リクエスト企画

夜息花薇章

「花魁、東雲花魁」
「なぁに?
もうすぐお客さんが来る時間よ
早く準備してらっしゃいな」

禿に身支度を手伝ってもらっているとお使いから帰ってきた新造の茜がにこにこと駆け寄ってきた。
先日馴染み客に揃いで誂えてもらった朱色の振袖を揺らして両手で持っていた手紙をこちらに差し出す。

「冨岡様からだよ」
「そう…ありがとう
でもまた門の近くまで行ったのね?
あんまり近づいちゃダメって言ったでしょう」
「だって冨岡様いつも奥まで来たくないって言うんだもん
いいなぁ花魁はあんなかっこいい間夫がいて」
「何度も言うけど冨岡様は間夫じゃないわ」

茜が自分の簪を持ってきて挿してくれと甘えてくるので、仕方がないと小さな花を寄せて作られた愛らしい簪を二つひたいの両側に挿してあげる。利発そうな切れ長の瞳を細めて喜ぶ茜から受け取った文を小物入れにしまって鏡に映る自分の顔に紅を引く。
「花魁きれーい」
「東雲花魁はうちで一番の美女だもん」
禿と茜の賛辞にありがとう、と首を傾げるときゃきゃと笑い声が上がる。

「今日の夜はどなたがお相手だろうね」


ここは遊郭。女が男に春を売る場所。
その最高位・花魁を張っている名前は一夜で莫大なお金を生むことができる。その為たくさんの男の相手をしなくてもいいので、ことが終われば自室にこもって囲碁や将棋、漢詩に俳句と好きなことをして過ごしていた。もちろん囲碁も将棋も客と手合わせをすることがあるので鍛えておくべき科目であったので自習といえばそうなのだが、名前は戦術を立てて先を読む勝負事が特に好きだった。

冨岡様に会ったのは一週間ほど前の夜だった。
一仕事終えて部屋の片付けが終わり、さて今日は詰将棋でもとだらしなく寝転びながら将棋盤を並べたところで部屋の扉が開く。

「どちら様です?人を呼びますよ」

剣呑に首だけ捻って見やると、着物のはだけた長髪の美丈夫が胸元で刀と袂を抱きしめるようにして息を切らせて立ちすくんでいた。

「…すまないがしばらく匿っていただけないか」
「嫌よ
出て行ってくれる?
私と話したければ店に通ってちょうだい」
遊郭のルールを無視した行いに腹を立ててしっしと手を振ると、ばたばたと廊下が騒がしくなる。もう面倒ごとは嫌いよと眉間にシワを刻んでため息を吐く。
「静かにしてるのよ」

「なにを騒いでいるの
私の眠りを邪魔するのはだれ?」
「花魁、すみません
遊女の一人が気に入った客が寝ずに逃げたと騒いでまして…あのぅ、こちらには…」
「来てるわけないでしょ。お金払ってるなら寝ようが寝まいがどうでもいいでしょう…次騒がしくしたら、 明日は客を取らないわよ」
「静かにします!静かにさせます!おやすみなさい!!」
脱兎のごとく廊下を走り去った背中を見送ってから部屋に戻ると、入ってきた時と同じ姿勢で固まっていた男がようやく安心したようにほっと息を吐いてありがとう、と頭を下げた。

「女を抱かないといけないと、知らなかったんだ」
「変な人…それ以外のなにをしにこんなとこに来たのよ」
「鬼狩りだ」
乱れた着物を整え始めた彼は冨岡義勇と名乗った。鬼狩りというのが何かわからなかったけれど、着物の合わせから見える肌には古傷が沢山あった。引き締まった体と身体中の傷に確かに堅気の人間ではないのだろうと察しがついた。鬼は隠語でヤクザのことか何かなのだろうか。

「本当に助かった…だが、この街には鬼がいる」
「鬼って…人間だって鬼みたいなもんじゃない」
自分の欲望のままに悪行を犯す人間などこの街には五万といる。
「…そうだな。名はなんという」
「東雲」
「…それは本名か?」
「そんなわけないでしょ。わっちの本当の名前を知りたいんでしたら主様が私を買ってくださいな」
わざと廓言葉で彼に向かって微笑むが全く表情を崩さないので面白くない。
傾国の美女と言われるこの整った美貌に反応しない男は初めてだった。
「女を買って無体を働くような真似はしない」
言い聞かすように感情を抑えた声で話すので、思わず信じてしまいそうになる。

