花と獅子

美しい嘲笑


大気や植物や人々表情、空の色、私を取り巻く世界の全てが鮮明に色濃く見える。
体の内側から造り替えられたかのようで、目に映るものから貴方を探しているような、聴こえるもの全て貴方の音を逃すまいと拾い集めるような鮮やかな世界があの日からずっと続いている。

深夜、ゆきは何度目かわからない溜息を小さく零し自室のベッドで寝返りを打つ。柔らかい枕とお布団に埋もれて眠ってしまいたいのに睡魔はやって来ずにずっと同じことばかり、煉獄様のことばかりが頭の中を堂々巡りしていた。

『逢引』

にこやかになんの衒いもなく誘ってきた彼はやはり逢引をした事があるのだろうか。
ゆきはこれまでの人生で年の近い男性と二人でどこかへ出かけたことなどない。
それこそ兄弟や先生を除けば二人きりで個人的なことを話すというだけでも、初めての経験であった
それにもどうにか慣れてきたというのに、今度は逢引とは。
もちろん逢引とは何かを知っているつもりではあるし、女学校のませた子達は意中の男性と秘密裏に密会するという綱渡りを楽しんでいる様子で、幾度かそういった話も耳にした。親や教師に見つかれば退学になる大事件ではあったが、好いた惚れたの恋路はそんなもの御構い無しの様子に、あの頃の自分はどうしてそんな非合理でリスクのある事に飛び込んでいけるのだろうかと、甚だ不思議であった。けれど今なら少しだけ彼女たちのことが分かる。

まさかこれほどまでに自分の心というものが欲求をもっていたとは。
身を潜めていた怪物はゆきの感情を引っ掻き回してどんどん自由になって一夜のうちにこの体の主導権をも握ってしまったようである。

人を思って眠れない夜が来るなんて知らなかった。


「ゆき様、おはようございます」
「おはよう、鈴音」
「顔色が優れませんね…朝食は少なめにされますか?」
「うん、ごめんなさい」
暖かい紅茶となにか果物をお持ちします、と答えた鈴音もきっともう全部知ってるんだろう。いつも一緒にいてくれるメイドの子達にも伝わってしまうのだろうか。お兄様には隠し通さなければ、煉獄様の身の安全が保証できないわ、と想像しただけで頭痛がしてくる。どうしてこう厄介だと分かっていることを自ら選んでいるのだろう。ため息を零すと着替えを用意してくれた鈴音が心配そうにこちらを見るので、無理矢理口角をあげて頭を振る。今日はお兄様お二人とお父様と食事の席を用意されているのだ。しっかりしないと、そう言い聞かせてブラウスに袖を通す。


「ゆき、おはよう」
朝食を食べ終えてあまね様からの依頼事項に目を通し、奥の収支関係を浚い始めたところで喜壱お兄様がやってきた。
書類まみれの机を片そうとすると、手で制止して向かいに座ったお兄様はにこにこと笑みを浮かべているが、これはあまり良くない兆候だと私は知っている。私もそうなのだが松方の家人は皆揃って怒っている時ほど笑顔である。
お兄様を部屋に通したメイドに目配せするとそそくさとドアを閉めて出て行った。

「ゆき、兄はどうすればいいのかずっと考えに考えているよ」

私に間することでお兄様の頭を悩ませているのはたった一つ、先日の新聞記事であろう。
鈴音に散々小言を言われてからきちんと目を通したところ結城少佐は陸軍のお偉いさんらしかった。年は聞いていた通り四十を超えていたが写真で見る限りは鍛え抜かれた痩躯に日に焼けた肌と鋭い眼光が相まって、年齢よりは若く見える風貌であった。

どうして松方の娘を欲しがったのか、この噂の出所は、この婚約で誰が得をするのか、本人に利はあるのかと多方面で考えてみた。
軍部の台頭か、内閣への布石か、はたまた軍事部門に投資を進めるお兄様との関係か、私個人への私情か。
きっと理由は一つではないし、それら諸般の事情を全て汲みとれるほどに官僚や軍部の要人の情報に敏くはない。自身の預かる奥の仕事に没頭しすぎていたことは否めない。

「私が袖にしたというのではやはりダメでしょうか」
「だめだめ、松方の会社の広報担当はゆきなんだから、世間や同業から冷たい目でみられるのは良くないよ」
「では先生と婚約したことにするのは…」
「本気で言ってる?ヨハネスと結婚したいの?嘘だと言ってくれ…あんなおじさんにゆきをやれないよ」
「本気というか…思いついた案の一つです。まぁ、現実的に考えるとこの結城さんという方とお会いしないわけには先に進まないかと」
どう思われますか?とお兄様を見やればすごく不満げにそうだね、と返してくれた。

