花と獅子

カレイドの絶景


竈門炭治郎が松方ゆきと初めて会ったのは、蝶屋敷でのことだった。

柱合会議での騒動の後、身柄を預かってくれた胡蝶しのぶは常に穏やかな笑顔を浮かべつつもその真意は決して表に出そうとしない、炭治郎にとってはとても謎めいた女性だ。そんな彼女が心底楽しそうに談笑する姿に、思わず足を止めてしまった。年頃の少女たちの笑い声は、鳥の囀りのように高く軽やかで、男の自分などが踏み入ればたちまち飛び去ってしまうのではないかと無意識に息を潜めてしまう。
古蝶しのぶに向かい合う洋装の女性は、炭治郎が今まで出会ったなかでも一等上品な人だった。佇まいから漂う品の良い淑やかさに、胸がどきりとした。

「あら竈門くん」
「あっ!しのぶさん、あの、すみません!」

華やかな二人の姿に見惚れてしまったせいだろう、しのぶがなんの前触れもなしに、くるりとこちらを振り向いた。にこやかな表情ではあったが、慌てて覗き見ていたことをしのぶに謝る。つられるようにこちらに目を向けた女性は、口もとに儚げな微笑みを浮かべると丁寧な会釈をした。

「どうして謝るんですか?なにかやましいことでも?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど…なんとなく?」

二人は廊下からも見える位置に座っていたのだから、足を止めてしまったことは悪いことではないはずだ。そう思いながらも、二人の話を止めてしまったことがどうしてか炭治郎は悪いことをしたような気になってしまった。そんな炭治郎の様子に、しのぶはいつもの作り物めいた完璧な笑顔を浮かべる。その顔を見ていると、やはり先ほどのようには笑ってくれないのだと、炭治郎は少し残念な気持ちになった。

「まぁいいでしょう。今日の回復訓練はもうおしまいですか?」
「はい…またカナヲにこてんぱんに…」
「まだはじめたばかりです。焦りは禁物ですよ」

苦笑いを浮かべて肩を落とす炭治郎に、しのぶは諭すようにゆっくりとした口調で返す。その様子を黙ってみていた女性の方に自然と視線を向けてしまった。ゆるくまとめた長い髪からのぞく白い首筋が艶やかで、和服であれば見えることのない首筋や鎖骨の形が洋装だとよく分かるのだと、このとき初めて知った。紺色のツーピースのぴたりとした洋服から、その細く、筋肉の薄い体つきが読み取れると、きっとこの人は隊士でも隠しでもないのだと分かる。白い手は剣どころか、水仕事もしていないだろう。きっとどこかのお嬢様だと思いながら、どうしてこんな人が蝶屋敷にいるのだろうかと不思議に思う。

「鬼殺隊の方ですよ、竈門くん」

表情に出ていたのだろう、何も言わずとも答えをくれたしのぶの横ですっとその人は立ち上がる。背丈は炭治郎よりも小さいはずなのに、背筋の伸びた真っ直ぐな佇まいのせいか実際よりも高く感じた。

「はじめまして。隠の支援をしています、松方ゆきと申します」

手を体の前で組み、丁寧に頭を下げるゆきに、炭治郎も慌てて頭を下げる。

「俺は鬼殺隊の隊士、竈門炭治郎です」
「竈門さん、珍しいお名前ですね」
「あぁ、俺もとは炭焼きをしていて。それでこういう苗字なのかもしれません。でも確かに同じ苗字の人に会ったことないです」
「そうでしたか。不用意な発言でした、申し訳ありません」

もとは、という言葉を口にしたあたりで、ゆきから悲しみの匂いがした。森の中で嗅ぐ水の匂いのような、空気を満たす悲哀の匂いに、炭治郎は彼女が人の心に寄り添える優しい人なのだと知る。失ったものは大きく、悲しみは癒えることはないだろう。それでもあの家で過ごした幸福な日々までもを、忘れたくはない。

「あの、昔のことを口に出すことは、優しい記憶を思い出すことだから…、だから、俺は大丈夫ですよ」
「お強いのですね。私も貴方のように、強い心を持たねばなりませんね」