「そう、じゃああんたみたいな人にはここは合わないわよ。さっさと出て行った方が私たち店側も幸せだわ」
「…それは困る。しばらくこの街で鬼を探さなくてはいけない」
真面目に眉を寄せて返事をするので、ため息を吐く。
「じゃあ下男となって働くか、お医者になるか、琴や笛の先生になるのもいいんじゃないの?そのくらいしかこの街で女を抱かない男はいないわ」
「将棋は?」
ちらりと布団の上に広がった将棋盤に目をやった彼に、勝負事の好きな名前としては興味が湧く。
「冨岡様といったわね。明日の昼十二時にに店の前に来て、この手紙を入り口にいる子達に見せてくれたらこの部屋に通してもらえるわ」


弱かったらすぐに放り出そうと思っていたが、これがなかなか冨岡様は将棋が強かった。将棋指南という名目で昼間に店に呼んで、この街のことや、なにかおかしなことはないかと聞いていく彼に一応知る限りのことは話してあげた。店の中も見たいというので茜に案内をさせると顔のいい冨岡様を一目で気に入った彼女はそれからなんやかんやとわたしと冨岡様の間を取り持とうとする。

「東雲、客が絶えない遊女で思い当たる者はいないか」
今日も一勝負しながらも冨岡様は情報がないか聞いてくる。
「花魁なら全員そうだよ
毎日毎日男の相手よ」
「…君のような女の客は、消えれば目立つ金持ちや有力者だろう。いなくなっても目立たない客が通う女だ」
そう言われてふとある噂を思い出した。
「近くの大店に一晩限りの女がいるって聞いたことがある
毎夜男が通ってるが誰も馴染みにならないとか…よっぽど下手なのかとよく笑い話になるんだけどねぇ」
「名は?」
「確か菊だったかな」

わかった、と言って将棋の盤上に注がれていた視線がこちらに向けられる。
切れ長の澄んだ目が美しいこの男は最初に言った通りわたしを一人の人として扱ってくれたなと思う。金さえ払えば文句はないだろうと思っている男も多い中で遊郭に来ても女は抱かないと言うこの男はとても不思議でそんな男の側は息をするのが楽だった。

「もう、お会いできないのですね」
「…それはここのお決まりの言葉なのだろうか」
「あら…察しがいいですね。早く鬼とやらを退治して来てくださいな、冨岡様。わっちはここから出れませんので、鬼退治のお供はできません」
「今夜は外に出るな」

そう言って部屋を出ていった冨岡様の背中からはなにも感じられなかった。
残された盤上はまだ勝負の分かれ目もわからない序盤のままである。

「勝手にわたしの心だけ乱して行ってしまうのね」

体の関係がないのに、交わした言葉も決して多くはないのに、あなたが私を見る目が好きだった。
誰にでも体を開く女だと知っていながら決してその話は出さなかった。口数が多くなくててもそこに優しさを感じることができたのはどうしてだろうか。すきだの恋だの、遊女の私が望んでも苦しいだけだとずっと言い聞かせてきたのに、いつのまにかもうすっかりあなたのことを忘れられそうにない。


それは本当に大きな音だった。地響きのような体を震わす轟音に飛び起きて今夜の客の男を見やれば彼はすぐに着物を引っ掴んで駆け出してしまった。
「主様、今夜は外に出てはなりんせん!」
冨岡様の言いつけを思い出して、急いで長襦袢を簡単に紐で括って後を追う。
表の方からは引っ切り無しに建物が崩れる音と悲鳴が上がっている。どうしたのかと部屋から出てくる遊女や客の男性の合間を縫って馴染みの客の後を追う。冨岡様の持っていた刀と鬼という言葉が脳内をぐるぐる回る。本当に鬼などというものがいるのだろうか、この轟音はなんなのだ、冨岡様はご無事なのか。
店の旦那も女将さんもみんな恐々と店の門から外を伺っていた。

