花と獅子

花の丘のミカゲ


「おはようございます、ゆきさん」

蝶屋敷の主人は今日も美しい顔に微笑みを浮かべて迎えてくれた。いつもと変わらないその対応にゆきも同じ様に挨拶を返す。

「私は部屋にいますので、何かあればいつでも呼んでくださいね」
「はい、いつもありがとうございます」

通い慣れた屋敷の中を一人進む。もう何度潜ったか分からない病室の前で一つ息を吐く。からからと木の扉を滑らせこじんまりとした個室の病室に入ると、消毒液の匂いに混じって花の香りがする。半分だけ開けられたガラス窓から吹き込む柔らかい風が白いカーテンをふわりと揺らし、心地の良い空気が頬を撫でていく。

「杏寿郎さん、おはようございます。今日は良いお天気ですよ」

ゆきは寝台のそばに置かれた椅子に腰かけると、目を瞑ったまま返事のない男の顔を覗き込む。額から左目を覆う様に巻かれた包帯以外は、以前と変わらない愛しい恋人は今日も目を開ける気配はない。白い病院服を着た杏寿郎は、薄く唇を開いたままその陽だまりのような琥珀色の瞳をかれこれ一月以上閉ざしていた。

「お花を活けてくださったのですね、すみさんかなほさんでしょうか。後でお礼を言っておきましょう。良い香りだわ…」

ゆきは杏寿郎に話しかけながら、そっと掛け布団の中に両手を入れると温かな杏寿郎の手を握る。日輪刀を握り続けた男の掌は、硬くかさついている。その手を両手で握りしめていると、ゆきの瞳には薄らと涙の膜が張っていた。

「今日はなんのお話をしましょうか。千寿郎さんとお父上のお話はもう聞かれましたか。先日お父上がいらっしゃったでしょう、貴方がこうしてお昼寝をされてから初めてでしたね。貴方にお話にはならなかったそうですが、帰ってからはぴたりとお酒をお止めになっていますよ」

杏寿郎からの返事はなくとも、ゆきには彼が自分の話を嬉しそうに口角を上げて聞いているように感じる。握った手には力がなく、大事なものに触れるようにそっと握りかえしてくれた手の感覚が懐かしかった。泣かないでいようと思うのに、毎度病室で二人きりになるとゆきはぽたりぽたりと白い寝具に涙を零してしまう。いつか目を覚ましてくれると思いながらも、眠り続ける恋人を前にいつも通りではいられなかった。


あの夜、煉獄杏寿郎が瀕死の重傷を負っていたことは誰の目にも明らかだった。鬼の指摘した通り、左目は潰れ、肋が折れ、臓器に傷を負っており、なにより血を流しすぎたのだ。ゆきは震える声で杏寿郎の名を呼ぶと、杏寿郎は隠の手で運ばれながら無理に笑って見せた。

「大丈夫だから泣かないでくれ。君に泣かれるのが一番堪える」

そう言って杏寿郎は困った様に眉を下げた。ゆきはそれを聞いてごしごしと目元を擦ると、まだ涙の跡が残る顔でなんとか口元に微笑みを浮かべて頷いた。心配でどうにかなりそうだけれど、医者ではない自分が彼のためにできることは側で涙を流すことではない。隠達が応急処置を施した杏寿郎を抱えて蝶屋敷へと急ぎ走る様子を見送ったゆきは、自分ができることをしようと鈴音に一つお願いをする。馴染みの医者である先生の元へ行き、杏寿郎のために輸血の処置をして欲しいと伝言を託す。肩を痛めた自分と一緒に行動するより、鈴音一人で行かせた方が早いはずだ。鈴音は一度は断ったものの、涙ながらに頷いて走り出した。

乗客の救助に加えて方々への連絡のために現場に立ち続けたゆきも、昼になる頃には限界を迎えた。徹夜した上に、鬼からの攻撃を受けていたゆきはかくんと膝の力が抜けるとそれ以上立ち上がれなかった。慌てた隠達が蝶屋敷へと運ぶ手筈を整えているところに鈴音が戻って来た。力なく座り込んだ主人の青白い顔に、鈴音は急ぎ車を手配して隠の代わりにゆきに付き添い蝶屋敷へと車を走らせた。

「お嬢様、無理をされてはなりません。貴女にまでなにかあったら…」
「ごめんなさい。でもねあの場には私が必要だったと思うの。それに、こんな怪我や疲れなど煉獄様に比べればかすり傷だわ。本当に、あの大怪我では…」

ゆきは血に塗れた恋人の姿を思い出して、言葉を詰まらせた。
止血や怪我の縫合などでどうにかなる傷なのだろうか。
私はもう一度彼と生きて会えるのだろうか。
助かると思いたい気持ちと、それ以上の恐れがゆきの胸を締め付ける。殴打された肩よりも、胸の痛みの方が何十倍も辛い。

