花と獅子

殺意の眠る丘


 
よく晴れた暑い日にその席は設けられた。

松方邸に呼び出された結城さんはこのような騒動の渦中の人の割にはいたく落ち着いた方であった。
軍人らしく完結に誠実な態度で丁重に詫びた彼に、兄たちも今後の対応についてこちらの言う通りやってくれれば今回のことは不問にすると伝えた。

「貴方もこうして冷静に行動できるのならばどうして今回こんな記事を書かれるようなことに?」

新聞社宛の両名の名で抗議文を認めたところで喜壱お兄様が呆れたように聞くと、初めて恥いるように頭を掻いた。

「お嬢様をお見かけした後に仲間うちで酒を飲みまして…気が大きくなったようです。そのあとの記事については私から流したものでないと誓います。ただ、他人につけ込まれるような行動をしたことについては私の不徳の致すところです。要らぬ衆目に晒したことこの通りお詫び申し上げる」

私と兄の顔を交互に見やって本日何度目かの謝罪を受け入れて、お顔をあげてくださいと声を掛ける。
一目惚れしたという割には彼の態度からはそのようなことは微塵も感じなかった。
ただ時折向けられる目が優しい色で新聞紙の上の男性とは全く違う印象であった。

「それではそろそろ失礼いたします」

かちゃんとコーヒーカップをソーサーに戻した結城さんをメイドがドアへと案内する。
見送りに立ったところで初めて真正面から彼と向き合った。細身の体躯に軍服姿がよく似合っていてこの人にはこれ以外の服装が思い描けないなと思う。

「貴女を一目見た時からどうしても忘れられなかった。ですが貴女は私の様な愚かな男のことはどうかお忘れください。もう二度とお会いすることはないでしょうが…貴女の幸せを願っています」

二十も年の離れた小娘に対しても敬意を払った話し方で微かに笑みを浮かべると折り目正しく頭を下げて結城さんは松方邸を後にした。譲治お兄様は土産だと言って両手で抱えきれないくらいのお見合い写真をお渡しになっていた。
その中のお一人であるおっとりとした評判のいい女性と彼が縁談を結ぶことになるのはもう少し先のことだ。


「すみませんお兄様方、今日は少し疲れてしまいました」
「大丈夫か?暑いからな…水分ちゃんと取れよ」
「お前が言うのか?熱中症にしたこと俺は忘れてないからな…ゆき、車で送らせるよ」

お兄様の車に揺られながら卸したてのレースのワンピースの胸元をぼんやりと見る。
決められた衣装を着て決められた台詞を言って今日の舞台はもうおしまい。
繊細なレースの縁を指先でなぞると光に透けて生き物の様な影を作る。
綿々と繋がっていくレースの文様。この服だってもっと幸福な女の子に着てもらいたかっただろう。
こんな悲しい気持ちでいっぱいの私が着る服じゃない。


「お嬢様、着きましたよ」
同乗していた鈴音の声で深く沈み込んでいた意識が浮上する。
自邸に戻ると安心からか本格的に頭が重く感じた。

心配する鈴音に眠れば大丈夫だと思うから朝まで起こさなくていいと断って締め付けるところのない寝衣に着替えた体を柔らかいベッドに沈ませる。天蓋を見上げるとまだ夕焼けの色味の残った日差しが床から反射して揺らめく炎の様だ。

忘れられないと言いながら、私には忘れろと言った彼は、まるで私そのもののようだった。
自分の愚かさを見せつけられている様で、返す言葉が一つも見つからなかった。
きっと彼と同じ様に「忘れてください」と煉獄様に告げるのが正解なんだろう。全部聞かなかったことにして、なかったことにして、そうすればもうすぐ柱になる彼と会うことなどもう一生ない。
熱い空気がまとわり付くのに握った指先は凍えるほどに冷たく白かった。


カツカツと硬質な音が響き目を覚ますとすっかり夜の帳が降りていて、窓からは濃紺の夜空しか見えなかった。
網戸から通り抜ける風が心地よく寝汗をかいた体の熱を冷ましていく。
再度カツカツと一定のリズムで響く音に首を巡らせると一羽の鴉が窓ガラスを嘴で叩いている姿が目に入る。
あれは鬼殺隊の鎹鴉であろうか。
目を擦って窓際に近づくとぴょんぴょんと軽く跳ねて見せるその子の足元には小さな筒が付いていた。