この記事が彼の意図なのかどうかすら私には分からないけれどきっとお兄様はその辺りはもうご存知のようだ。
ただこの人に会わずにこちらだけでどうこうは出来ないようだった。

「今日の食事は譲治も来るはずだから、あいつの話も聞くよ」
「そうですか、譲治兄様は最近お屋敷にもお戻りになれないほどご多忙だとか…それよりもお父様に本件はお叱りを頂戴してしまいそうです…」
「父さんがゆきを叱ったりしないよ、大丈夫、もし怒られても兄が守ってあげるさ」
夕食会を思い浮かべて気が重くなってきた。
そんな私を慰めるようにお兄様が話を向けてくれた。

「鬼殺隊はどう?じい様から引き継いだばかりの頃よりは落ち着いてるみたいだけど」
「そうですね、あの頃は右も左もわからなかったので…今はなんとかやってます、業績も黒字も続いてますし、人員もなんとか組織立ってきたのかなと」
「…そういう時は注意したほうがいい。組織ははじめが肝心だから」
「はい、肝に命じます。私だけの奥ではないですし、預かりものだと心して励みます」
「良い心がけだけだね」

お兄様はえらいえらいと頭を撫でてそのまま流れるように手を取って立ち上がらせた。
まるで映画のなかの紳士のような動きにさすが夜会の人気者だと納得する。
「やっぱり今日は仕事は仕舞いにして、夕食まで買い物に行こうじゃないか」
「お買い物ですか?」
「そうだよ、ゆきの一張羅を手に入れなくっちゃね。どこの馬の骨ともわからん男にはさっさとご退場いただこう」

目元を綻ばせながらも決して瞳の奥は笑わないお兄様は、こちらの予想以上にお怒りのようである。
きっとまた値の張るお兄様好みの洋装を仕立てて着せ替え人形にされるのであろう様子が目に浮かぶ。それを着て松方の令嬢としてそつなく振る舞い、まるで決まっていた台詞を言うように自称婚約者殿にこの婚約が嘘偽りだと証言していただく。台本通りに動くのだ。機械仕掛けの人形のように。
そして晴れて私はまた清廉潔白なお嬢様ということか…お兄様の台本に沿って私の道は進んでいくのだろう。

私の婚姻は私の選べるものではない。
そこに私の意志は許されていない。

もう一度そう自分に言い聞かせて、準備しますわ、とお兄様に微笑み返す。

でも次は?この次の婚約話が出たらどうするつもりなんだろうか。
私も、もう婚約者がいてもおかしくない年だ。むしろ遅い方になりかけている。侯爵家という家格だけに選り好みをしてらっしゃると笑って頂けるけれど、あと1年、2年もすれば婚約者がいない方が不自然な年齢になってしまう。そうなってしまったら、いくら完璧な御仁をご所望のお兄様をもってしても断る理由がなくなっていくのではないか。そうなれば私はその時、致し方のないこと、とこの思いごと全部飲み込まねばならないのだ。今でさえ苦しみを伴うこの感情をもう一度押さえ込んで、蓋をしなくちゃいけない。それでもその時まで愚かに思い続けることに意味はあるのか。
離したくないと思った手の温もりが思い出せなくなった。

一体私は煉獄様とどうなりたいと思っているのだろう。
目を落とした整えられた指先にはあんなに熱く焦げるようだった熱がもうどこにもなかった。


買い物を終えて兄の自動車で本邸に向かうと譲治兄様の車も既に停まっていた。
あの拘束事件以来顔を合わせていなかったので、久しぶりである。
一応、あの後反省なされたのか見舞いの花を送ってくださった。

長兄である喜壱お兄様は松方の主だった企業の後継として若社長を任せられている。その一つ下の譲治兄様は貴族院の政治家だ。最近は松方の会社の関係もあってか軍閥関係の方々とも交流が深いようである。お兄様は涼やかでそつのない貴公子と言われているのに対して、譲治兄様は斜に構えたところのある鋭い眼差しが素敵だとどちらもタイプは違えど女性陣に人気であった。
寝顔などはふたりともそっくりだと思うのだけども、対照的な性格で譲治兄様には影のある隙のない眼光でよく叱られたし、一方の喜壱お兄様は私を叱ったことなどなく甘やかし放題だ。でもどちらも私にとって掛け替えのない兄であり、どちらもそれぞれの表現で愛してくれている。

「お父様、こんばんは。ご体調はいかがですか?」
父は2年ほど前から病がちであった為、1年のほとんどを空気のいい別荘地で療養してる。大事な会議や、宮中からの招待に合わせて本邸に帰ってくる生活も慣れたもののようだ。
「ゆき、相変わらず我が家のお姫様は綺麗だな。父によく顔を見せて」
幼い頃そうしてくれたように両脇から抱えられると恥ずかしいのだが、お父様は体調がいいとこうして私を抱き上げて見せた。

