指先の水面で
五条の言葉も右耳から左耳へと聞き流してしまうほど、透は指先に握りしめた小さな筆をゆっくりと動かすことに全神経を注いでいた。透明感のある薄いブルーの液体が短く切り揃えられたつるりとした爪の上を滑る。一筆目は上々だ。つやりとした輝きを放つ3ミリほどのラインの横にもう一度筆を置く。その際に持ち手の指先に力を込め過ぎてしまったようで、左右に水色が寄れてしまう。甘皮に付着したブルーは途端に輝きを失い、ただの汚れへと変わってしまった。
「っあぁ、もうまただ」
止めていた息をぷはりと吹き出し、汚く寄れてしまった指先に項垂れる。消灯までの数時間を二人で過ごす五条の部屋へ透が持ってきたのは、いつか二人で買い物へ言った際に購入した薄いブルーのマニキュアだった。食堂の手伝いをしていることや、任務などが重なりなかなか使えなかったそれは、ようやく日の目を迎えたのだ。明日は土曜日であり、透は1日オフなので、今日こそ爪を彩ろうとお風呂あがりにそわそわと少ない私物の中から取り出したのだった。
しかしその気持ちも今やしおしおと萎んでしまった。硝子にマニキュアを塗ってもらった時は、あんなに綺麗だったのに。心が浮き立つようなツヤツヤとした綺麗な指先は、今の惨状とは程遠い。塗り終わった2本の指を顔の前に翳すと、隣で紙パックのジュースを飲みながらこちらを観察していた五条から手が伸びてきた。
「貸して。俺がやる」
五条悟に対して几帳面というイメージを持っている人は多分いないだろう。失礼だとは思うけれど、こういった細かな作業はいつもの尊大で荒々しい性格の彼には向いてないと思う。それでも透の拙さも相当だったので、透は素直に五条の大きな手に一度蓋をしたマニキュアを渡すことにした。
「お願いします」
「おう、任しとけ……ちっせー指だな」
フローリングの上で五条と向き合うように座り直し、差し出された左手の中に塗りかけの左手をそろりと置く。恵まれた長躯に見合う大きく骨張った指に掴まれた自身の指は、子供の指に見える。そっと音もなく爪の上に乗せられた筆はスッと真っ直ぐに青い軌道を描く。おや、と思いながらもう一度同じように色を乗せて滑っていく筆を目で追う。
「上手、だね」
「俺に苦手なもんなんかねーの」
指先に注がれていた五条の視線がチラリと上がり、感心する透を捉える。得意げにニヤリと笑うと、次の指へと持ち替える。蛍光灯の光を反射する柔らかな白髪の旋毛が見えそうだ。いつもはうんと高い五条の頭が手の届く場所にある。
撫でたい。いいかな、怒られないかな。
透が想いを伝えた後も二人の関係は以前と特に変わらなかった。日中は五条は授業か任務。透も呪術高専内で雑用や食堂の手伝いと忙しない。こうして夜の自由時間を二人で過ごせるのはあれから初めてだった。
彼女って、触ってもいいってことだよね、と透の指先を真剣に塗っている五条の方へ空いている右手を伸ばす。指先にふわりとした感触を受け、そのままそっと毛先へ撫でる。よしよし、と自分よりも大きな五条を撫でるのはくすぐったくもどこか特別な気持ちになった。指の間をするすると跳ねるように通り抜けていく髪は、透の毛質とは大きく違う。何度か繰り返していると、俯いた姿勢のままぼそぼそと五条から声が上がった。
「あんま、そういうのやめて」
「あ、ごめん」
「いや、触られんのが、嫌とかじゃないけど」
「そうなの?」
「ウン……とにかく、じっとしてて」
男の子というものは、かっこよくみられたいものだと雑誌に書いてあった。可愛い、とかは褒め言葉にならないらしい。撫でるという行為は可愛いと繋がっているからダメなのかもしれない。雑誌の内容を思い出した透は、五条からの抗議に素直に従い、また爪先をじっと眺める。浅い水面のような、透明感のある青が五指全てに浮かんでいた。
「きれい」
「ん。反対も貸して」
五条に言われるがまま、まだ一本も塗っていない右手を左手と交代させる。右手を五条に預けたまま、塗りたての左手を、寮の部屋に備え付けられた蛍光灯に翳す。逆光であってもきらきらと光を反射する艶めきに、ほう、と感嘆のため息が漏れた。そうして透が自分の手に見惚れているうちに、五条はさっさと右手の爪にも青を塗り終えていた。
「ありがとう、すごいね五条くん」
両手を上にあげたり膝の上に置いたりして、何度も爪先の水面を輝かせる。キュッと音を立てて蓋を閉められたマニキュアが、フローリングの上にこつんと置かれた。五条は一度首を伸ばす動作をすると、またいつものように透を自分の脚の間に座らせ、ブランケットをかけると肩口から自身が塗った指先を眺める。
「お前が塗ったとこ汚ねぇな」
「はじめてだったの」
「俺もはじめてだけど?」
ムッと唇を突き出した透に五条は小さく笑う。揶揄いの言葉を紡いでいても、その柔らかな笑い方に透もゆるりと頬を緩めた。
「乾くまで動けねーな」
「うん。10分くらいかな?」