ガタっと軋む窓を開けてやるとそのままぴょんと窓枠に飛び乗ったその子に恐る恐る手を近づけると嘴を下げてその美しい濡羽色の羽で覆われや体を撫でさせてくれた。指先をくすぐる柔らかな質感が心地よい。
早く取れ、と言いたげにぴょんと跳ねて筒のついた足をこちらに向けてくれたので、紐でくくりつけられた小さなそれを外してやる。

「どうしたらいいのかしら…」
産屋敷邸への連絡は電報や隠に手紙を運んでもらっていたので鴉を飛ばされたのはこれが初めてだった。
隊士や隠が連れている姿を見かけていたが一体どうやってやり取りするのか。

「ハヤクヨム」
「し、しゃべった・・!?」
「手紙ヨム」
「わ、わかったわ」

鴉って喋る鳥だったかしら、もしかして鸚鵡なの?いやあれはもっと鮮やかな鳥だったと幼い頃みた鸚鵡を思い出す。
じぃっとつぶらな瞳で見られてはっとして手に持っていた筒を弄ってなんとか中からな丸められた紙片を取り出す。

『ゆきさん
健やかに過ごしてるだろうか。
こちらは任務で浅草に来ている。しばらく掛かりそうだがあと二、三日もする頃には終わる予定だ。
君の休みを聞いておきながらこちらから指定してすまないが、
三日後の土曜日に時間をもらえるだろうか。
浅草寺の門前で十時に待っているから来てくれると嬉しい。
返事はこの子に持たせてくれればいい。

よくゆきさんの顔が瞼の裏に浮かぶ。早く貴女に会いたい。

杏寿郎』

達筆な字で認められたそれを読みながらじわじわと体温が上がっていくのがわかる。

これは恋文ではないか。

「あの、あなたは字も読めるのですか?」
「…返事ハヤク書ク!マッテル!」
もしかしてこの鴉さんもこの文が読めるのではないかと恥ずかしくなって手紙で顔を隠しながら聞いてみると、その質問には答えず返事を書くようにせっつかれてしまった。
まだ状況を飲み込めないまま机に向かって便箋と万年筆を取る。舞い上がった気持ちと眠る直前までの暗い気持ちが胸の中でぐるぐると渦を巻いて考えが上手く纏まらない。

生憎都合がつきません、と書くのが正解だと分かっている。分かっているのに。
どうしよう、とても嬉しい。
浮かれた心が落ち着かなくて、とうに消えてしまったと思っていた指先に灯った熱が身体中に巡る様だ。好意を隠すことなく真っ直ぐに向けてくれる煉獄様の人柄をそのまま言葉にしたような美しい文字を何度も何度も読み返して、その度に湧き出てくるこの喜びを私は知らない。頭と心が別々のことを叫んで、ペンを握ったまま一文字も言葉にできないまま随分と時間が経ってしまった。

インクの染みだけが増えた便箋から顔を上げると鴉さんはいつの間にか私の寝床の隅で羽を休めていた。
こちらが書けるまで待ってくれる様なので、申し訳ないと思いながらも書けない手紙を前にもう一度悩む。書かなきゃいけない言葉はすぐにわかるのに、書きたい気持ちはどれだけ悩んでも言葉にできず。煉獄様にもらった言葉だけが頭から離れない。

『早く貴方に会いたい』

「はやくあなたにあいたい」

小さく声にするとすとんと胸の奥に落ちてきた言葉が私に告げている。
悩みすぎて夜が明けてしまう前に、そのまま正直にペンを動かす。

四方に余白がたくさん残った便箋は手紙と言えるものではない。いつも書くような挨拶から始まって季節の話をして本題に移るような礼儀も作法も何もない、これは本当にただの独白ではないか。

カァ、と気付くとそばに来ていた鴉が書けたのなら早くしろと脚を向けるので、これを煉獄様に送るのかと悩む暇もなくさっさとしろ、と急かされれた。
小さく折り畳んで貰ったときと同じように筒に仕舞い込み、細い紐で脚に括り付ける。

「お待たせしてごめんなさいね…煉獄様のご無事を願っています。貴方も気をつけて」

指先に止まってくれた彼を入ってきた窓辺から空に向かって差し出すと、ばさりと大きく羽を広げて白んできた空に羽ばたいて行った。


『私も早くお会いしたいです』


初めて書いた恋文はたった一行だった。それを受け取る煉獄様を思うとゆきは顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
そんな熱い顔のままようやく眠りつくと、目が覚めたときには本当に知恵熱をだしていた。一日安静にとベッドに寝かされてしまい、情けないやら恥ずかしいやらでまともにメイドたちの顔が見れなかった。


