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背徳のキス

「おかえりなさいませ、ムクゲ様、ダイゴ様」
「あぁ、ただいま」

 私はこのツワブキ邸で勤めているしがないメイド。メイド、と言っても、スカートが短く、フリルが可愛い露出度が高いコスチュームを着ているわけではない。

 長いスカートに質素な白エプロン。メイドというよりは家政婦のような私。

「お食事の御用意ができておりますので…」
「ありがとう。あとでいただくよ」

 答えてくださるのはツワブキ邸亭主のムクゲ様。その御子息のダイゴ様は素っ気ない。ただ目配せされるだけだ。


 御食事が終わり、お2人はそれぞれの自室でくつろぐ時間。私は食器を全て手洗いし、明日の食事の下ごしらえまで済ませる。

 そして、全ての仕事を終わらせて向かうのは…ムクゲ様のお部屋と、ダイゴ様のお部屋。入浴の準備が完了したことをお伝えしに行くのだ。

 コンコンと丁寧にムクゲ様のお部屋のドアをノックする。そして一言「入浴の準備ができました」とお伝えする。中からはいつも通り「ありがとう」とお返しされるだけだ。いつものことだから、慣れている。

 次はダイゴ様のお部屋。ムクゲ様のときと違い、不規則なリズムでノックする。そして、返ってくるのは「どうぞ」の一言。

 この瞬間がたまらない。家政婦という職を打ち捨て、1人の「女」に戻る瞬間――愛する人のもとへ帰る愉悦、愛する人から求められる快感。

 静かに微笑むダイゴ様の胸に飛び込んだ。「おかえり」と小声で言えば、甘く「ただいま」と囁かれる。

「今日も甘えてくるね?」
「だって、寂しかったから…」

 この抱きしめられる心地良さは、いつ感じても気持ちいい。

 そう、私たちはムクゲ様に内緒で、このような関係を持っている。

 でも、キスはできない。

 抱き寄せられる腕から出て、ダイゴ様の左手を取る。薬指には、細い銀色の指輪がはめられている。だから、だ。

「どうしたんだい?」
「ううん…いつ見てもいい指輪だなと思って…」
「ははは、それを言うならキミの左手の指輪もね」

 と言って、ダイゴ様も私の左手をとった。中央にダイヤモンドが輝く華奢な指輪が、薬指にはめられている。

「いいのかい?旦那様には黙っておいて」
「それを言うならアナタも、ね…」

 ダイゴ様は別の居を構えていらっしゃるのだが、今は可愛い奥さんを騙してツワブキ邸に住み続けてる。

「いいんだよ。所詮政略結婚した女性なんだ。きっと今ごろ向こうも他の男と楽しんでると思うよ」
「あら…。相変わらずの仮面夫婦なのね」
「キミこそね」

 それなのに、こうしている間にも指輪を外さないのは、心のどこかでお互いのパートナーを忘れられないからだろうか。

 完全に忘れ去ってしまえば楽になれるのに、踏み切れない私たち。怖がりな私たちは毎日触れ合って、お互いの人肌を感じて、安心感を得ているのだ。

 加えて、背徳感という最高に美味しいスリル。まるで薬のように依存性が高く、私たちを快楽漬けにする。

「…さて」

 手を解き、優しく私をベッドに押し倒したダイゴ様。これから何が始まるかは、もう何度も何度も経験した。初めてじゃないのに、まるで初めてのようなこの気持ちの高揚は、しばらく色褪せることはないだろう。



 私たちは狡い。そして臆病だ。だからこそ、この心地よい時間を失いたくない。元の世界に戻ってしまえば、全て泡となって消えてしまう。

 お互いのパートナーには、口が裂けても言えない「淋しい」。ここでは口にしなくともその想いを共有できる。そして、想いを昇華させて快楽へと変える。

 このまま時が止まってしまえばいいのに。
 2人だけの世界になってしまえばいいのに。
 ダイゴ様と結ばれたのが私だったらよかったのに。

 ダイゴ様のためなら、なんだってしてみせるのに。

 そのために、ここの家政婦になったの。

 眠ってしまわれたダイゴ様の柳のような腰に、そっと唇で触れた。


 朝、私の腰にも、たくさんの赤い痕が残っていた。

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