「知らねーけど、そんなんじゃねーの? なぁ、それよりなんでこの色にしたの」
五条の質問に透の体を固くなった。この色を選んだのは、もちろん五条の瞳の色を思い出させたからだ。ずらりと並ぶ小瓶のなかで、すぐに目に留まったこの青を指先に纏うことは透でも出来そうな好意の具現化だった。そんなことはきっと五条だって分かっているだろうに、わざわざ言葉にしろというのか。黙り込んだ透に答えを急かすように、五条の指が頬をふにふにと弄ぶ。意地の悪いことをするのは、昔から変わらない。だが今ではその裏にある溶けるほど熱い彼の情を知っているから、無下には出来なかった。
「五条くんの色だから、この色にした」
思い通りに答えたことできっとにやけているんだろうと、後ろを振り返ると五条は透の予想通りの顔をしていた。弧を描く唇の隙間から白い歯を覗かせる五条は、マニキュアが乾くまで動けない透の頬やこめかみに態とらしくキスをする。
「かーわい」
「もう、ちょっと離れて」
「やだ」
逃げようとするほど引っ付いてくる五条に諦めた透は、そのまま彼の胸にもたれかかることにした。揶揄われて頬がいつもより熱を持っている。赤くなった顔を見られたくなかったけれど、五条との体格差を鑑みれば隠すことなど不可能だ。
「……なぁ、なんで呪詛師相手の任務なんか受けてんの?」
だから、五条が次に投げかけてきた質問に戸惑ってしまった。
それまでの恋人同士の触れ合いと変わらないトーンでありながら、こちらを見下ろす瞳はどこか冷たい。そういえば、任務帰りに出くわした際はひどく不機嫌だったことを思い出す。あの時の彼の怒りはまだ白い煙を上げながら燻っていたのだろうか。
どんな任務を受けようが透が五条へ報告をする必要はない。五条だっていちいちどんな任務かなど教えてくれない。それでも透は言うべきだったのだろうか。なんとなく、呪詛師だと言えば五条の機嫌が悪くなるだろうと思ったのは確かだ。聞かれたら答えただろうか。隠したいという気持ちが少しもなかったかというと嘘になる。
後ろから抱き抱えるようにブランケット越しに透の薄い腹を撫でる五条の大きな手に右手をそっと重ねる。嫌な緊張でじとりと汗が滲みそうだった。
「呪詛師だって、言わなかったこと怒ってる?」
「……まぁ、ちょっと」
「ごめんなさい……言ったら、反対されそうで」
「なんで反対されると思ったの」
透の言葉が終わらないうちに被せるように五条が言う。
「な、なんでって、それは……五条くん、が怒るかもしれないと思った」
「だから、なんで俺がお前に怒ると思ったの?」
「それは……私が、魔眼の術式を人間にかけることを、嫌がってたから。呪霊じゃなくて人に使うことを、その…心配してくれてると、思って」
しどろもどろに言葉にすると、なんて大それたことを言うようになったのだろうと思う。透は五条が魅了の力がなくとも自分を好いてくれていると、知ってしまった。不器用だけれども、惜しみなく注がれてきた彼の慈しみは、いつしか透の堅く閉ざしていた壁も崩してしまった。この人は、私が無茶をして傷つくとそれ以上に苦しそうな顔をする。自分のことのように怒って、怒鳴って、そう言うことをするに値する人間だと、何度も何度も教えてくた。呪いの力を打ち消す六眼の瞳が、訴えかけてくる。
愛されているのだと、透に教えてくれた。あんなに好意も愛情も恐ろしかったのに、それら全てを乗り越えて、恋人という関係を築いてくれた。そんな人はきっともう、一生出会えないだろう。
「分かってんならいいけどさ。俺はお前にわざわざ傷ついてほしくないわけ」
「うん。分かってる、ありがとう」
「ありがとう、ねぇ……俺が任務受けんのやめろっ言ったらどーする?」
魔眼の力を人に使いたくないと言ったのは透だ。それでもその力を使うべきなのだろう、と昔の記憶を思い出さないように我慢して任務に挑んだのも、透だ。やりたくない、けれど、やらなくては透の居場所は無くなってしまうのだ。五条の隣に、いたいから。そんな望みを持っていいのだろうか、ともう一人の自分が言う。魔眼の術式をうまく扱えなかった時にたくさんの人の生活を、生きる道を、狂わせてしまった私が誰かとともに生きていきたいと願っている。烏滸がましい、と思う。それと同じくらい、いやそれよりもっと強く、五条の隣を手放したくないとも思う。だからやりたくなくても、嫌でも、怖くても、透はこの呪われた身を最大限に使うことにしたのだ。
「やめない。五条くんのそばにいたいから」
ゆっくりと口にした返事は、どうやら彼を驚かせるものだったらしい。重ねていた手が固まって動かなくなった。背中を起こし振り向いて目を合わすと、人よりも白い頬を赤く染めた五条くんが悔しそうに呟いた。
「透のくせに、ムカつく」
悪態とはそぐはない照れた表情に、ふっと頬が緩む。自然と溢れた笑みにまた五条の顔が熱を持ったことを透は知らない。