花と獅子

青海原のホロウ


それは甘美な美酒でありながら、一度口にすればもう一口、二口と求めずにはいられない毒薬のようだ。


初めて煉獄様と交わした口づけを思い出さない日はなかった。鏡の中に映る自身の顔に化粧を施しながら、人差し指でそっと唇に触れる。煉獄様との口づけを再現する様に、ふに、と押すと、あの時の彼の目線や、触れ合っていた腕や体の温もりまでもが鮮明に蘇る。

手を握ることや腕を組むことと、口づけることはどうしてこうも違うのだろう。体の一部を触れ合わせるという意味では同じはずなのに、唇と唇を合わせただけで、どうしてあんなに満ち足りて気持ちが通じ合った様に感じるのだろうか。

「お嬢様、お着物をお持ちしました」

扉の外側からかけられた鈴音の声で、ぼんやりと夢見る様だった思考が現実に戻ってくる。触れたままの唇から指を離し、取り繕う様に髪を整える。ふと鏡の中の潤んだ目をした自分が知らない女に見えた。


「お嬢様、またお綺麗になられましたね」
「そう?化粧品も特に変えていないけれど…」
「……煉獄様のおかげですかね」

その言葉に首を捻って、着物を着付けてくれている鈴音を見る。艶やかな藤の刺繍が入った着物は、黄味がかった柔らかな白が美しかった。背後から抱き込む様に腕を伸ばして帯を結びながら、いつもと変わらないツンとした表情で鈴音は続ける。

「もちろん前からお美しかったですが、近頃は花の盛りのような美しさです。……幸せそうなお顔が多くなったからでしょうか」
「もう…本当に鈴音は身内贔屓なんだから」

鈴音に生真面目に容姿を褒められることが恥ずかしく、熱を持った頬を冷ますように指先を軽く押し当てる。

「恋は女性を美しくするというのは、本当ですね」

鏡越しに目があった鈴音は澄まし顔で揶揄ってくる。

恋だと認めることができたおかげで今の私があるのだと、先生の言葉が脳裏に蘇る。制御できない強い気持ちが、これだけ胸を高鳴らせるのだ。煉獄様のことを思うだけで苦しい様な甘い痛みが芽生える。

『見返りを求めずとも相手に与えること』

それが愛だと先生は仰っていた。愛している、ということはどういうことなのだろう。今の私は煉獄様を愛しているのではないのだろうか。恋と愛は違うんだろうか。
一つ分かって、また分からなくなっていく。感情に名前があるのだから、きっとこの世の多くの人々が同じ様に誰かを思い、同じ様に思われているのだろう。

「難しいわ…」

薔薇色に頬を染めた主人の溢したため息の様な独り言を、鈴音は聞こえたのか聞こえていないのか、小さく微笑むだけだった。


もう何度目になるだろうか、鈴音とともに訪れた炎柱邸は今日も隠の手によってきちんと手入れの行き届いた佇まいであった。
自動車から降りると、うっすらと雪の積もった石畳を歩く。ブーツの中の指先が寒さでぴりりと縮こまっていたが、足取りは軽い。外套の襟を片手で寄せる様に掴み、玄関口に立つと、声をかける前に引き戸が開く。

「ゆきさん、待っていた」

にこりと笑みを浮かべる煉獄様はもう出かける準備は万端のようで、真っ黒な鬼殺隊の隊服の上に同じく黒の外套を羽織った姿であった。その顔を見ると考えるよりも先に体が動いてしまう。数歩の距離を縮めて小さな声で言葉を零す。

「煉獄様、お会いしたかったです」
「うん、俺もだ」

流れる様に指先を捉えられ、無骨な硬い皮膚がすりと薬指を撫でる。会えなかった日々を埋める様に煉獄様に寄り添うと、彼もまた方時も離したくないと言う様に、どこにいくにも手を引いてくれるのだった。


鈴音を炎柱邸に残し、煉獄様の大きな手に引かれて今日の目的である産屋敷邸を目指す。歩いていると時折吹き付ける冬の冷たい澄んだ空気が心地いいくらい、頬が熱を持っていた。煉獄様と隣に並んで歩くだけで、どうしようもなく幸せだと感じる。とくとくと脈を打つ心音や、この気持ちが触れ合ったところから伝わってしまうのではないかと不安になるほどだ。

