花と獅子

或る日の鈴音のお使い


ゆきお嬢様の救出劇の翌日、喜壱様はお言葉通りゆき様をベッドから絶対に出すなとご自身のメイドに言い聞かせて、名残惜しげに外出された。今回の原因の一人である、ゆき様のもう一人の兄上を断罪するために…。きっと恐ろしい兄弟喧嘩が始まることだろう。

ゆき様はお兄様からの過剰なスキンシップをやんわりと宥めてお見送りすると、松方本家の自室のベッドの上で困ったように眉を下げて私を見るのだった。

「鈴音、すみませんがお使いをお願いできますか?」



「ごめんください」
軍部の詰所を訪ねると、件の隊士は上官にこってり絞られているところであった。

「昨日は暴漢から助けてくださり誠にありがとうございました。私は松方家の女中をしております、鈴音と申します。主人からお礼の文と皆様に差し入れを預かっております」
宇髄様に薬を打たれた隊士は花菱と言った。失神・軍服の紛失への叱責に青ざめていたが、先ほどまで怒っていた上官が手紙を読むなりお手柄だ!と笑顔を見せたことで、鈴音を見やり感謝の涙を浮かべていた。

「綺麗な女人がこんなところに何用かと思いましたが、松方様のご女中であられましたか!いやはや、汚いところではありますが座ってください」

勧められた中央の簡素な椅子にお礼を言って腰かけると、わらわらと隊士たちが集まってきた。取り囲まれ好機の視線を四方から浴びると、どこをみていいのか分からず結局花菱殿に視線を留めることにした。

「…あの、私は本当にあなたをお助けしたのでしょうか」

小声で確認してくる隊士は、なんとも言えない顔で鈴音は思わず笑ってしまう。

「まぁ、花菱様は謙虚な方…貴方のおかげで私は無事なのですよ」

どうして気を失っていたかだとか、軍服はどうして無かったのか、詳しいことは話さずににっこりと微笑む。
これもゆき様のよくやる技であった。

『話さなくても、相手が勝手に都合のいいように解釈してくれのよ』
悪戯っ子のように片方の眉を上げて宣う主人には口では絶対に勝てない。

「花菱、お前やるじゃねえか!」「お前が戦ってる間にご婦人が無事だったんだ、気絶した甲斐があったな」
わはは、とその場で笑い話になったので、これでもう彼は大丈夫だろう。

「そうでした、お礼の品として当家自慢のコロッケをお持ちしています。どうぞ皆さんで召し上がってください」

料理長が包んでくれた包みを解いて差し出すと、わっとたくさんの手が伸びてきた。
「あぁうまい!」「俺まだ食べてない!」「こら、お前たち上官に先駆けて食べるな!」「美味しい!」
瞬く間に数を減らすコロッケと、賑やかな声に鈴音も自然と頬が緩む。

「気に入っていただけてよかったです、主人にも伝えておきます」

これでゆき様からのお使いは無事に達成した。そろそろ帰ろうかという時に、一人の隊士が恐る恐るといった体で声をかけてきた。

「あの、君のご主人ってもしかして松方家のご令嬢かい?」
「はい、ゆき様です」
ゆきの名が出ると、その場の隊士たちからほうっとため息が漏れた。

「実は皆で通学途中のゆき様を一度お見かけしたことがあるのだ。まるで天女のような御仁だったね」
「そうなんです。私も毎朝、天からの御使かと見間違います」

鈴音は普段口数が多い方ではなかったが、ゆきのことになると饒舌になる。周りからも次々に感嘆の言葉が出る。

「キリストのマリア様みたいだよね、白い肌、華奢な手足…」
「あぁ、大きな瞳に艶のある長い髪…一度でいいから付き合いたい!」

「無論却下です」

鈴音の一言が面白かったのか、部屋の中がわっとまた盛り上がった。

「松方家のお嬢様だ、それなりの方にしか嫁がれないさ」
「俺たちみたいな庶民は、こっそり見守ってることで満足さ」


ゆき様には世界で一等幸せになっていただきたい。それこそ格好良くて優しくてゆき様を一番に思ってくださる絵本の王子様の様な殿方と。
きっと彼女はそんな幸せを思い描いてくれていないのだ。それが最近とても悲しい。
詰所の前で大勢に見送られて帰るのは非常に目立ち、些か恥ずかしかった。もう一度頭を下げてから人力車に揺られていると、ぼんやりと昔のことが思い出された。


鈴音はゆきのこういうところがすきだった。
日々の中で出会った名前のない人々を思いやって、慈しみ、彼女のもつたくさんの美しい輝きの中から「なにがいいかな」と小さな幸せを分け与えるようなそんな優しさがすきだ。
偽善といえばそうかもしれない。
でもその偽善に救われる人がいるならば、それはもう真実であり、救われた人間にとっては神様である。

かくいう私も、ゆき様には返しきれない恩がある。

鬼、というものにそれまでの人生の全てを奪われて、絶望のなか、松方の家に下働きとして引き取られ、仕事を与えれれた。
はじめは頭がお花畑のお嬢様の気まぐれな上っ面な優しさに思えて、ひどく反抗した。
こんなところにいてはいけない、私はあの鬼に復讐をするのだと闘志を燃やし、衣食住とお世話になった松方の家を飛び出したのは半年ほど経ったころだった。
行く宛がはっきりとあるわけでもない。道端で夜を越すたびに、鬼が出るのではないかとびくつきながら、寒さと飢えで心がゆっくりと死んでいくような思いをしても帰りたいとは思わなかった。
ようやく出会えた育てに鬼殺の教えを乞うたが、剣技の才がなく最終戦別にもいけなかった。所詮こんなものだ。
自分のちっぽけさに嫌気がさして、運命を呪った。
隠となるか、と聞かれ、行先もないので頷いた私の元にゆき様が現れたのはそれから3日目のことだった。

「鈴音!」
2年以上会っていない間に彼女はもう少女と呼ぶには大人になっていた。
それでも大きな瞳は相も変わらず幸福で輝くようで、その目に映る自分の顔がひどく幼く見えた。
おかしなことだ、私の方が年上だと言うのに。月日が逆行したかのような錯覚に言葉をなくして佇む体をゆきの細い腕がぎゅうと抱きしめてくれた。
「生きていてくれて本当に良かった・・・」
涙の間に聞こえた声に、松方の家を出てから枯れた涙が溢れ出た。

私が生きていて、喜んでくれる人がいるのだ。
家を出た不義理も、私の愚かさも、不甲斐なさも全部許すように涙を流して微笑んでくれるゆきにこの人に私の一生を預けようと思った。
こんな私でも探し続けてくれた人。

「もう一度私のもとに帰ってきてくれたら、許してあげる」

それからずっと、隠としても奥としてもゆき様に仕えている。
たとえばこの先、鬼を滅ぼすことができて、平和な日々がやってきても、私は死ぬまでゆき様のお近くにいるだろう。

それだけは確信している。


「ただいま戻りました」

さぁ、お嬢様の次のお使いをお伺いしなくては。