花と獅子

ゲッセマネの園


意識が戻った瞬間、杏寿郎はぼんやりした視界でゆきを認め、まだ夢を見ているのだと思った。なかなか会えない恋人をこれまでも何度も夢に見た。杏寿郎の頭上で珍しく必死な表情を見せるゆきにどうしたのだろうかと不思議に思う。いつもの君らしくない。
ぼんやりしていた耳に「杏寿郎様」とゆきの声で呼ばれた自身の名が飛び込んでくる。
それは高貴なまじないのように杏寿郎の心に響いたのだった。


「煉獄さん、きちんと休息を取るのも柱の勤めの一つですよ。3日間は稽古禁止です」

意識が戻ったと鈴音が呼んできた胡蝶しのぶは笑顔でそう告げた。破ったらどうなるか分かりますよね、と続ける胡蝶に「よもや…」としか杏寿郎は返事が出来なかった。他に異常がないならベッドを空けろと3日後の再診を固く誓わされ、早々に炎柱邸へと帰ることになった。

ゆきは大層心配して、すぐに動いてはいけないのではないかと炎柱邸までずっとそわそわと杏寿郎の横で様子を見守っていた。隊服を脱いで着流に着替えた杏寿郎の腕に両手を添えて、じっと大きな目で見上げるゆきに大丈夫だと何度も言うが、今回ばかりはなかなか納得してくれないようだった。

意識が戻るまでずっとそばにいてくれたと聞き、心配をかけたことが申し訳なかったが、それと同時にたまらなく嬉しかった。


鈴音もゆきさんも寝不足のようだったので、ひとまず二人を屋敷の客間へ通す。隠が管理してくれているおかげでいつ戻っても綺麗に整えられた部屋で、鈴音がてきぱきと準備をしてくれたので助かった。秋の嵐の夜に二人を泊めたのと同じ部屋だったので、鈴音にとっても勝手知ったる他人の家のようにすぐに寝支度は整った。

ゆっくり休むように二人に声をかけて自室に籠もった杏寿郎は、胡蝶に稽古を禁止されたこともあり日輪刃の手入れをした後は溜まっていた報告書の整理や、手紙の返事を書いているうちに思いの他時間が経っていた。
自身の腹が情けない声をあげたことで昼時であると気づき、気づいてしまえば余計に空腹を感じてしまう。しかし、杏寿郎は炊事がからっきしであった。それは自分でも炊事場に踏み込むことを躊躇するほどであり、実家でも千寿郎から立ち入らぬように固く約束させられていた。食材を無駄にしてしまうことも申しわけなかったし、人に食べさせられるようなものが出来上がった試しがない。


どうしようかと悩んでいた時、控えめにカタンと部屋の障子を叩く音とともにゆきの声がした。

「煉獄様…?」

慌てて立ち上がり障子を開けると、床に膝をついたゆきのつむじが杏寿郎の視界に見えた。顔をあげたゆきの黒目がちな大きな目が、嬉しそうに綻ぶ。

「お加減は変わりないですか?」
「あぁ、特に不調もない。本当に大丈夫だぞ」

ゆきを部屋に招き入れて、先ほどまで書き物をしていた文机の座布団を彼女に渡し、向かいに腰を下ろす。ふわりとした丈の長いスカートにシャツの上から手編みの暖かそうなショールを巻いたゆきは、珍しそうに杏寿郎の私室を控えめに見回していた。

「それより君の方がもう起きていいのか?一晩眠っていないのだろう?」
「ぐっすり休ませていただいたので大丈夫です」

そうか、と杏寿郎が返すと妙な沈黙が二人の間に訪れた。ここしばらく会えなかった恋人が自室にいるのだと思うと、顔にこそ出ないものの杏寿郎の心中は穏やかではなかった。とくとくと、平時より速くなる心音にどうしたものかと思いながら、目の前に座るゆきの顔を見る。
彼女の視線は杏寿郎の膝の辺りに下げられたままで、下ろした長い髪の隙間から覗く耳の先がほんのりと赤くなっている。そんな可愛らしい反応を見てしまえば、何かしら期待してもいいのかと不埒な手が彼女の艶やかな髪や線の細い顎に伸びそうになるのだった。

