女の園
月曜日、週末にあった出来事を報告し合う女の子ばかりの教室はいつもよりも賑やかだ。皆の週末がどうだったのかは分からないけれど、名前にとってはとても特別な日となった。密かに憧れていた人に偶然出会うことが出来たのだ。今も思い出すとつい口元が弛みそうになるのを堪えて、ほんの一瞬の出会いを思い返しては小さな幸せに満たされていた。
「おはよう」
波のようにどこからともなく始まって広がっていくざわめきの中にぼんやりと浮かんでいた意識が、友人の声でふわりと現実世界に着地する。すらりとした長身を隣の席に折りたたむように席に着いた小百合は、バレー部の朝練を終えた後らしく、制汗剤の爽やかな香りがする。部活動をが盛んなここ芦谷女学院では、始業前に朝練をしている子たちも多いが、どの教室もいつも甘い匂いが溢れている。まれに体育の後などは制汗剤や香水の香りが混じり合って百貨店の化粧品売り場みたいに香りが濃くなってしまい、日本史のおじいちゃん先生には窓を開けられてしまうこともあるが、女生徒しかいないこの空間ならではの香りが名前は好きだった。
「おはよう、小百合。あれ、何かあった?」
「これ見てみ」
ノートや筆記用具を学校指定の鞄から机に出し終えた小百合は、スマホを片手で触りながらつるりとした綺麗なおでこの下にある凛とした眉を寄せたままこちらを見る。女子校らしく、下級生から絶大な人気を誇るバレー部のエースは悩ましげな表情すらも綺麗だ。美しい友人に惚れ惚れとしながら彼女がこちらに向けるスマホの画面を覗き込む。週末に小百合の試合を観戦した後に寄ったカフェで二人で撮った写真だ。新作の塩キャラメルソース美味しかったな、と思い出しながら笑顔を浮かべる自分と小百合の写真を見るも、特におかしなところはないように思う。
「美味しかったねぇ! カロリーが高いのが問題だけど、期間限定だし飲めて良かった」
「ちゃうって。美味しかったけど、そうじゃなくて。昨日気づいたけど稲荷崎のバレー部のスナ?って男からいいね来てた」
「さすが小百合! 美人だもんねぇ」
「いや、この流れ絶対あんたやん。声かけられた子探そう、とかなんとか言ってあの稲荷崎の双子からだと思う」
「え? 宮くん? それはないって。絶対あれだけで認知されてないし」
宮くん、宮侑くん。バスに乗った時から、彼のことは気づいていた。市営の体育館前で降りていく彼が大きな目を眠そうに瞬いているのを横目で盗み見ていると、生徒手帳がポトリと落ちた。気づいていないようだった宮くんのあとを追いかけて手渡した後、恥ずかしかったけれど応援しています、と伝えてしまった。初めて本人に届けることができた声援は、きっとよくあるファンからの声だっただろう。きっと彼にとっては、いつものことだ。だって宮侑くんは有名人だから。
彼を知ったのは去年の夏のことだ。小百合の応援で訪れていた体育館で一際大きな歓声を受けてプレーする彼の姿は、誰よりも目をひいた。空き時間になんとなく見始めた試合から目が離せなくなり、最終的にはその試合の結果など覚えていないくらい宮くんだけを見ていた。彼のことは何一つ知らなかったけれど、バレーボールが好きなのだと一目で分かるほどきらきらと輝いていた。あまりに楽しそうに笑うので、つい応援席にいた小百合の後輩に彼のことを聞いてしまった。高校バレーに携わっている人間ならば知らない人はいない程の有名人なのだと、彼女たちは熱心に彼について教えてくれたので、その日のうちに簡単なプロフィール帳が書けてしまうほどに宮くんのことを知ることとなった。
「……名前、絶対顔覚えられたと思う」
「そんなことない思うけどなぁ」
「名前は可愛いのに、あんなチャラ男がいいなんて……女子に暴言吐くこともあるらしい」
確かに彼の外見は、なんというか、ちょっと怖そうである。見上げるほどに高い身長に加えて、脱色された金色の髪は近寄り難い雰囲気を生み出している。けれど彼は試合中はあんなにも無邪気に笑うので、きっと悪い人ではないのだと思う。いやもし悪人だったとしても、それがなんだというのだ。友達でも、ましてや知り合いでもない。一方的に名前が知っているだけで、彼からしてみればバスでたまたま会った人間だ。万が一記憶に残るとしても、県内では多少名の知れた女子校の生徒だった、ということくらいだろう。
