6話
辺里君の方は地面に立っているから、あむを下ろしてもなんら問題はない。けど、私の場合は、男の子が電柱の上に立っているから、下ろされたら私、死んじゃう。なるべく下を見ないようにしようと、目をつぶっておいた。見えなくなるだけでだいぶ怖くなる。あ、これ逆効果かも。
「首に腕回せ。落ちるぞ。」
「ひっ!」
そんな私を見たらしい男の人は、私に言った。落ちるぞ、という言葉ですぐに落ちることを想像してしまい、怖くなって悲鳴をあげながら彼の首に腕を回す。一瞬目を開けたけど、また怖くなってすぐに目を閉じた。体の震えが止まらなくて、ついつい回す腕の力をこめてしまう。苦しかったらごめんなさい。
「お前に、エンブリオは渡さないぞ!月詠幾斗!」
辺里君がなにか叫んでいる気がするけど、それどころじゃなかった。助けてくれてるはずの人が、いきなり私のことを持ち上げた。待って待って待って待って!死んじゃう死んじゃう死んじゃう!今まで以上の力を腕に込め、絶対に落とされないように、というより落とさないように祈った。すると、彼は再び私の体を支えてくれた。私の体勢も変わっているからか、触られているであろう位置も、腰と膝裏にある気がする。もしかして、私が首に腕を回したことで、上体が起こされて、片手で支えられるようにったから抱え直したとか?疑ってごめんなさい。
「覚えてろよ、あむ…お前のたまごは、俺が掻っ攫う!」
「きゃっ…」
耳元で聞こえたと思うと、地面の方から突風が起こり、吹き飛ばされないようにまた腕にしっかりと力を込める。あむの悲鳴のような声が聞こえた気がするけど、すぐに聞こえなくなった。ただ、体に時々感じる振動と、顔に当たる少し冷たく鋭い風が、目を開けていないこともあって怖くて、腕はずっと男の人の首に回したままだった。
「おい。そろそろ目開けろ。」
「っ………」
やっと振動も風も止んだと思ったら、また耳元で声がした。今の今まで、ずっと怖くて開けられなかった目は、でも、いつまでもひっついているわけにはいかないという思いで、ゆっくりだけど、開けることが出来た。ゆっくり、恐る恐る開けた目に最初に入ってきたのは太陽の光で、それが眩しくて、うまく開けることが出来なくて、景色も分からなかった。場所が分からない事が不安で、怖かった私は、太陽の光を避けるように、男の人を見ながら目を開け、ここは、と尋ねた。返ってきたのは、家の近くの公園の、少し奥にある森林スペースだった。私の様子を見て察してくれたのか、彼はゆっくり地面に私を下ろしてくれた。と思ったら、すぐに帰れと言われた。
「あ、のっ…」
背を向けて歩こうとする彼に、お礼を言わないと、名前も聞かないと、と思って、出た言葉はそれだけだった。そして、彼の支えがなくなってしまった体は、今までの恐怖から、力が入らず、その場に座り込んでしまった。そんな自分が情けなくて、それに、ようやくさっきのことが鮮明に思い出されて、目からどんどん涙が溢れて、頬を流れ落ちていった。言葉を話そうとしても、彼を引き留めようと思っても、出てくるのは嗚咽ばかりで、きっと彼は帰ってしまった。急に泣き出す見知らぬ小学生なんて、彼はちっとも興味なんてないんだろう。そう思ったら、また涙が出てきて、止まらなくなってしまった。私は、何がこんなに悲しいんだろう。
「俺に、何か言いたいことでもあるのか?」
既にどこかに行ってしまったと思っていた男の人は、予想に反して、わざわざ私のところまで戻って、そう聞いてくれた。しかも、しゃがんで、私の視線になるべく合わせるようにまでしてくれている。そんな彼の優しさに、さっきよりも涙が溢れ出て、止まらなくて、何も言えなくなってしまった。早く、何か言わないと。そう思っても、声は喉につっかかっているように、あ、とか、う、とかしか出てこない。
次第に、息の仕方も分からなくなって言って、浅い呼吸を繰り返す。
まって
いかないで
わたしをひとりにしないで
くるしい
ひとりはいやなの
たすけて
「おいっ!しっかりしろっ!」
「っ!あっ…」
勢いよく肩を掴まれて、ハッとした。それから、すぐに息を吸うように言われ、言われたとおり、たくさん吸った。吐いて、と言われ、同じように長く息を吐いた。それを繰り返すうちに、視界がだんだんハッキリしてきて、呼吸も楽になった。
「あのっ、ごめん、なさい。ご迷惑をおかけして…」
「いや、別に。もう平気か?」
「はい。お陰様で。」
だいぶ落ち着いて、男の人に声をかければ、心配されてしまった。本当に、この人にはさっきからたくさん迷惑をかけてしまったな。そう思いながら、もう一度頭を下げる。そして、頭を上げられなくなった。
「おい?」
私は、さっき、取り乱しすぎていた。なんであんなに泣いてしまったんだろう!ざっと顔から血の気が引いた感覚がして、次に恥ずかしさで熱くなった。きっと、私の顔は今真っ赤になっていることだろう。
恥ずかしい!穴があったら入りたい!
