花園に住まう君

帰り道


「誰か待ってるん?」

 体育館の出入り口が見える場所に設置された数台のベンチの一つに座って、英単語帳と睨めっこしていた時だった。ふっと視界に差した影に顔を上げると知らない男の子が二人、こちらを見下ろしていた。学校名がローマ字で刺繍されたジャージを着ているところを見ると、今日の試合に出場していた選手なのだろう。バレーボールをしている人たちは本当に背が高いな、と持ち上げた首がほぼ真上を向く。

「はい、そうですけど……」
「ふぅん、そうなんや」
 
 こちらを見下ろす視線になんとなく居心地が悪くなり、隣に置いた鞄を体の前に引き寄せる。

「あ、隣座ってえぇ?」
「お邪魔しまーす」
「え、はい……」

 返事をする前にかなり近くに腰を下ろした二人に、他にも空いているのになと不思議に思う。

「その制服、芦谷やんなぁ。お嬢様学校の」
「っていうかめっちゃ可愛いなぁ! 待ち合わせって同じ学校の子? この後一緒に飯でも行かん?」

 名前が口を開くすきもなく話かけてくるので、つい圧倒されてしまう。それに距離が近いな、と少し体をずらすもすぐにその距離詰められる。どうしようと引き寄せた鞄を抱きしめるようにして、周りをそろりと伺うとこちらに向かって勢いよく走ってくる人がいた。

「名前ちゃん!!」

 金髪を揺らして走り寄ってきた宮くんに、ぐっと二の腕を掴まれ彼の胸元に引き寄せられる。視界が稲荷崎の小豆色のジャージで遮られると、聞いたことないような低い声が頭上で聞こえる。

「自分ら彼女になんの用や?」
「うわ、稲荷崎の宮やん……」
「い、行こ」

 パタパタと足早に去っていく音が聞こえなくなった頃、そろりと宮くんの胸元から視線を上げる。骨張った顎のラインが思いのほか近くにあり、こんなアングルでこの人を見る日が来るとは、と感慨深く見つめていると怖い顔をした宮くんと目が合う。途端に宮くんはしゅんと叱られた子犬のような表情で肩を落とす。

「ごめんなぁ、俺が遅なったせいであんなクソみたいな男に声掛けられて……」

 いつもは凛々しい眉を下げて謝る宮くんは、何もされとらん?、と少し身体を離してこちらの様子を確認するように視線を動かす。

「あの、大丈夫だよ、話しかけられただけで何もなかったし。でも来てくれてすごく助かったよ、ありがとう宮くん」
「ほんまに? はぁー、よかったぁ!」
 
 宮くんと目を合わせて微笑むと、途端にへにゃりと目尻を下げて安心したように笑顔になった。

「ほんなら帰ろか、名前ちゃん」
「うん」

 腕を緩く掴んでいた手を離した宮くんは、大きなエナメルのバックを掛け直すとゆっくり歩き出した。二人並んで歩きながら、今日の試合の感想を伝えると、彼は得意げに笑ってプレイ中に考えていたことやチームメイトの話をしてくれた。オレンジ色に染まった夕日が二人の足元から長く伸びる影を作っている。その影が同じペースで歩道に揺れる様子を眺めながら時折隣の宮くんを見上げると、前を向いていた視線がこちらに降りてくる。バレーボールを追っている時の彼とは別人のように柔らかな眼差しが自分に注がれていることを今更ながら意識する。

「あ、ごめんなぁ俺ばっか喋ってしもて。つまらんかった?」 
「ううん、そうじゃなくって……」

 言葉に迷いながら足を止めた宮くんにならって立ち止まる。向き合うようにして見上げると、本当に背が高いのだなと改めて思う。コートを見下ろすようにして観戦していると気づかない事ばかりが、隣に立つ彼からは感じられる。

「コートにいた宮くんが、こうして隣にいるのが不思議な感じがしてて」
「不思議?」
「うん。なんか、うまく言えないけどテレビの中から出てきた人みたい」
「ふはっ! 芸能人みたい?」

 くしゃりと笑った宮くんのオレンジ色に染まった髪が、風に吹かれて額にかかると少し幼く見える。

「名前ちゃん、手貸してくれん?」
「手?」

 差し出された大きな掌と宮くんを交互に見たあと、そっと右手の指先を彼の掌の上に置く。指の腹を硬い指先が撫でるように動く。指先を包むように握られると、火がついたようにそこだけが熱くなる。

「ほら、ちゃんと触れるし、ここにおるで。テレビとかそんな遠いとこにおらんって」
「……うん」

 指先の熱が顔に移ってしまいそうで、冷静になろうと息を潜めるように呼吸する。宮くんは異性と触れ合うことに緊張したりしないのだろうか、とちらりと前髪の影から見上げる。ぱち、と効果音がつくように目が合う。垂れ目がちの目の奥にこちらをじっと伺う熱を感じて、心臓がどくんと大きく鳴った気がした。

「あかん!! はずっ!」

 視線を逸らして大きな声で叫んだ宮くんにびくりと身体を揺らす。夕日に染まっていても分かるくらい顔を赤くした宮くんは、するりと指先から手を離すと顔を隠すように前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。耳まで赤くなっている宮くんを見ていると、思わずくすりと笑ってしまった。今日は色んな宮くんを知る事ができた。試合中の全力でバレーボールを楽しむ顔も、しょんぼりと落ち込んだ顔も、恥ずかしそうに頬を染める顔も、全部同じ宮くんだ。はじめて彼を見た時に感じた憧憬は今も胸の一番深いところにあるけれど、それ以外の感情がすくすくと名前の中に育っていることを感じる。

「宮くん、顔赤い」
「あーもう見んとって!」
「やだ。見る」
「こんの……!かわええから許すけど!」

 よく分からない理論で許されたので、くすくすと笑いながら背の高い彼の顔を思う存分眺める。困っているのか怒っているのか微妙な表情で眉を寄せた宮くんは、ぷい、と夕日に向かって顔を背けてしまう。彫りの深い整った顔立ちをかっこいいと思っていたが、今の彼は可愛いという言葉がぴったりだ。少し尖らせた唇も、負けん気の強い眼差しも、コートからファンに向けられる完璧な笑顔よりも普段の宮くんの表情に近いもののような気がする。そういう彼の日常に触れられる距離にいるという事が、ひそかな喜びとなって名前の体にじわじわと広がっていった。優越感のような、満足感のような、この感情をなんと名付けるべきか、名前はまだ知らない。

「今日、試合観に来てって誘ってもらえて嬉しかった」
「そんなん、俺の方こそ。名前ちゃんに観てもらえてるって思ったら気合い入ったで」

 名前の言葉にもう一度こちらに向き直ってくれた宮くんを見上げる。夕焼けの光に照らされた彼の顔は、穏やかで誇らし気だ。先程までの照れた宮くんはどこにいったのかと思うほど、真っ直ぐにこちらを見つめてくる宮くんの視線に今度はこちらが恥ずかしくなってくる。

「ありがとぉな」

 この人はすごい人で、私のような何もない人間とは住む世界が違うのに。なのに宮くんはここにいて、私にだけ話しかけてくれる。胸の中に直接響くような言葉になんと返せばいいのか分からなくなる。
 その後の帰り道は彼の話に相槌を打ちながら、二人の影が重なったり離れたりする度にあの時触れた指先の熱を思い出してしまった。燃えるように高い体温にもう一度触れてみたい、そう思ったことは私だけのひみつにして少し冷たくなった指をきつく握り締めた。
 

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