「お嬢様、お加減いかがですか?」
「…うん、もう熱もひいたみたい」
鈴音が水を持ってきてくれたので、体を起こすともう夕方に近い時間のようだった。
額に掌を当てられて、たしかに下がってますね、と鈴音もほっとしたように笑みを浮かべてくれた。

「鈴音に協力して欲しいことがあるのだけれど」
返事をしてしまったし、3日後に浅草まで行かねばならない。鈴音の助け無くしてこれは成功しないだろうと、早々に打ち明けるしかないと決心する。
「なんなりとお申し付けください」
つんと澄ました彼女の真面目な返事にそんな大それたことではなくてとても私的な事だと、事の顛末を説明する。
さる方とお会いしたいのです、とぼかして話していたが自分の気持ちを話すというのはなぜこんなにも恥ずかしく感じるのだろう。

「ゆき様…かしこまりました、明日用意を整えます。きっとうまくいきますよ、私たちを信じて下さい。あと、すみません一つ謝らねばなりません」
「どうしたの?」

罰が悪そうに目線を落とした鈴音から旅館で青紅葉の中、煉獄様とお会いされている様子を先生と見てしまったと打ち明けられた。
特にやましいことをしていたわけではないけれど、よく知る二人に見られていたと思うとまた顔が熱を持つ。

「そうだったの…では、その、鈴音はどう思いましたか?」
「どうとは?」
「…見損ないましたか?責務を忘れて、ただ1人の人のことだけ考えていた私を。どう考えても自分の行いを正しい選択と思えないのです。分かってはいるのに」
「ゆき様!見損なってなどおりません!先生も仰ったではありませんか、心まで縛ってはならないと。貴女が誰かをお慕いしていても、私は、いえ貴女に使えている者は皆、貴女を悪く思ったりしません」

鈴音の言葉に胸が詰まる。
誰かに聞いて欲しかったのか。認めて欲しかったのか。自分さえ認めてあげられない心を、それでいいと言ってくれた鈴音の優しさが雨が大地に染み込むように自身の体に入っていった。

「ありがとう。鈴音がいてくれてよかった」


土曜日の朝、つい最近新聞に載ったという不名誉もあり街で目立たないよう変装を施してくれたメイドたちのおかげで、いつもとは雰囲気が違う装いになった。
髪を上げて流行だという色味の多い薄手の着物にこれまた派手な帯を合わせて仕上げにレースの手袋を嵌める。

「お嬢様…とても可憐です、可愛いです…いくら身分をお隠しになってもそのお美しさは変わりませんので…くれぐれもお気をつけください。煉獄様がお離しになるとは思えませんが、決してお一人で動かれませんように」

鈴音に可愛い可愛いと褒められて着慣れない柄物の着物に、派手じゃないのだろうかと鏡に映る自分を見る。確かに令嬢っぽくはないし市井に溶け込むのならこういうものでいいのだろう、と納得して裏口から家を出る。
青地に大輪の白牡丹がいくつも咲いた着物に目を落としてもいつもの装いとは雰囲気が違うのでどことなくそわそわする。

「浅草寺の表通りまでは私が人力車でお供します」
「本当に頼りになるわ、ありがとう鈴音」
「…私は嬉しいのです。ゆき様がこうしてご自身の喜びを大切にしてくださることが。いつも皆に砕いてくださっているその心を、ご自身に向けてくださった事が嬉しいのです」

浅草寺への門前通りは既に多くの人で賑わっていた。
行ってらっしゃいませ、と鈴音に笑顔で見送られてひとり、人混みの中を進む。そう言えばひとりでこんな所を歩いたのもはじめてだった。今日は初めてづくしだな、と改めて思いながら楽しそうに行き交う人々の活気のある様子をきょろきょろと見回し、手紙で指定された大門を目指して歩を進める。

まだ距離があるのに門の前に佇む金糸の髪を束ねた上背のある和服姿に目線が引き寄せられる。
煉獄様だ。
姿を見れば無意識に歩みが早まり小走りで人波を進む。後十数歩というところで人を探す様に目線を動かしていた煉獄様の目がようやくこちらに向き、目元を緩めてあのお日様のような笑みを向けてくれた。


こんなにもたくさんの人がいる中で私の目が映していたのは、白黒の世界から浮き上がるように鮮やかな色を放つ貴方だけだった。