紙の月

未知の鼓動

 「すき」

 ずっと欲しかった言葉を透がくれた。思い描いていた頬を真っ赤に染めて俺のことが心底好きでたまらないというような顔ではなく、なにかを諦めるような吹っ切るようなそんな表情をした透を見るのは初めてだった。イラついていたはずが、透の言葉につい間の抜けた声を漏らしてしまった。ゆっくりと意味を理解していくにつれて、夜の闇に浮かぶように透の輪郭がきらきらと輝いて見えた。それはきっと俺の脳が見せる幻であり、白い肌が月明かりに反射しているだけのだろうけれど、まるで何かに変身するファンタジーのヒロインみたいだった。王子のキスで目覚める姫とか、そういう感じの。自分の為だけに存在する特別な人間を手に入れたこの夜を、俺はずっと忘れないだろう。


 名残惜しかったが任務明けで疲れているであろう透を寮の部屋まで送ってやった。「おやすみ」といつも通り別れの挨拶をした透が、いつもとは少し違う照れた顔でドアを閉める一連の動作に、心臓がぎゅうと苦しくなった。キスしたわけでも、ましてや手さえ触れていないというのに、こんなことでときめいているなんて俺はおかしいのかもしれない、と思いながらベッドの上でゴロゴロと何度も体勢を変え、空が白み始めた頃にようやく眠ることができた。
 
 睡眠不足で鈍るどころか、一晩立っても浮き足立ったままの気持ちを持て余し、始業前にもう一度透の顔が見たくなった五条は食堂へと足早に向かう。今日の食材を運んでいたのだろう、ダンボールを作業台に置いて中身を検分する白いコックコートの背中を見つけると、何故か急に声を掛けるのが躊躇われた。廊下側の窓から差し込む朝のまだ柔らかい白い陽射しが、古びた食堂の壁にいくつもの四角を描いている。会いたかった、だなんて柄でもないことを朝っぱらから言えるわけもない。何しにきたのだ、俺は。そんな数秒の逡巡はこちらを振り返った黒い瞳によって瞬く間に断ち切られた。

「五条くん? おはよう」
「ぅ、おぉ」
「どうしたの?」

 作業を中断し、五条の元へと迷うことなく近づいてくる透が不思議そうに小さく首を傾げる。その動きに合わせて、耳にかけられていた黒い髪がさらりとひと束こぼれ落ちた。つるりとした白い頬にかかった髪を煩わしそうに指先でもう一度薄い耳にかけるまで、結局俺は言葉を発することができなかった。
 可愛い、そんなこと前から知っている。どこにいても目を引く整った容姿はすでに見慣れている。長い睫毛も、滑らかな頬も、柔らかな桃色の唇も、全て触れたことがある。いつもと違うのは、透が俺を好きだと言ったこと。俺が透を好きなように、透も俺が好きなんだ。そう改めて理解すると、たまらない気持ちになった。

「五条くん、大丈夫?」

 遠慮がちに伸ばされた透の指先が五条の顔の前で揺れている。その手を掴んで胸の中に抱き締めると、小さな悲鳴を上げた透が胸板からなんとか顔を出して驚いた顔をしていた。

「なんだよこれ、クッソ」
「五条くん? あの、本当にどうしたの?」
「ちょっと黙ってろ」

 心臓が痛い。両思いってやつになったはずなのに、なんで俺ばっかりこんな好きなんだろう。朝から会いにきてしまうくらい、浮かれて喜んでるなんて、透は分かってるのだろうか。好きって言ったくせに、いつも通りの落ち着いた顔で、いつも通り手伝いなんかしやがって。

「……硝子に診てもらう?」
「ほんと、お前さぁ……」

 俺はもしかしたら一生こういう気持ちで生きていくのかもしれない。俺の好きと透の好きはいつまでもイコールにはならず、俺ばかりが想いを募らすのかもしれない。けれど透が透の中で一番に俺を好きでいてくれるのなら、それでもいいと思ってしまった。



