花園に住まう君

再会

「前の試合、あと5点で終わります!」

  一年の声で、主将の北信介はウォーミングアップを行なっていた動きを止め、こくんとひとつ頷いた。

「そろそろ移動すんで」
「「ハイ!」」

  凛とした北の声に、熱を持った身体をきゅっと引き締まった気がした。この人の声は大きいわけでもないのによく通る。北のプレーは特別上手いわけではないが、練習だろうが試合だろうが絶対に手を抜かないところは素直に好感を持っていた。

「侑、今日なんや浮ついとるで。気ぃ引き締めや」
「ういっス!!」
 
 色素の薄い黄金色の瞳が、じっとこちらを見上げるので思わず背筋が伸びる。北のことを尊敬しているが、何もかも見透かすような圧のある視線と、言い訳すらも許されない正論パンチという恐ろしい武器を持っているので、この人に見つめられるとつい逃げたくなってしまう。それは治も同じようで、侑の隣でびくりと大きな身体を揺らし、猫背になっていた背筋をピンと伸ばしていた。

「……ツム、怒られてやんの」
「うっさいわ、角名のせいや。今日昼から芦女の試合あるとかわざわざ教えてきよる」

 タオルで額の汗を拭って移動の準備を始めると、人の悪い笑みを浮かべた角名が近づいてきた。
 
「侑、あとで女子の試合観に行く? 名前チャンいるかもよ?」
「だからそうやって俺をおちょくるのやめろ! ほんで気安く名前ちゃんとか呼ぶな!」
「弄りがいがあるのにやめるわけないでしょ」

 不本意ながらネタを提供してしまったようで、角名は面白そうに口角を上げたまま後ろを付いてくる。口では角名に勝てるはずもなく、これ以上何か言われる前に荷物を持って試合会場のメインアリーナへと歩き出す。キュッとシューズが体育館の磨き上げられた床を蹴る音や、選手たちのボールを呼ぶ声が幾つも重なって一つの音楽のように聞こえてくる。ひとつ前の組の試合がもうすぐ決着が付くという熱気を外から見守るようにコートの端に立つと、すぅっと頭が冷えていくのに身体の芯が燃えるように熱くなる。

「試合中まで呆けとったらしばくぞ、ツム」
「誰に言うとるん、サム。そっちこそ一回戦やからって手抜きよったら容赦せん」

 隣に立つ治の一言に身の内に籠る熱がもう一段高くなる。身体の中心から指先までビリビリと神経が研ぎ覚まされていくのが自分でもよく分かる。己と同じ形をしている灰色の目を睨むように一瞥してから、コートに向き直るとちょうどマッチポイントが決まった。審判の吹く笛の音が空気を揺らす頃には、もう今から始まる試合のことしか頭になくなっていた。


「稲荷崎の試合見た?」
「やっばいなぁ。あの双子の連携すごかったな」
「いや尾白くんやろ、あんなんせこいわ」

 アリーナを見渡せる2階席の椅子に座ってお弁当を頬張りながら、近くを通った他校の生徒たちが交わす賞賛に思わず笑みが漏れる。

「フッフ、我ながらさっきの試合はキレキレやったわぁ」
「侑のサーブのってたもんね」
「せやろ! ノータッチめっちゃ取れたしなぁ。次は何しよかな」
「おいツム、練習しとらんトスをぶっ込むのはなしやぞ」
 
 一回戦をストレートで勝利した稲荷崎は、次は夕方ごろまで試合がなかった。クールダウンを終え、いつもの4人でゆっくりと昼食を取りながらアリーナで行われているそれぞれの試合にそれとなく目を向ける。試合が終わってしまうとちらちらと頭の中を過るのは、やはり彼女のことだった。バスで一瞬会っただけの他校の生徒と再会するなんて本当に出来るのだろうか。できるわけない、そんなことありえない、と思う反面もしかしたら銀の話と角名の見つけたSNSが本当ならここにあの子も来ているのかもしれない、と期待してしまう。

「あ、芦女の試合はじまったね」

 角名の声に重なるように響いた試合開始の笛の音に、一番端のコートへと目を向ける。白を基調にしたユニフォームを纏う選手たちの中に、すらりと手足の長いアタッカーの選手に見覚えがあった。軽やかにジャンプしてスパイクを決めた彼女が振り返ってチームメイトとハイタッチを交わす横顔は、バスの中で見た名前ちゃんの友人に違いなかった。