「っ!」
「あ、今度は真っ赤だな。」
また泣いてんのかと思った、と言われ、咄嗟に忘れてください!と懇願した。そうしたら、なんでと返されたので、なんでもです!と意味のわからない答え方をしてしまった。私のバカ。
私だって、普段はあんな風に泣かないし、というか、呼吸が出来なくなること自体今回初めてだったのだから。あれは私の記憶からも、お兄さんの記憶からもなくすべき出来事だ。そもそも、お兄さんは私のことに興味はないだろう。あむに何か言っていたようだし。
ちくり、と痛む胸に気づかないふりをして、力が入るようになった足を動かし、正座する。
「順番がおかしくなってしまいましたが、先程は、ありがとうございました。」
三指をついて、深々と頭を下げる。綺麗な形に見えていれば嬉しいな。以前やっていたテレビ番組で見たこの姿がとても綺麗で、両親やあむに綺麗に見えるか何度も確認してもらったのだから。
「何が?」
「えっ…えっと、色々、です。さっきもそうですけど、助けて頂いたので、そのお礼を、と」
「ふぅん…」
理由を言えば、どこか複雑そうな顔をして、視線を逸らしたお兄さん。何か変なことを言ってしまったのか、と思っても、事実は変わらないので、何も言えなかった。
「お前を巻き込んだんだけどな。」
「えっ?」
お兄さんがぼそりと呟いた言葉が聞き取れなくて、聞き返したけど、なんでもないと返された。
「そろそろ、学校行かないと…」
「いや、休んどけよ。またさっきみたいになったらどうするんだ。」
お兄さんの忠告に、大丈夫と返し、立ち上がる。足が少し震えているくらいで、特に問題はなかった。
「それじゃあお兄さん。本当にありがとうございました。もしまた会えたら、お礼をさせて下さい。」
もう一度、深く頭を下げて、お礼を言った。そのままお兄さんの方を見ることなく、公園の出口に向かう。
「イクト」
はずだった。
「えっ?」
「俺の名前。お兄さん、じゃなくて、月詠幾斗。」
聞き返した私に、地面に木の枝を使って漢字を書きながら名前を教えてくれたお兄さん。ではなく、月詠さん。思わずきれいな名前と呟いてしまった。けど、聞こえていなかったようで、名前を聞き返され、答えた。
「じゃあまたな、あめ。お前の礼、期待しとく。」
「えっ、あっ、はいっ!」
月詠さんは別れを告げるやいなや、あっという間にいなくなってしまった。もしかして、何か急ぎの用事があったのでは?本当に、たくさん迷惑をかけてしまったんだな。もう一度ごめんなさいと、今度は心の中で呟いて、今度こそ、私も公園の出口に向かって歩き出した。
見ず知らずの私に対して、興味が無いのならそのまま立ち去ってしまえばいいのにそうしなかったお兄さん。あのままきっと、切れた電線の先が私に当たっていたら、私は死んでいたけど、今、こうして生きていられるのはこのお兄さんのお陰。それだけじゃなくて、泣いてしまった私を心配して、忠告もしてくれる優しさも持っている。私の一生をかけても、返し切れないくらいのことをしてくれた。
その日は、あむのことでクラスの子に聞かれたりしても、あまり胸が痛くならなかった。それどころか、月詠さんの名前が知れたことの方が嬉しくて、何度も上の空になってしまうことが多い日になった。
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