「「オメデトー」」

 始業前の教室で傑と硝子に報告をすれば、二人は一瞬お互いの目を見合わせてから心の籠っていない祝福をくれた。

「……お前らまたなんか賭けてたんだろ」
「まぁね。今回は私の勝ちかな」
「くそー、もうちょい時間かかると思ったんだけどな」

 ニヤリと口角を上げた傑に対して、硝子は机に崩れるようにして深いため息を吐いた。他人の恋愛を賭け事にして面白がるなんて酷い奴らだ。むっとしたのを察知したのか、勝者である傑がニコニコと笑顔で話を変えてきた。

「それで? 両思いになれた割には不満気だね」
「不満っつーか、結局まだ最近の任務の話は聞けてないから、なんつーか、スッキりしねぇ」


 透は魔眼で人を呪ってしまうこを、あれだけ嫌がっていた。誰とも目を合わさずに、俯いて、地面ばっか睨んで生きていくつもりだったのだ。それが、どうしてこんな任務を受けるようになったんだ。呪詛師だろうが人は人。透は夜蛾とともに任務をこなしてるらしいが、どういう心境の変化だというのか。

「呪詛師とか、俺だったら透にそんな任務行かせない」
「フッ」
「あ?何笑ってんだ、傑」
「ごめんごめん。馬鹿にしているわけではなくて、悟も随分過保護になったなって」

 クツクツと喉の奥で笑い声を押し留めた傑は、元から細い目を更に細くして柔らかく破顔した。

「ほんとに。最近まで透いじめて喜んでた餓鬼のくせにさぁ」
「硝子までなんだよ」

 傑の隣で呆れたと言うように、両腕を天に向ける硝子も困っているような諦めたような、そんななんとも言えない顔でこちらを見る。

「大事なんだね、透のこと」

 二人はまるで年上の兄弟のような顔をして笑う。

「だったら、何」

 そんな同級生二人の態度にむず痒くなってくる。心なしかまた顔が熱い。くしゃくしゃと前髪を乱して少しでも顔を隠そうと試みけれど、自分の髪の長さはよく分かっている。

「あのワガママ悟坊ちゃんがねぇ」
「俺様クソ餓鬼ムーブな悟がねぇ」

 にやにやと二人は同じような顔をして笑う。入学してからまだ一年も経っていないと言うのに、息はぴったりだ。悪友からの遠回しの賛辞のような悪態を黙って受け止めていれば、途中から二人の口調がいつもの調子に戻っていく。

「てゆうかほんと非常識」
「初恋童貞だしね」
「それにヘタレ」
「おいコラ、お前らいい加減にしろよ!」

 テンポよく飛び出してくる言葉に噛み付けば、硝子にケッとそっぽを向かれた。

「まぁとにかく良かったじゃないか。来月はクリスマスもあるんだし、恋人らしいことたくさんできるんじゃない?」
「……クリスマス、って何やんの」

 質問には答えず、傑は胡散臭い笑顔を貼り付けたまま隣の硝子に目を向けた。硝子は驚いたようにぱちりと大きく睫毛を瞬くと、頬に手を当てて悩み始めた。

「五条家のクリスマスは?」
「別に、なんもしねー。普段通りだけど」
「ケーキも食べない?」
「ケーキ食う日なの?」
「んー、あっサンタとか」
「はぁ?そんなもんいるわけないだろ」

 硝子はまだ何かを悩んでいるように眉間に僅かに皺を寄せた顔のまま、傑に視線を向ける。

「きっと、透もクリスマスやらなかっただろうねぇ」
「あの子はそういうの、夜蛾センからしか知らないだろ」
「じゃあここは傑さんと硝子さんが一肌脱ぐしかないね」
「まぁ透のためだしね」

 勝手に話を進める二人はうんうんと演技がかった素振りで頷く。

「「クリスマスパーティーをしよう」」

 偽物めいた善人面をした二人の提案に俺は今日一番の低い声で「はぁ?」と言うしかできなかった。