「ほんまにあのお友達バレー部やん。銀の記憶力すごいなぁ」

 治はほぉ、っと感心するように銀を褒める。
 
「やっぱりそうやんな、あの子雑誌の中でも目立っててん」
「うわ、応援もすご。なんか女子校ーって感じ」

 得点を取るごとに2階席の後輩達だろう集団から、黄色い声が上がる。アイドルのようにうちわを持っている子や、名前の書かれたボードを掲げる様子に、確かに共学の学校とは少し毛色が違うなと思う。『芦谷女学院』と学校名の入ったジャージを着ている子もいれば、制服姿の子もいるのでついそちらに視線がいってしまう。タイムアウトを知らせる笛の音に、選手達がそれぞれのベンチへと引き上げていく。
「小百合センパーイ」と二階席から響く高い鈴の音のような声に応えるように、名前ちゃんの友人が応援席を振り仰ぐ。軽く手を振るようにして、すぐにベンチの輪の中に入っていった彼女の名前は小百合ちゃん、というらしい。応援席からはきゃあきゃあと喜ぶ声がしており、彼女の人気ぶりがよく分かる。これはもしかしたら自分たち双子に向けられる声援よりも大きいのではないだろうか。
 その時、彼女が手を振った方向の端の席に制服の集団がいるのが目についた。その瞬間、体育館の中に響いていたあらゆる音が止まったような感覚になった。シューズのスキール音も、各校に向けられる声援も、ボールが床を弾む音も、全てが世界から消える。視線の先に映るのは、侑に向かって笑いかけてくれた笑顔と同じように柔らかな笑みを作る少女の姿だけだった。
 
「名前ちゃんや」

 肩にかかる髪を後ろに流し隣の席に座る女子と額をくっつけるように話している様子を見つめながら、思わず立ち上がってしまった。

「侑マジで見つけたの? どこ?」

 角名が切長の目をさらに細くして芦谷の応援席のあたりを睨むように見つめる。

「行ってくる!」

 ほとんど食べ終えたお弁当箱を治の膝に乗せると、ジャージを引っ掴んで通路へと続く階段をかけあがる。

「動画撮っとくね」
「変質者にならんようになぁ」
「侑、ファイトや!」
 
 3人からの応援のような揶揄いのような言葉を背に受けて、一心に走る。本当に見つけてしまった、その高揚感で侑の胸はいっぱいだった。試合が行われるアリーナをぐるりと取り囲む2階の通路はこんなにも長かっただろうか。走っているのになかなか辿りつかないようなもどかしい気持ちで、一番端に位置する芦谷女学院の応援席を目指す。早く、早く行かなければ、もう彼女とは二度と会えないような、そんな気がしてつい気持ちが急いてしまう。

「すんません、ちょっと通してください」

 立見の生徒たちの間をくぐり抜けて辿り着いた女子ばかりの応援席の中で彼女の姿を探す。いた、本当にいた。通路際の席に座っている名前の姿に、安堵感が込み上げる。何を安心しているんだか自分でもよく分からないまま呼吸を整えていると、ふと周りからの視線が集まっていることに気づいた。突然表れた侑に驚いたような顔でこちらを見ている女生徒たちに、急に血が下がるような心地がする。見つけた勢いだけでここに来てしまったが、一体なんと声を掛ければいいのだろうか。そもそも名前の知り合いでもなんでもないのに、これではまさに治の言った通りの不審者ではないか。

「……宮くん?」

 その時、周りの異様な空気に気づいたのか、彼女がこちらを振り向いた。大きな黒い瞳が溢れそうなほど目を開いて、不思議そうに侑を見ている。
 
「名前ちゃん! あー、ちょっと話あるんやけど」 
「えっ? は、はい」

 ちょっとごめん、と隣の席の子に断りを入れて立ち上がった彼女は、足早に侑の前にやって来てくれた。近くで見ると余計に可愛い。大きな目を縁取る長い睫毛が影を作る白い肌はつるつるで、控えめなサイズの唇は艶々としている。

「あの、ここはちょっと、その……」
「あ、すまん。こっち」
 
 思わず見惚れていると、頬を染めた名前が恥ずかしそうに眉を下げて小さな声で移動を促す。確かにこんなギャラリーに見守られたまま何を話すかも決まっていないのに二人でいるのは軽い拷問だ。そっと彼女の手首を掴んで、階段を登った通路の端へと進む。少し騒めきがあったような気もするが、通路の方まで来れば芦谷の応援席からは死角になった。

「手、大きい」
「はっ! 勝手に触ってしもた。ごめんなぁ」

 しげしげと観察するように手首を掴んだままの侑の手を見る名前に、慌てて手を離す。細い腕だったな、と簡単に一周できてしまう彼女の白い手首を上から眺める。思ってたよりも小柄な名前は、見上げるように侑を見て照れたように笑う。

「私の名前、なんで知ってるの?」
「あー、この前バスで、小百合ちゃん?が呼んどったの覚えてて」
「小百合のことも知ってたんだ」
「さっきから、すごい声援やったし。それで小百合ちゃん言うんやなって」
「ふふふ、そっかぁ」

 なんとか会話出来ていることにホッとしながらも、どんどん早くなる鼓動に胸が痛くなってくる。どうする、どうするもこうするも、選択肢は何があるのだろうか。しかしここで何かしないと、また名前とは会えなくなる。付き合いたいとかそういうんじゃない、と角名に言い切っていたのに、この子にまた会えないくなるのは嫌だと思う。見つけてしまったら、もうだめだった。この繋がりがぷつりと切れて無くなってしまうと思うと、居ても立っても居られなかった。

「なぁ、名前ちゃん」
「ん?」
「俺と……と、友達になってくれませんか!」

 侑の勢いに大きな目をぱちくりと瞬いた彼女は、ゆっくりと一つ頷いてくれた。

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