炭治郎の言葉に、大きな目をはっと見開いたゆきは、眉を下げて微笑む。気遣ってくれる彼女は、鬼などと関わることなどなく、とても温かな道を生きてきたように見える。それでもこの人は、自分と同じ鬼と戦うことを選んだ人なのだと、悲しみや優しさの中にも、それらよりもなお強い意思が根底にあることを炭治郎に感じさせた。


「そういえば、先ほど仰っていた回復訓練とはどのようなことをされているのですか?」

ゆきさんの言葉で、先ほどまでの手も足も出なかった反射訓練を思い出し、苦笑いを浮かべながら訓練の内容を口にする。

「体をこう、ぐいーんとしたり、鬼ごっこをしたり、湯飲みを、こう、シュバっと、やるんですけど」

身振り手振りも交えたのだが、ゆきはおろか、しのぶまで微笑んだまま首を傾げている。

「竈門くん人に説明するの下手ですねぇ」
「えっ、分かんないですか!?」
「分かると思ったんですか」
「…鬼ごっこ、は分かりましたよ?」

仕方がないですね、としのぶさんが機能回復訓練について簡単に説明してくれた。治療中に体力の落ちた体をもう一度戦えるようにする訓練だと、具体的な方法を上げてゆきさんに伝える。

「なるほど、体の可動域を元に戻すための訓練ということですね」
「えぇ。それに加えて竈門くんは、呼吸の精度を一段階上げようとしています」
「隊士の皆様がお使いになるという、特殊な呼吸法があると伺ってます」
「はい。俺はまだまだ全然なんですけど、瓢箪をこう、バーンてできるように…吹いてます!」

きょとんと目を瞬くゆきに、炭治郎は息を吹き込む真似をして見せる。にこりと機械的に微笑んだしのぶが、こういうことだと説明を追加してくれる。

「……瓢箪は、呼気で破れるものなのですね」
「呼吸は全ての基本となります。詳しくお知りになりたければ許婚殿がきっと教えてくださいますよ」

ゆきはしのぶの言葉にぽっと白い頬を染めた。綺麗な人だと思っていたが恥じらう姿はとても可愛らしく、耳の淵まで赤くした彼女はしのぶに困ったような目を向けた。ゆきが醸し出す、花の中に身を埋めたような甘い匂いに、炭治郎はゆきはその許婚のことが心底すきなのだと知る。


「あら、ゆきさんそろそろお時間ですね」

壁にかかった振り子の時計に目を止めたゆきはしゅんと眉を落とす。

「すぐに時間が過ぎてしまいますね、しのぶ様」
「本当に。今日も欲しかった試薬をたくさん持ってきてくださって助かりました。それにこのお茶会も。以前よりゆきさんとお会いできる日が増えて嬉しいです」
「はい、またなにかあれば遠慮なく私でも、隠でも仰ってくださいませ」

ゆきは小さな鞄を一つ肩にかけると、しのぶと炭治郎に向かって軽く頭を下げる。

「竈門さん、お話しできて良かったです。…御武運をお祈りしております」
「……はい。あの、ゆきさんも、頑張ってください」

炭治郎の言葉に、ゆきは一つ頷いてもう一度頭を下げると蝶屋敷の玄関から出て行った。まっすぐに伸びた背に流れる髪が歩みに合わせて揺れる姿を、見送っていると向こうから着物姿の男性がやってきた。

「え、あれって…」
「彼女の許婚は、炎柱なんですよ」

小さく溢れた炭治郎の言葉に、隣に立つしのぶが教えてくれた。日の光の中に輝くような黄金の髪、はっきりとした目鼻立ちは柱合会議の際に見かけた姿と同じはずなのに、その表情は全く違っていた。並んで歩くゆきと煉獄は、何か話しているのだろう。互いに相手の顔を見るように顔を向けて歩く様子は、仲睦まじく幸せそのものだった。

「仲良いんですね、お二人」
「火傷しそうなくらいですよ、ほんと」


ゆきの持つ優しい匂いと、心地よい雰囲気を思い返した炭治郎はまた会いたいと思った。彼女は禰豆子にも会ってくれるだろうか、そうだ善逸や伊之助にも紹介してあげたい。とても素敵な人だったと、炭治郎は今日話したことを胸の中にそっとしまうのだった。