侶となる資格はあるのだろうか。
ゆきの慈悲深さが杏寿郎の元から去れない理由になっているのではないだろうか。美しく聡明なゆきに見合うのは、自分のような男ではない。かつての自分ですらも、彼女には相応しくなかったのに。それでも手を伸ばすことを諦めきれなかった。嫋やかな雰囲気の奥に、誰にも負けない意思の強さを持つゆきの側で、彼女の唯一になりたかった。

「杏寿郎さん、あちらをご覧になって」

思考に沈む杏寿郎に、ゆきが明るい声で開けた視界に映る穏やかな山々を指差す。葉先を紅く染め始めた木々の鮮やかな色彩が美しい。
「もう秋がそこまで来ているな」
「私、杏寿郎さんに出会ってから秋が一番好きです。目に映る世界が黄色に橙、紅と貴方の色ばかり…」
そう言って肩に流れる少し伸びた杏寿郎の髪を指先で撫でたゆきは、以前と変わらない甘やかな眼差しでこちらを見上げる。愛おしいと、慈しむような彼女のその眼差しに己は見合うのだろうか。歩けるまでに回復し、炎柱の名を御館様にお返しした今は炎柱邸からもそろそろ居を移さねばならない。

いつまでもゆきを自分の側に縛り付けていてはいけない。

「ゆきさんの世界はもっと広いだろう。俺だけを見なくとも、他に美しく豊かなものがたくさんある」
そっと白い指を掴み、毛先から離すと、ゆきは大きな目を戸惑ったように揺らす。この手を引く役目を与えて欲しいと願ったのは確かに自分だ。だがその手を離すべき時が来たのだ。彼女には数多の手が差し出されるだろう。

そうだ、ゆきに見合う、幸福だけを与えてくれる手を取るべきなのだ。

「杏寿郎さん…?」
「君との婚約は白紙に戻そう。兄上には俺から話す。君の名誉が傷つかぬように、どのような理由でも公表してもかまわないから」
こちらを見上げる彼女の黒檀の瞳が大きく見開かれ、薄らと開かれた桜色の唇から小さな声が漏れる。
「なにを…」
「鬼殺隊を引退した時点で考えていたことだ。君の優しさに甘え、なかなか言い出せなかったが君は俺に縛られる必要はない。今からでも兄上のすすめる名家の令息と縁を結べばいいだろう。君ほど美しく、優しい人を妻に望まぬ男はいないはずだ」
見開かれた瞳が揺れている。きゅっと眉を寄せた彼女の顔には驚きと悲しみが混ざり合い、そんな顔を自分がさせていることに胸が痛くなる。
「杏寿郎さん、どうしてそんな酷いこと仰るのです。どうして、離れようとなさるのですか」
ゆきの指が縋るように杏寿郎の着物を掴む。胸元に寄せられた彼女の身体は小さく震えている。
「……いまの俺は君に相応しくない。幸せどころか、君に要らぬ苦労をかけるだけだ。君は日向を歩く人だ。日の当たる、暖かなひだまりのような人が、日陰にいてはいけない」
ゆきはきゅっと唇を引き結ぶと杏寿郎の胸に頬を押し付けるようにして、小さな子供がするように頭を振る。
「私が幸せでないなどと、勝手にお決めにならないで。杏寿郎さんと生きていくことが、どうして不幸なのです。貴方の苦しみも、悲しみも、共に分かち合いたいです。貴方が私を支えて、守ってくれたように私も貴方のことを支えて、守りたいのです」

しがみつくゆきの細い体を宥めるように抱きしめ、彼女の言葉を嬉しいと感じてしまう自分の弱い心を恨めしく思う。こんな男の元に留めていてはいけないと、手を離してやらねばと、頭では理解しているのに、彼女を抱きしめる身体は正直に離したくないというように腕の力を緩めることも出来ない。
「…片目が欠けて、醜い傷が残っている。真っ直ぐに歩くことも出来ず、老人のように杖を頼りにしているような男だぞ? 美しい君の手を引いて歩いてやることももう出来ないんだ」
「お顔の傷すら私には愛おしい。片方が見えぬのならば、私がその目になります。それに手を引いて歩けなくとも、二人寄り添って歩くことは出来ます。杏寿郎さん、私は貴方のそばでしか幸せになれないのです。貴方は私を幸せにしてくださるのでしょう?」

杏寿郎の胸から顔を上げたゆきの双眸に見つめられると、己の負けだと気づく。
言葉では離れようと言いながらも、自分はこの人を失っては生きていけないだろう。
身を焦がすほどの想いを消し去ることなど出来ない。ゆきに側にいて欲しい。前と同じようには戻れなくとも、彼女のもつ春のひだまり様なあの眼差しが向けられる先が、この先もずっと自分だけであって欲しいと望まずにはいられない。
「あぁ。そうだな。俺が間違っていた。……こんな俺のそばでも、共にいて欲しい」

ゆきは何度も頷いて、ようやくその顔に微笑みを浮かべてくれた。彼女の笑みを己だけに向けて欲しいと望んでいたあの頃の願い通り、自分だけに注がれる眼差しには溢れるほどの愛おしさが感じられた。
ゆきをもう一度強く抱きしめると、杏寿郎の頬にも自然と笑みを浮かぶ。


はじめからどうしても欲しいと思ったのは貴女だけだった。
もう彼女を守ることは出来なくとも、二人寄り添って生きていくことは出来るのだ。それがどんな道であっても、二人で。