海底を往く
透の魔力は予想通りよく馴染んだ。ギルガメッシュはその感覚を確かめながらこれで聖杯戦争に向けての魔力供給源には駒が揃ったと一人ほくそ笑む。
綺礼とのサーヴァン契約はとうの昔に消えている。受肉により現界に魔力は必要ないが、代わりに消費した魔力の回復量は霊体とは雲泥の差があった。自身の魔力量に不安などないが、魔力供給源は多くて困るものではない。
魔術師らしからぬ警戒心の薄い透は御し易く、聖杯の器に使えるかもしれないと目論んでいた。
聖杯戦争と言う名の魔術師の欲に塗れた争いはもうすぐそこまで迫っていた。
しかし聖杯戦争というよりも聖堂教会とも魔術協会とも距離を置きたがっている節がある透は、遠坂の娘や間桐の家からも逃げるような言動が目についた。
続々とサーヴァントが召喚され始めた気配を感じるのだろうか、透は不安そうな顔をしながらも学校に通っているようだ。恐ろしいなら目も耳も塞いで身を潜めて居ればいいものを、愚か者よと蔑んだが困ったように笑ってまたも大丈夫だと口にするのだった。
「して、貴様本当に聖杯戦争に参加せぬつもりか」
狭いが居心地は悪くない部屋で夕飯を食べ始めた透に問いかける。一向に言峰に参加申請をする気配の無い透に痺れを切らして水を向けるが首を横に振るばかりであった。
「しません。叶えたい願望もないですし、争うことがすきではないので…
王様は参加されるのですか?」
「ふん、流石平和呆けした雑種よの」
透の作った薄味の料理は嫌いではない。受肉したことで必要不可欠ではないが食事も娯楽の一つとして嗜んでいた。この国のビールは特に美味いので、その点は気に入っている。野菜を煮たものを摘みにビールを飲みながら間抜けな答えをした透を観察する。
このひ弱な女の体には魔術師としては文句のつけようも無い豊富な魔力と、並の魔術師よりも遥かに多い魔術回路が巡っている。まるで最適解を身体に刻んだようなそれは称賛よりも異様なほどだ。
すんなりと大した抵抗もなく我の存在を受け入れながらも、決して正式に名前を告げないところや、この家に張られた結界からも用心深さは感じられた。頭の方も悪くはないと思うがそれでも魔力を取っても文句も言わず感謝を述べる辺りは抜けているとしか言いようがなかった。
「我は前回の聖杯戦争に既に参加してこの受肉を手に入れたのだ。今回座から呼ばれることは無い。」
もし貴様がマスターになるのであれば今更他のサーヴァントと契約される面倒を思えば契約するが、と思ったが口には出さず透の反応を見る。
アジア人にしては色素が薄い瞳を大きく見開き瞬いた透は驚きを隠さずにこちらに手を伸ばしてくる。悪意の感じられない子供の手を頬に感じ、不敬であるぞ、と言えば慌てて指先が離れていった。体温の低い指先は冷たく、人らしい感情を持ち、一般人のように生活したがる彼女にしては唯一冷酷な魔術師の一面を感じさせる。
「すみません、霊体を現界させているのだと思っていたので…受肉だったのですか」
「在りし日の我の肉体を得てこの世界を体感してみたわけだ
貴様如きには霊体であれ受肉であれ分からんか…」
「在りし日の、というのはどの時代なのですか」
名を教えていないのだから透の疑問はもっともだろうがこちらから教えてやる気はない。答えずに逆に透の頬を指先で摘む。柔い肌を通して魔力を得るのと同時にほんの少しだけ自身の魔力を込める。サーヴァントの現界とともに魔術師の動きも活発になってくるがこの小っぽけな存在も器としては役に立つだろう。それまでは死んでもらっては困る。
「王様?」
「我の事より自分の心配でもしておけ」
「はい」
小さく笑って素直な返事を返す透に調子が狂うとため息を吐く。こちらばかりが策略を巡らせており、当の本人はどこ吹く風でいそいそと世話を焼いてくるので拍子が抜ける。ふらふらと出入りしているうちにこの部屋で過ごす割合が増えていき、少しづつこの小間使いのもつ歪さが如実に見えてきた。
ふと珍しく夜中に物音がした。
この部屋は透の結界のせいもあり、寝る頃にはほとんど音がしない。それはこの騒々しい時代にあっては貴重な静寂であり、透の巡らせた自衛の一種なのだろう。
自身が使っていた寝床を早々に諦めた透はリビングのソファに体を横向きに丸めて毛足の長い柔らかな布にくるまっていた。その顔には大粒の汗が浮かび、閉じた瞼の縁を彩る長い睫毛がしっとりと濡れていた。ふと彼女が何かを抱えていることに気付き少しブランケットを捲るとそれは分厚い本だった。古びた装丁と鍵のついた古風な魔術書だろう。透の魔力に似た波長はおそらく彼女の魔術媒体なのだろう。触れるだけで何かしら呪いでも発動しそうな禍々しさを持つそれにため息を吐いてブランケットを肩まで引き上げる。
悪夢に魘される透の頭に手を翳し眠りの呪いをかける。夢の中まで追いかけられて縋り付くように自身の武器を抱いている透の必死さと危うさと、そんな状況下で更なる危険因子を家に置く彼女の心理は甚だ理解不能であった。
ただ、彼女の寝顔があまりに幼くみえたので思わず自ら眠るように手を出してしまった。
透の呼吸が深く規則的な寝息に変わったことを確認して寝室に戻る。
この世界の夜をこんなに静かに過ごせる場所を手に入れて知らず知らずのうちに愛着に似た感情を持っているように思ったが、それもまた一時の暇つぶしに過ぎない。
それでしか、ありえない。
こんな世界は我が導いた先の世界ではない。