花園に住まう君

約束

 夕食後、治が風呂に入っている貴重な一人時間に一番上のトークルームの通話ボタンを押す。コール音を聞いていると、緊張からかスマホを握る手に汗が滲んできた。
 
「もしもし? 宮くん?」
 
 そんなことを知るはずもない彼女は、前に会った時と同じおっとりとした口調で電話に出てくれた。急にかかってきた電話に狼狽えるような素振りもなく、それが侑のことをなんとも思っていないというように感じられて少しへこむ。

「大した事とちゃうけど……名前ちゃんは何しとったん」
「今? ちょうど課題終わってどうしようかな、ってスマホ持ったとこだったよ」
「じゃあナイスタイミングやったんか」
「ふふふ、そう。もしかしてどっかで見てた?」
「そやねん、実は透視できんねん」
 
 笑い声まで可愛い。耳元で聞こえる名前の声に口元がだらしなく緩んでしまう。絶対に終わらせないと固い決意で続けているメッセージのやり取りは、侑の杞憂だったのか順調に続いている。普段まめに連絡を返さないので、治にもまだやっていたのか、と驚かれたくらいだ。そもそも今までの元カノたちとも、一応連絡は取り合っていた。ただ、彼女たちの求めるペースで返信することが出来なかったことで喧嘩に発展することがほとんどだった。強豪校のレギュラーである侑にとって練習時間以外の少ないフリータイムを削っているだけでも、譲歩したつもりだったが彼女たちにとっては足りなかったらしい。その点、名前は返信が遅れても『練習お疲れ様』と必ず送ってくれた。その言葉だけで、彼女が侑のことをよく理解してくれていると感じられて嬉しかった。

「今週末の大会も観に来るん? 小百合ちゃんとこも勝ち進んでるやろ」

 週末はインターハイの地区予選を勝ち進んだ学校が準々決勝、決勝戦を行う。稲荷崎はもちろん決勝を勝ち進み県の代表としてインターハイを目指している。芦谷女学院も今年こそは全国へ、と期待される年らしくコーチ陣の熱が高いと聞く。

「うん。そうなの、朝一から試合だって聞いてる」
「俺も試合あるんよ。もちろん決勝まで行くつもりしとる」
「宮くんたちなら大丈夫。がんばってね」

 素直な応援の言葉をもらい、やっぱり天使なのだろうかと思ってしまう。彼女は最初に出会った時も『頑張って下さい』と言ってくれた。聞き飽きるほど掛けられていた言葉だったが、すっと胸に届いたのはそこに純粋な応援の意図しかなかったからだろう。媚びやへつらいを一切感じない、背中をそっと支えてくれるような真っ直ぐな言葉が侑の何かを変えたのだ。

「ありがとお。カッコええセットプレイやるから名前ちゃん俺の試合観ててや」

 電話の向こうで彼女が押し黙る。これは友達のボーダーラインを行き過ぎただろうか、とまた手に汗が滲んできた。友達になって欲しいと言ったが、もちろん友達で満足するつもりはさらさら無い。けれどあそこで好きです、付き合って下さい、と告白して振られたらそれこそどうしようもなくなる。せっかく繋がりそうになった糸が切れてしまう。だから今はこれが最善だったはず、と自分に言いきかす。

「……うん。でも元々、観るつもりだったよ?」
「そぉか、ありがとぉ。ほんで、あのー、俺たぶん表彰式とかで最後までおらんとあかんから、ちょびっと遅なってまうけど、一緒に帰らん?」

 いつもならばよく回るはずの舌が干からびたように動きが悪い。何度か頭の中でイメージトレーニングを繰り返した言葉を言いきる頃には、心音が耳元で鳴っているのか思うくらい大きくなっていた。今まで世間一般の平均的な男よりも女の子にちやほやされてきたはずなのに、相手が名前となっただけでうまくいかない。軽く誘うだけ、深刻過ぎないように、なんでもないように、と頭の中では思っていたのに。
 急にこんなことを言っても断られても仕方がない。侑を待てば帰宅時間は遅くなるし、元から彼女は友人と帰る約束があるかもしれない。でももし、名前が良いと言ってくれれば二人で一緒に過ごせるかもしれない。同じ学校であれば努力などしなくても毎日顔を見れるが、いかんせん彼女は女子校だ。会おうとしなくては、顔を見ることも出来ない。
 
