バス停のあの人 後編





「少しは落ち着いた?」

「はい。……すみません、迷惑かけて。」

「ううん、むしろ気付けて良かった。」


仕事に出る直前だった母の車で送ってもらって、家に着いた彼を自分のベッドに寝かせる。
弟用のスウェットがたまたま1着だけあったので、勝手にそれを借りて彼に着させた。

今日は学校に上手く言っとくからお世話してあげなさい、なんて言ってくれたお母さんには頭があがらない。

もしかしたらお母さんも、この男の子を弟に重ねているのかもしれない。
私とおんなじだ。


「私は名前っていうの。あなたは?」

「伏黒恵、です。」


恵か、綺麗な名前だな。
儚げで優しい雰囲気の彼によく似合う。


「恵、そう気を張らなくて良いからね。
とりあえず落ち着くまでここにいたら良いよ。
友達の家だと思ってさ。」

「……ありがとう。」


お水を差し出すと、小さく頭を下げてそれをこくこくと飲む。
先ほど出したお粥にやっと手を出したのを見て安心した。

少し緊張していたのかもしれない。
いや、そりゃこんな状況だったら緊張もするか。


今日が提出期限の宿題プリントを机に広げる。
昨晩あきらめたプリントだったけど、意図せずともこうして自動的に期限が1日伸びたのだ。
ラッキー。終わらせよう。

……でも結局後ろに恵がいる状況で集中なんて出来るはずもなく、10分程で私はシャーペンを放り出した。


振り向くと、ちょうどお粥を食べ終えた彼。
お皿を下げると申し訳なさそうな顔をしていたのが、どこか可愛かった。




「……恵はさ。
どうしていつも、ああやって乗らないバスを待ってるの?」


少し楽になってきたのか、さっきより穏やかな顔をした彼に問いかける。
ずっと気になっていた事。
まさかこんな形で聞けるとは。

それは……
少し俯いて、それから彼が顔を上げる。



「……あのバスは、津美紀が……姉がいつも乗るバスだったんです。
あそこにいると、元気だった頃の姉の顔を思い出せて……」


そっか、お姉さんが。
"元気だった頃"ってことは、今は病気か何かなんだろう。
彼の眉が下がって、目元が切なく歪む。


「だから、いつもあそこに居たんだ。」

「……はい。」


声が小さくなって、恵は俯いた。
思わずまたその髪に手を伸ばす。

指で梳くと、はらはらと指の間からその柔い髪がこぼれた。

恵はそれに少し驚いて、でも安心したように目を閉じる。
なんか、本当に弟みたい。
向こうももしかしたら、お姉さんと私を重ねてくれているのかも。


「恵のお姉さんならきっと美人さんだね。
笑顔も素敵だったんだろうなぁ、」



笑った私に、恵の表情が穏やかに緩んだ。


「名前さんは、」

「名前でいいよ。」

「……名前は、兄弟は?」

「弟がひとり、ちょうど恵と同じくらいのがいるよ。
父親の方の家で暮らしてるから、ほとんど会えないんだけどね。」


初めて話した彼と、私の部屋で二人。
なんだか不思議な状況だったけど、時計は緩やかに穏やかに時を刻んだ。



こくり、こくり、と恵が船をこぐ。
体調悪いんだ、そりゃあ眠たいに決まってる。
彼の肩まで毛布をあげると、恵はそれに鼻を埋めた。

よし。恵が眠るなら、そろそろプリントの続きを。

そう思って立ち上がった私の手首を、恵の細くて熱い手が掴んだ。


「っ、名前、」

「恵……?」

「もう、少し……傍に……」


私を見つめた切ない瞳が、目の前でゆっくりと閉じていく。
きゅうっと握られた指先に、思わず心臓が跳ね上がった。

寝息を立てる恵。
それとは裏腹に爆音で鳴り出す心臓。



「……な、んだ……今の……!!!」


恵より赤くなった顔を、私は咄嗟に左手で押さえた。



もしかして私も、お熱かもしれない。

こんなの、恵のせいだ。





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