「でもバレーに関してはカッコイイって小百合も言ってたでしょ?」
「……まぁ、高校ナンバーワンのセッターやしな」
「そうでしょ、宮くんすごいなぁって思ってるだけ。ただのファン。たまたま会えて嬉しかったけど、ここからどうにもならないよ」
「でもSNS使うくらいには気になってるのかも。ストーカーとかになるかも。帰り道気をつけなよ」
真面目な顔をして言い切る小百合の方が他校の男の子にもよく声をかけられているというのに、この友人は時折姉のように心配性になるのだ。心配してもらっても、中等部からこの女子校に通っている名前に浮いた話など何もないというのは彼女が一番よく知っているはずだ。男の子という存在はここにはいない。ここにいるのは体育のちょっと若めの新婚の男性教諭以外は、みんな白髪まじりのおじいちゃんたちだ。他は全員女性である。中には同性同士で、という子たちもいないわけではないけれど名前はそうではない。だから恋をする相手も機会もないし、人を好きになったり好かれたりするのは自分以外の人間が楽しんでいる知らないスポーツみたいなものだと感じる。
「心配無用ですぅ」
にこりと笑って小百合の眉間を指先で撫でる。美人は怒った顔も素敵だけれど、いつもの彼女が一番素敵だ。小百合はスマホを鞄に仕舞うと、切り替えるように頬にかかる髪を耳にかける。
「そういえば来週の地区予選、応援みんなで来てくれるん?」
「うん!」
来週から始まるインターハイの予選はもちろん観に行くつもりだ。去年もクラスメイトと一緒に行ったので、今年もその予定で準備している。今年こそは全国へと進んでほしい。そうなれば学校全体で応援に行くことになるだろう。
「もちろんだよ!私もうちわも作ろうか?」
「あれ恥ずかしすぎる」
「ふふふ。小百合の後輩たち、可愛いよね」
バレー部のエースである彼女の校内での人気はすごい。一年生の中にはアイドルのように慕っている子も多く、試合に手作りのうちわを持参する者もいるのだ。試合中の小百合の凛々しい姿はきゃあきゃあと黄色い声援を集めるだけのことはあると、名前も友人として鼻が高かった。
小百合にしても、宮くんにしてもすごい人だと思う。打ち込めるものがあり、努力を惜しむことなく向き合い続けきちんと結果を出しているのだ。名前には彼らのように何かを追い求めたことがなかった。だから、いつも応援席から見るだけだ。それが少し寂しいというのは、誰にも言ったことのない秘密だ。
「地区予選、稲荷崎も試合あるやろうな。また宮のこと観に行くの?」
「うん。観たいけど……あ、でももちろん芦谷の試合優先だよ!」
宮くんのことは応援したいと思うし、試合があれば見てみたいと思う。でもこれは、アイドルがテレビに出ていたら観ようと思うのと同じような気がする。ただ一方的に知っているだけの人に抱くカッコイイなぁ、すごいなぁ、の先にある感情が、愛しいとか恋しいとかそういう物に変わるとは思えない。それに名前の胸の一番奥にあるのは、羨ましい、だ。それも少し濁っていて口には出したくない、そういう類の感情が混じっている。
「はいはい。まぁ、私も試合終わってたら一緒に観るから」
「いいの!? 小百合は人気者なのに、バレー部の皆さんに悪いなぁ」
「なんで? 名前はもうマネージャーみたいなもんだと思われてるからいいやろ」
「マネージャーとか、そんなの烏滸がましい」
「いいでしょ。いつも応援来てくれる幼馴染のこと優先して怒るような子いないから。それに一人だとまた男にちょっかい掛けられたり、変なやつに騙されそうになったりするし」
また小百合は過保護モードになっているな、と名前は苦笑いを浮かべながら教室の前方に付けられた時計を見る。あと5分ほどで始業のチャイムが鳴る時間だ。一限目の用意を確認していると、机の上に窓から差し込む光が四角形を描いていた。そっとその光の下に手を差し伸べると、ぽかぽかと暖かかった。小百合の横にある窓を見上げると、白く輝く太陽が目に入る。目を細めながら、ふと、生徒手帳を手渡したときに見上げた宮くんを思い出した。
眩しいのだ。彼は夏の陽射しのように強烈に光を放つから、つい目を向けてしまう。目の奥が痛いくらいで、逸らしたいのに、どうしてかその光を追ってしまう。特別な人、そういう人が羨ましくてたまらないのはこの手には何一つ煌めくものがないからだろう。