「……いいよ」
「え……え! え? ほんまに!?」
「ふふ、声大きい」
「あ、すまん! ほんまにええの?」
「私たちお友達、なんでしょ」

 くすくすと喉の奥で笑っている声がスピーカーから聞こえてくる。

「おん! ちゃんとお家まで送るなぁ」

 名前と一緒に帰れる。その約束を取り付けられたことで、緊張が一気に解ける。2段ベッドの柵にもたれながら小さくガッツポーズをしていると、階段を登ってくる足音が聞こえてきた。治に名前との会話を聞かれるのは嫌なので、慌てて彼女に謝ってから通話を切る。数秒と経たないうちにタオルを頭にかけたままの治が部屋に戻ってきた。

「あがったで」

 ガシガシと乱暴に頭を拭いていた治がこちらを見下ろし露骨に顔を顰める。

「にやけ過ぎや、ツム」
「フッフ……聞け、サム。大会の後名前ちゃんと一緒に帰んねん」
「ほぉん。名前ちゃんの手のひらで転がされとるなぁ」
「そんなもんいくらでも転がったるわ。っちゅーわけやから、お前ら先帰れよ? 絶対名前ちゃん見ようとかすんのとちゃうぞ」
「……それはフリか?」
「ちゃうわ!!」


 地区予選の決勝はそれまでの試合よりも幾分か張り詰めた空気が漂っていた。兵庫の代表をかけた戦いは、ここ数年は稲荷崎が常勝中であるがその分他校から研究・対策されている。だが侑たちとて前回の対戦と同じではない。去年の大会よりも、先月の練習試合よりも、なんなら昨日の練習よりも進化している。停滞ほど苦しいものはない。変化は常に起こり、それに対応していくことが強さではないか。

「「ナイッサー!」」
 
 サービスエースを決めた侑に対し、吹奏楽部の演奏とともに応援席から喝采の声が降ってくる。気持ちよく手を離れていったボールの感触を捕まえておくように拳を握りしめて掲げると、声援はより一層大きくなった。マッチポイントを掛けた次のサーブに向かって歩き出すと、コートの中からも外からもこちらに注がれる視線の熱量が増す。そうだ、もっと俺を見ろ、と会場にいる全ての人間に対して訴えかける。ボールを持ってエンドラインの外に立つと、しん、と応援が止む。糸が張り詰めるような静寂の中、耳の奥で血液の巡る音だけが聞こえる。いつも通り軽やかに上がったボール目掛け、助走をつけて飛び込む。ボールが手に触れる感覚の後、そのまま相手コートに大きな音を立てて弾んだ。それまでの静寂を切り裂くような歓声が上がると、チームメイトが侑の元へと駆け寄ってきた。

「最っ高や!!」
「ナイッサー侑!」
「ライン際よう攻めたな」
「あざーっす!」
 
 3年のアランと大耳に肩を叩かれ褒められる。治と片手でハイタッチを交わすと、ちょうど北から整列の号令が掛かった。コートに並んで相手チームと握手を交わし、応援席に向かって頭を下げる。口々に称賛の言葉を叫ぶ応援団に手を挙げてて応えながら、二階席をじっと仰ぎ見る。名前はどこにいるんだろうか。観てくれると言っていたが、流石に稲荷崎の応援団の側は居心地が悪いだろうから少し離れた辺りだろうか。

「どこやろ、名前ちゃん」
「……こんなかから見つかるか?」
「あ、おったぁ!」

 侑の予想通り少し離れた一般の観客に混じって名前は拍手を送ってくれていた。今日も紺色の制服に身を包んだ彼女だけが違う世界の人間のように、周囲から浮き上がって見える。目があったことに驚いたのか叩いていた手を止めた彼女に向かって笑顔で手を振る。恥ずかしそうに小さく手を振りかえしてくれる姿に胸がぎゅんと痛くなる。

「あかん……ほんま可愛い、可愛過ぎてしんどい」
「ほんま別嬪さんよなぁ」
「おい、お前は見るなサム!」

 しれっと隣で同じように名前に手を振る治の足を後ろから蹴る。何すんねん、と間をおかずに治が蹴り返してきたところで背筋が凍るような圧のある視線を感じて二人同時に動きを止める。

「侑、治。ええ加減にせえよ」
「「サーセンッ!!!」」

 北に向かって頭を下げると、応援席から笑い声が降ってくる。こんな失態を見せるはずではなかったのに、と治を睨むと同じように睨み返された。

「お前のせぇや」
「はぁ?先に手出したんそっちやろ」
「おい、双子! 信介見とるで!」

 アランの言葉にまたも同じように二人同時に謝っていた。インターハイ出場を祝う空気がいつの間にかいつもの部活の空気に戻っていく。

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