「…ば、化け物だ!!」

ドタドタと表に転がり出るように飛び出した男がソレを目にした途端ヨロヨロと後ろに下がる。
やっと追いつき店の入り口で立ち止まると、外では異形の女が血走った目で男を見下ろしていた。あたり一体が瓦礫塗れで向かいの店は半壊している。これが冨岡様の探していた鬼に違いない。背筋が凍るような恐怖で指先が震え出す。

「うわぁぁぁーーー!!」
絶叫して店内に駆け戻ってくる男の声を皮切りに店中がパニックになり蜘蛛の子を散らすように逃げだす。
逃げ惑う人々は命の危機を感じているからこそ自分のことしか見えていないようである。
一人外を向いたまま呆然とこちらに迫る鬼と対峙したとき、見慣れた半々羽織が目の前に現れた。

「東雲、目と耳を塞いでいろ」

冨岡様の淡々とした声に導かれるようにぎゅうと目を瞑って両手で耳を塞ぐ。
音と光の遮断された世界でも時々刀が硬いものを弾く高音やどすんと何かが地に伏せる衝撃が足元から伝わってがちがちと奥歯が震えて不快な音を立てる。
一体それがどのくらいの時間であったのかはわからない。五分だったのか半刻だったのか、とても長く感じた時間が急に静寂に変わる。

「もう大丈夫だ」

ゆっくりと耳から手を離すと冨岡様の声が耳元に聞こえて恐る恐る瞼を開くともう化け物はどこにもおらず、冨岡様の剣はすっかり鞘に治っていた。
衝撃的な出来事にぼんやりしながらも冨岡様の白い頬に手を伸ばす。熱いくらいの体温が掌から伝わりようやくうまく息を吐けた。

「…俺はもうここを離れる。一緒に来るか?」
すっと差し出された硬い掌に吸い寄せられるように手を重ねる。
「連れて行って、冨岡様」
いまだに混乱の治らない花街は悲鳴と走り回る足音の溢れていた。その中を消えるように駆け出す冨岡様に抱き抱えられながらずっと過ごしてきた遊郭を見上げる。この地獄を抜けて掴んだ彼の手もまた地獄かもしれない。
それでも名前はこの熱い腕の中でもう一度大きく息を深く吸うことができた。

「東雲…」
「もうその名は呼ばないで。わたしの本当の名前は名前、名前よ富岡様」

人気のない大門を抜けてもうすっかり遊郭が見えなくなったところで一度地面に下ろされる。
そこで初めて冨岡様は小さく笑った。

「やっと教えてくれたな名前」
「あなただけが呼んでくれる名前よ。この体は決して綺麗じゃないけど…」
「そんなことはない。名前は美しい、一目見てからずっと忘れられないほどに綺麗だ」
「まぁ…私が微笑んでも眉一つ動かさなかった癖に」
「それは…君に無体を働かないと言った手前、自分を抑えるのに必死だった。本当は名前に触れる男全てに嫉妬していたし、この髪も唇も手も体全て俺の物であればいいと思っていた」
戸惑いがちに伸ばされた手が頬を擽って首筋に這うので首を伸ばして目を瞑る。
唇にかさついた口づけをもらってゆっくりと目を開くと硬い腕にぎゅっと抱き寄せられた。

「これが私の生涯最初の口づけです」

無かったことにできないと知っているけれど、それでも言葉だけでも生まれ変わりたかった。
この人と生きていくために、名前として冨岡様と。


「茜、残念だったね姉さんのこと」
茜は自身があずかった冨岡という男の手紙の束を見ながら新しく付くことになった遊女の言葉にふるふると首を振る。
「東雲花魁は間夫と幸せになったんだ」
「…そう、そうねきっと天国で姉さんは笑っているわ」
あの夜の騒動で向かいの店は多くの怪我人を出し、こちらも行方不明者が出ていた。絶世の美女としてその名を花街に響かせていた東雲花魁は建物の倒壊で亡くなってしまったとされている。
でも茜は花魁はあの夜以来顔を見なくなった顔のいい物静かな男とどこか遠くで暮らしているのだと思うことにした。

そうきっと幸せに。