「「あ…」」

沈黙に耐えかねて杏寿郎が声を掛けると、ちょうどゆきも顔を上げて口を開いており、重なった声にどちらともなく笑ってしまう。
少し緊張が解けた二人の空気感に、構えていた心も柔らかく緩む。
格好をつけずに、恋人に触れたがる両手に素直に屈服することにした杏寿郎は困ったようにゆきに笑いかけた。

「ゆきさん」

杏寿郎が座ったままゆきに手を差し出すと、白い手がそろりと硬い掌に置かれた。緩く力を込めて引き寄せると、腰を浮かせたゆきの小さな体が杏寿郎の硬い胸板に寄りかかる。両腕の中に閉じ込めるようにゆきの体を抱えなおした杏寿郎は満足そうに笑う。

「君は小さいな」
「煉獄様が大きいのです」
「腕も手も細くて壊してしまわないか心配なくらいだ」
「まぁ…そんな簡単に壊れたりしません」

右手同士で指を絡めたまま杏寿郎の腕の中から、目元を赤くしたゆきが恥ずかしそうに言葉を返す。

「…ゆきさんを見るとすぐに触れたくなってしまう」

杏寿郎は熱を孕んだ眼差しでじっと腕の中の可愛い恋人を見つめる。潤んだ黒い瞳は不安気ではあったけれどそこには一抹の期待も混じっているようであった。すりすりと杏寿郎の硬い指先が、小さな手の甲や指の関節を撫でるとゆきの喉がこくり鳴る。

「煉獄様、あの、」
「今朝、名を呼んでくれたのが嬉しかったのだが…もう呼んでもらえないのだろうか」

どんどん赤くなっていくゆきが愛らしく、握っていた右手を解くとすべすべした丸い頬を撫でる。唇が薄く開いては閉じる様子に、ゆきの逡巡が見て取れた。

杏寿郎はいつも「ゆきさん」と下の名を呼んでいた。真面目な彼女はきっと公私混同は良くないとか、柱だからだとか、年上だからだとか、そんな理由で「煉獄様」と苗字で呼ぶのだろう。だが一度呼ばれてしまえば、どうしたって名前を呼んでもらいたかった。あまり人から呼ばれることのない下の名を、彼女の声で音にして欲しい。

「…杏寿郎さま」
「うん、いいな!だが様は付けなくていい」
「それは…出来ません」
「む…二人の時だけでも杏寿郎と呼んでくれないだろうか?」

駄目だろうか、と我ながらあざとく顔を覗き込むと、観念したようにゆきの唇が小さく動く。

「杏寿郎さん…」

赤くなった顔を両手で覆うように隠してしまったゆきに、もう一度呼んでくれと赤い耳に唇を近づける。『杏寿郎』と彼女の声で名を呼ばれると、甘く聞こえる。何度ももう一度、とお願いすると恥ずかしそうに呼んでくれるのが可愛らしくてついつい調子に乗ってしまった。



しばらくそうして恋人らしい戯れに興じていると、ゆきの緊張も解けてきたようだった。腕の中の華奢な肢体から力が抜けていき、杏寿郎の胸板に預けられた頭を撫でる。心地よさそうに薄い目蓋を閉じると、長い睫毛の影が頬に落ちる。

「しばらく、こうしていてください」

ゆきからのなんて事ないお願いに、もちろんだと彼女の髪を指で梳く。
ゆきは杏寿郎の一定の心音をじっと聞いていたのだが、杏寿郎は甘えてくれているものだとばかり思っていた。

こうして恋人と冬の午後の穏やかな時間を過ごしていると、夜中に鬼と戦っていたことが嘘のようである。自分が斬り伏せてきた鬼の数も、日々変わる任務の場所も、全て朧げでしっかりと思い出せなかった。深く深く意識を沈み込ませて集中し続けた鬼狩から、ふと一人の人間に戻ったような心地がする。