「いつまでやってんだ、親父、ゆき」
「譲治兄様、お久しぶりですね」
お父様の腕から着地した足でとことこと兄の元に向かうと、抱き上げられて乱れた髪を長い指で整えてくれた。
「この前は囮に使って悪かったな…おかげで膿を出せた」
「次からはちゃんと本当の目的も教えて下さいませ」
「次はない、ゆきを使うと兄貴が怖い」
珍しく神妙な顔で口元を覆った譲治兄様に何があったのかは謎である。

家族四人揃っての夕食は和やかで楽しかった。それぞれの近況や、政治や会社の経営についても隠すことなく話してもらえて私も一人前と認めて頂けたようで嬉しかった。幼い頃に兄の背を必死に追いかけた自分が報われた気がする。千寿郎さんに昔の話をしたから余計思うのだろうか。全部無駄にならない、巡り巡って全て今に繋がるのだと。

「さて、ゆき、喜壱からも相談があったけれど新聞の婚約の件だけど、どういうことか説明できるか?」
食後のコーヒーが出てきたところでお父様が困ったように笑う。
「私には身に覚えがありません。お会いしたこともない方かと…」
「やはりそうか」
「え?」
「喜壱はその、なんだ、お前のことを可愛がりすぎているのでな…即刻断ると言って聞かなかったのだが全部信じていいものか迷ってな。もしや本当はゆきの好いた相手であったのかも、とも思ったが。やはり違うのだな」
「…違います」
「そうか、まぁ歳も離れているしな…ならば今回の報道は誤りだと先方からも公表いただくようにせんとな」
お父様の言葉でほっと息をつけた。

「父さん酷いな、僕はゆきに相応しくない見合い話を断っただけだ」
「兄貴の溺愛は重いからな…せいぜいゆきに嫌われないようにな」
言い合いに発展しそうなお兄様の会話に割って入る。
「今回の報道は本当に単なる噂でしたの?なにか裏のある方がいらっしゃったのでは?」
私の疑に譲治兄様が首を振る。
「一応俺からも軍部に探りを入れたけど、特に裏はないようだ。まぁ連中にとっちゃ松方と縁を結べれば箔がつく程度には思っただろうが…どちらかと言うと私情だと思う」
譲治兄様の話にどうやら陰謀や作為のあるものではなさそうで安心した。
しかし私情もなにも、お会いしたことがないと思うのだが。私の戸惑いを察したのか譲治兄様が呆れた様に教えてくれる。
「一目惚れだそうだ」
「…ゆきの見た目がいいのは認めるが迷惑な話だ。では見合いを申し込んで断られたことを仲間内で話しているうちに尾ひれがついて今回の記事になったと?」
「そんなところじゃないかな」

どこか他人事の様に聞きながら新聞に載っていた結城さんのお顔を思い出そうとするが、うまく像を結ばなかった。
勢い余って華族相手に婚約を申し込みに来るほどに彼の人は私のなにを気に入ったのだろう。
言葉も交わしていない、一目見た相手のなにを?
でもそこにはきっと、私と同じこの苦しみと喜びの綯い交ぜになった感情があったのだろう。

「譲治兄様、結城さんとお話しする場を設けてくださいますか」
「そのつもりだ、兄貴の名前で呼ぶことにはなるだろうが…俺も陸軍相手には顔も売りたいし、ゆきを嫁にはやらない代わりにこっちにも向こうにも都合のいい相手をご紹介しておこうかと思っていたところだ」
ゆきがこっぴどく振ってやれば傷心に付け込みやすいしな、とニヒルな笑みを浮かべた兄様は小説に出てくる悪役のようである。
お父様は少しくたびれた様子でため息を吐く。
「まぁ三文記事だ、新聞社の方も買収して先方の正式な婚約記事でも書かせてやれば落ち着くだろう。しかしそろそろゆきにもちゃんとした相手を見つけてやらんとな」

さも当然のように聞こえてくる言葉になにも返せなくて、仮面を被るように微笑む。
ほら、私には選べない。慕っていてもいなくても、私に選ぶものなどないのだ。

父も兄たちも大好きだ、心の底から愛している。
そんな家族のことも掛けられた期待も公爵家の責務も奥の仕事も何一つ自分から手を離せない。全部投げうってなにも持たない空っぽの両手で煉獄様だけを宝物のように抱きしめられればどんなにいいか。あの目を、燃えるような熱を、硬い手を、誰にも渡したくないのに私はその手が届かないところにいるのだ。

身体中に優しく荊を巻かれたように私はそこから一歩も動けない。


先生、心だけ自由でもいいことなど一つもないではないですか。