白化粧の道はまだほとんど踏まれておらず、雪の上に二人の大小の足跡がくっきりと残っていく。その足跡までもとっておきたいと思う。家々の屋根も田畑も白く、世界の輪郭が解けていく様な白さの中で煉獄様の髪がより一層鮮やかに輝いていた。

「ゆきさん」
「どうされましたか、煉獄様」
「…杏寿郎と呼んでくれと前に言っただろう」
「あ、………き、杏寿郎さん」
「うむ!」

まだまだ呼び慣れない愛おしい名前を、噛み締める様に声に出すと、嬉しそうに目尻を下げて煉獄様が笑う。

「ゆきさんに聞きたかったことがあるんだ。気を悪くしないで欲しいんだが……どうして君はこんな辛い役目を背負ったんだ?君のあの生家ならば、鬼殺隊になど関わらずとも生きていけただろう」

眉を下げこちらの様子を伺う煉獄様に、ぱちりと瞬く。どうして、どうしてだろうか。改めて問われた言葉にしばらく逡巡する。以前、千寿郎さんに話した様に、兄と同じ様に認められたかったからというのも一つある。でもそれだけではない。

「先生に教えていただいたノブリスオブリージュ、という言葉がずっと胸にあるのです。持つ者の義務、というのが直訳でしょうか…確かに私は恵まれた家に生まれました。楽をしようと思えば毎日遊んで暮らすこともできるでしょう。けれど、松方の家と縁が深い鬼殺隊の皆様のために、微力ながらでも出来ることがあった。それだけという訳ではないのですが、、私は私の持ちうる全てを持って、為すべきことをしたいのです」

言い終わってから、正直に言葉にしたことだったが少し恥ずかしく思えてきて、隣の煉獄様を見上げると琥珀の瞳がじっとこちらを見ていた。

「ゆきさんは…そうか。そうだっんだな」
「杏寿郎さん?」

懐かしいものを見る様に目を細めた煉獄様は、繋いでいた手をよりしっかりと繋ぐ様に指を絡める。

「俺の母も、君と同じ様なことを言っていた。人より強く生まれたことに意味はあり、その意味をしっかりと胸に刻んで生きていけと教えてくれた。きっと母が生きていたら、君と話が合っただろう」

二人して足が止まっていた。しばらくじっとお互いの瞳を見つめ合い、言葉に出来ないままゆっくりと歩き出す。多くの言葉を交わしたわけではないのに、このやりとりで私たちは深いところで隣に立つことが出来た様な気がした。鬼に立ち向かう背中を同じ様に守ることは出来ないけれど、心の持ち様だけは同じであると。この手に剣はなくとも、私は貴方と同じ様にこの世界に挑むのだと。


「…緊張しているか?」
「いいえ…少し面映いですが…」
「君でも照れるのだな」

産屋敷邸の門を潜り、大きな玄関に二人で並ぶ。小さな声で話していると、奥からあまね様がやってくる。今日もしっとりとしたお美しいお姿で、大きな目を細めて迎えてくださった。

「いらっしゃいませ、さぁ上がってください」
「お邪魔いたします」
「失礼いたします」

にこりと笑うあまね様に導かれて客間に入ると、すでに耀哉様がいらっしゃった。

「よく来てくれたね。杏寿郎、ゆき」
「御館様におかれましては、」
「いいよ、杏寿郎。今日は柱合会議じゃないんだ。楽にしておくれ」

落ち着いた佇まいの耀哉様に促され、煉獄様は口上を止めるとありがとうございます、と礼を言う。

「今日は嬉しい報告を聞けると思っているんだけれど、合っているかい?」

柔らかな微笑みを向けられて、煉獄様とちらりと目を合わせる。

「本日は、婚約のご報告に伺いました」


煉獄様の溌剌とした声に、耀哉様は一つ小さく頷いてもう一度柔らかく微笑んでくださった。