「…なにやら白昼夢でもみたようだ」

「どうされましたか?」
「夜の海を息継ぎもせずに泳ぎ続けていたような気がしてな。どうやって君のいるこの午後にたどり着いたのだろうな」

杏寿郎はなんでもないことのように言ったが、ゆきはその言葉にひどく不安になる。真面目だからこそ、その集中力の高さで戦いに身を投じると、己の自我など全て仕舞い込んでいるのだろう。ただ鬼を斬ることだけにその力を使い、自分自身を顧みないところがあるのではないだろうかと怖くなる。だから、ゆきに帰る場所でいてくれと言ったのだろうか。

もしかするとゆきという戻る場所がなければ、その恐ろしい夜から戻ってこないのかもしれない。
いつもは陽光のような琥珀の瞳が、どこともしれない虚空を見つめるガラス玉のように思われた。

「きちんと見つけてくださいね」

ゆきはそっと杏寿郎の頬に手を添えて、目に見えぬものを見るような杏寿郎の独特の視線を自分に合わせる。お互いの目の奥を覗き込むように向かい合うと、金環の輪が柔らかく綻んでいくようだ。

「私は杏寿郎さんのように強い光も人を守れる強さもありません。けれどあなたが道に迷わぬように、穏やかな心に戻れるように、灯を手に待っています。どんな暗い夜でもその闇だけを見ずに灯を探してくださいね」

鬼を狩ることで心を無くしてしまわないように。

ゆきは結局、耐え難くともただ待つしか出来ないのだ。
毎日毎日、小さな炎を消さないように灯続けていくように。決して何かを壊せるような大きな火ではないけれど、いつでもどこでも、杏寿郎に見えるように蝋燭の灯を絶やさずに繋いでいく。
待つしか出来ないことの辛さを思い知ったばかりであっても、それを止めることは出来ないのだ。

「あぁ、そうだ。約束したからな」


杏寿郎の猫目がいつもゆきを愛おしそうに見ていた柔らかな眼差しに戻る。ゆきはほっと息をついて杏寿郎の頬を撫でていた手を戻そうとしたが、大きな掌が嫌だと言うように上から握り込む。

「あ、あの…」
「珍しくゆきさんから触れてくれたんだ。もう少しだけ」

そう言ってゆきの手をするすると動かし、そのまま弧を描いた己の唇に押し当てる。掌に柔らかな口づけを感じて、ゆきの血が沸騰しそうにぶわりと熱を持って全身を駆け巡る。
真っ赤に頬を染めた恋人の掌から口を離した杏寿郎は、照れたように小さく笑う。

「嫌か?」

ゆきの反応から答えなど分かりきっているだろうに、杏寿郎はそっと腕の中の恋人に身を寄せる。熱の引かない赤い顔に羞恥で潤んだ黒い瞳が困ったように杏寿郎を映していた。
と、と、と、と少し早い二人の心音しか聞こえないような静寂のなか、ゆきが聞こえるか聞こえないかの声で杏寿郎の名を呼んだ。

誘われるように額を近づけると、それに呼応するように長い睫毛とともに瞼が黒檀の瞳を覆う。
そのまま桃色の唇に口付ける。ふに、と柔らかな感触が杏寿郎の唇に伝わって確かめるようにもう一度押し当てる。

この世で一番尊いものを慈しむような、そんな穏やかなか口づけだった。

情欲や執着ではない、大事なものを撫でるような触れるだけの口づけに顔を離した二人は、どちらともなく頬を緩めた。


「愛いなぁ」


ゆきを抱き寄せた杏寿郎からため息のように漏れた言葉がゆきの耳元から体の中に入り、心の中の一番柔らかいところをぎゅうと締め付けていく。
幸福で死ぬことがあるならきっといまがそうだと、ゆきは温かな腕の中で目を閉じるのだった。