リクエスト企画

舌で転がす7度8分の微熱

身体の関節という関節にボンドを塗られたみたいだ。動かすたびに糊が剥がれるようにぱきんと音がして、骨と骨が擦れるような感覚が鈍い痛みを訴える。涙が過剰に分泌されて、両目はずっと水中を泳いでるようだ。そしてそれら全ての感覚を塗りつぶす身体中を燻る熱のせいで、名前はろくにものを考えられなかった。


「37.8℃」

ぐったりした名前の体からピピピと呼び声をあげる体温計を抜き取った杏寿郎は、そこに表示された高い体温に眉を顰める。

「昨日の夜より上がったんじゃないか?」
「そうなんだ」
「薬はまだあるから…もう一日ゆっくり寝てなさい」
「うん…」

同棲している彼氏がいるということは、こういう時には非常に助かった。昨日昼過ぎから悪寒と関節痛にもしやと病院に寄っておいて良かった。寝る前は微熱程度だったのだが、寝て起きたら本格的に熱が出てしまった。せっせと布団をかけ直したり、枕元にペットボトルや薬を持ってきて世話を焼いてくれる杏寿郎にお礼を言う。

「スマホ…」
「む、持ってこよう、あと飴もおいておくぞ」

寝転んだまま単語でしか喋れない名前のために杏寿郎はなんだかんだと甲斐甲斐しい。いつもどちらかというと、抜けたところのある穏やかな杏寿郎の世話をするのは名前だったのだが、実は彼は気が利くタイプだったようだ。そういえば歳の離れた弟がいると言っていたし、お兄ちゃんとして育ったことを思えば当然かもしれない。

スーツに着替えた杏寿郎は早めに帰るから、と心配そうに何度もこちらを振り返りながら寝室のドアを閉める。朝の柔らかい日差しが遮光カーテンの縁をぼんやりと照らしている。下駄箱を開閉する音がして、玄関のドアがバタンと閉まる。かチャカチャと施錠する音が扉の向こうで鳴ったのを最後に生活音がしんと消えた。


熱のせいでぼやっとした視界はすぐに瞼に覆われて暗くなる。息をするたびに肺の形が分かるような息苦しさとにしんどい、と独り言を言ってしまうくらいには参っていた。熱い身体を動かす気にもならず、暗い視界のまま眠ってしまおうと力を抜く。
うつらうつらと寝ているのか、起きているのか分からないような状態で微睡んでいると、次々に夢が頭の中に流れてくる。どうしてか、弱っているときの夢は悲しいものや、怖いものばかりなのだろう。内容を良く覚えてはいなくても目を開けると、涙が目尻を伝っていた。

「14時…」

スマホを見れば、杏寿郎から連絡が入っていた。
ゆっくり体を起こすと、背中にパジャマが張り付いていて気持ちが悪かった。随分汗をかいてしまっっているけれど、確か熱が出たときは汗をかいた方が良かったような気がする。

『大丈夫か?定時ですぐ帰るから君はゆっくり寝ていなさい』

お揃いで購入した猫のスタンプが、心配そうに壁からこちらを伺っている。それを見ていると、少しだけ笑うことができた。ありがとう、と送ってからお布団に篭った猫のスタンプを送り返す。
昼の分の薬を飲んでからベッドに潜り込むと、風邪のせいで心まで弱っているのか、無性に早く杏寿郎に会いたかった。




頭を撫でる手の感覚に瞼を持ち上げると、大きなオレンジの目を柔らかく細めた杏寿郎がベッドの横にいた。帰ってきたばかりなのだろう、スーツ姿のまま一番に寝室にきてくれたのようだ。

「おかえりなさい」
「ただいま」

寝起きと喉の痛みで掠れた声が出る。病人ぽい声だなぁと思いながら体を起こすと背中を大きな手に支えられた。

「起きて大丈夫か?」
「ん、少しましになったみたい」
「汗かいてるな、着替えのパジャマ持ってくる」

よしよしと頭を撫でた杏寿郎の手が離れていくのがすごく寂しい。そう思っているのが顔に出ていたのか、苦笑いした彼はすぐ戻ってくるから、と言って寝室を出て行った。
枕元のリモコンで電気を付けると、時計は18時半を指していた。本当に急いで帰ってきてくれたんだなぁとその優しさに嬉しくなる。幾分か軽くなった体で首を回し、体温計を脇に挟む。

「パジャマ、ここに置いておくぞ。あとタオルもお湯で濡らしてあるから気持ち悪かったら使ってくれ」
「ありがとう」

至れり尽せりな対応に頭が上がらない。元気になったら何かお礼をしなくちゃな、と考えながら電子音を鳴らす体温計を見ると37.2℃まで下がっていた。もぞもぞと体を拭いて、新しいパジャマに着替えるとだいぶすっきりしたので、杏寿郎のいるリビングまで行く。
普段キッチンには立たない背の高い彼が、スマホを片手に鍋と食材を交互に見る姿が愛おしい。大きな背中にぴとりとおでこをつけて逞しい体に腕を回す。

「おっと…」
「何作ってくれるの?」
「その、うどんくらいしか出来のだが…いいか?」

ねぎを切ろうとしていた手を止めて恥ずかしそうに振り向いた杏寿郎に一つ肯くと、コンロの火を止めて正面から抱きしめてくれた。

「どうした?まだ辛いよな…」
「少し寂しいみたい」

素直にそう言ってから杏寿郎の反応を伺うように顔だけ上に向けると、とろけるように優しい顔をしている。

「随分可愛いことを言う。熱のせいか?」
「ん…そうかも」
「じゃあ名前には悪いが熱があるのもいいものだな」
「しんどいのに…」
「冗談だ、元気な君が一番だ!」

ぎゅうと力強く抱きしめられて硬い胸元に頬を寄せると、杏寿郎が唇を近づけてきた。風邪がうつってしまう、と距離を取ろうとしたが後頭部に回された手に阻まれてしまう。ちゅっと可愛らしいリップ音を立てるキスをした杏寿郎はにこにこと上機嫌だ。

「うつっても知らないよ?」
「昔から言うだろう。人にうつすと早く治ると」

それに俺は風邪をひかないからな!と、謎の自信を見せる杏寿郎にソファで待ってなさいと促される。
大人しくソファでキッチンにいる杏寿郎の姿を見守る。時折不穏な音を立てる様子に、ドキドキしながらも一生懸命な様子を見ていると、たまには風邪をひくのもいいかもしれない。
そんなことを思いながら、杏寿郎が精一杯作ってくれたうどんを一緒に食べる。

うどんは少し茹ですぎて柔かくって塩辛かったけれど、とても美味しかった。