「そのために、先生をお呼びになったのでしょう。先生は素晴らしいお医者様です。先生の持つ新しい技術と、これまで何人もの隊士を救って下さった蟲柱の手にかかれば煉獄様はきっと助かります。あの二人よりも腕のいいお医者様などおりません」

鈴音はいつも通りの冷静な口調で言い切った。その言葉に何度も頷きながら、ゆきはただひたすらに杏寿郎のために祈った。神様がいらっしゃるのなら、なにを差し出してもいいから彼を救ってくださいと。

彼が生きてさえいてくれれば他にはなにもいらない。



ゆきが次に杏寿郎に会ったときには彼の痛々しい傷は清潔で真っ白な包帯に覆われていた。

「一命は取り止めました」

そう教えてくれたしのぶの言葉に安堵の息を吐くと、涙腺が決壊したように涙がつぎつぎにこぼれ落ちる。よかった、もう一度会えた、と喜びからひとしきり泣き終えると、自身も肩の骨が外れていたらしく、つきっきりで杏寿郎の治療に当たっていたしのぶと先生に叱られながら隣の寝台で手当てを受けた。

「煉獄さんの傷は全て塞いでいます。一時は出血多量で危ない状態でしたが、ゆきさんの恩師だと言うこちらのお医者様が輸血というものをしてくださいました。おかげで命の危機は脱しています」
「しのぶサン、とってもいいお医者様だね。それにしても、まさかお嬢様の恋人がこんな怪我をしているなんて…まるで凶暴な獣に襲われたみたいな傷だったよ。輸血もね、ちゃーんとあの時から技術の確立に向けてやってきた甲斐がありますよ」

しのぶと先生は同じ医学の道を進む者同士、この短時間で何か通じるものがあったのだろう。二人の顔には患者を救った後の疲労と興奮が浮かんでいた。

「本当にありがとうございます。お二人にはなんと感謝すればいいのかわかりません。煉獄様をお救いくださり、ありがとうございます」
「顔をあげてくださいゆきさん。ただ楽観はできない状況に変わりはありません…」
「そうなんだ。彼の体の中の傷は、僕らにはどうしようもない。血は止めたけれど、傷を負った臓器が前と同じ様に機能するかどうかは何とも言えない…それに…」

珍しく言葉を濁す先生の様子に、ベッドの上に横たわる杏寿郎の顔を見つめる。白い顔は生気が薄く、片方だけになってしまった大きな目が心なしか窪んでいる様な気がした。

「意識がいつ戻るか、私たちにも分からないのです。運ばれた時点で煉獄さんは昏睡状態でした。心臓は動いていますし、呼吸もありますが、意識はいつ戻るのか誰にもわかりません」
「明日目覚めるかもしれないし、数週間、数ヶ月寝たきりかもしれないですね。もしかしたら、ずっとこのままという可能性もなくはありません」

三人の目は自然と杏寿郎に注がれた。杏寿郎が助かったことに喜んでいた心に、急に現実という硬く無慈悲な塊が押し寄せる。一体いつまで眠っているか分からないということは、看病もいつまで続くか分からない。ゆきは鬼殺隊を支える「奥」の仕事をやりながら、その対応が出来るのだろうか。今だって明日には事業の報告書をまとめなければならないし、隠たちからの要請や産屋敷家への報告にも行かねばならない。それでも、彼の為に自分ができることは何一つ諦めたくない。

「分かりました。待つしかないということですね。でも、私は彼が絶対に目を覚ますと確信しております。決して私を置いていかないと、杏寿郎さんは私にそう約束してくださった。彼は約束を違える人ではありません」

言葉にしながら、ゆきは己に言い聞かせていた。自分が信じなければ、誰が信じるというのだろうか。以前彼が言っていた、暗い海を今も一人泳いでいるのだろうか。荒れ狂う荒波の中を、光を探してもがいているのだろうか。彼のためにできることは毎日明かりを絶やさず、灯し続けることだ。帰ってくる場所はここだと、伝え続けることだけだ。



一頻り杏寿郎に最近の出来事を話ていると、蝶屋敷の庭の方から「お昼ですよー」と少女の高い声が響いた。そうか、もう正午を過ぎたのかと鞄の中の懐中時計を確かめる。
ここでずっと杏寿郎の隣でその手を握り続けていたい。もし許されるのならば、一瞬も離れずにそばにいたかった。それでもゆきは、自分のやるべきことを放り出すことはできない。離れ難く思いながら杏寿郎の手を柔らかな掛け布団の中に戻す。

「杏寿郎さん、また参ります。次はその目に私を映してくださると嬉しいです」

腕を伸ばし、枕の上に乗った顔をゆっくりと撫でる。秀でた額、凛々しい眉、滑らかな頬、そして柔らかな唇へと指先を滑らせる。彼が眠り続けてから、毎回別れ際におまじないの様に触れていた。

ゆきの指が離れると、ぴくりと僅かに残された瞳を覆う瞼が震えた。