ほんの少し唇が触れただけなのに
「ただいま」
「おかえりなさい」
仕事から帰ってきたダイゴは、いつにも増して精力が抜けているように見えた。この世に1着しかないスーツも心なしかよれよれだ。こんなダイゴは今まで一緒にいた中でも見たことがない。
「遅くまでお疲れさま」
「あぁ…」
顔に「今日は疲れた」と書いてある。カバンを受け取った私は「お風呂の準備はできてるよ」と声をかける。でも、彼が望んでいるのは栄養補給、つまり食事だった。
ネクタイを解いて、ビールを缶のまま飲んでいる。これも珍しい。まずビールを滅多に飲まない。そしてお酒を飲むならグラスに注いで飲む。
でも、自棄酒と言うにはほど遠く見えるのが、ダイゴの持つ上品さ故だろう。
簡単に作ったおつまみを出せば、小声で「ありがとう」と呟く。
「……はぁ」
「今日は一段とお疲れね」
「あぁ…大変だった…」
と言い切れば、一気にグイッと一缶を飲み干した。
「大事なイベントの最中に原因不明の停電になってね…」
「あぁ…それニュースになってたわ」
「誰のせいでもないけど、スタッフが理不尽にクレームつけられててね…。間に入って詫びたけど、あぁいうのって結構堪えるものだね…」
はぁっ、と大きく早くため息を吐いた。その場面を思い出してしまったのだろう。そして未開封の新しい缶に手を伸ばし、ぷしゅっと空けて飲んだ。
…この場合、どう慰めるのが正解なんだろうか。「ダイゴはがんばったよ」は上から言っているみたいで、自分なら言われたくない。「お疲れさま」はさっきも言った。「大変だったね」はかけられたい言葉ではあるけど、その先が思いつかない。
ダメだ気の利いた慰めが思い浮かばない…。悶々とする私の隣で、ダイゴのお酌は黙々と進む。
そうだ!と、今日目にしたネットのコラムを思い出した。効果的かどうかはわからないけど、やってみる価値はあるかもしれない。
「ダイゴ、手を出して」
「え?手?」
クエスチョンマークと共に差し出された左手に、そっと口付けた。
「……えっ?」
「へへ、手の甲にキスするのって『尊敬してます』って意味があるみたいよ」
「……」
お酒でほのかに赤く染まったダイゴの顔は、まるで時が止まったように固まっている。サファイアのような目は、私を映して。
いつも人のためにがんばってるダイゴはカッコいいよ、だからそんなに悲しい顔をしないで。って意味を込めたキスだった。
それに、私からキスなんて滅多にしないし、手の甲なんてキスされるとは思わない場所だから、効果はバツグンだと思ったのね。
でも、手の甲にキスは思ったよりも私にもダメージがあった。凄くキザで恥ずかしくなって、料理を持ってくることを口実に立ち上がった。
が、ぐいっと腕を引かれて、再び座らされた。
「は、えっ、と…?」
顔から火がでそうな私を、少し潤んだ目で見つめるダイゴ。
「…もう少しここにいてくれないかい?」
「へ?」
「その…、離れるのは…なんとなく寂しい…」
「…そ、そう…」
とっても恥ずかしいけど、なんだか嬉しい。
あのキスがダイゴの苦しい気持ちを紛らわせたなら、傍にいて欲しいと思ってくれたなら、私は満足だ。
とは言っても、もうすぐおつまみがなくなりそうだから、近い内に立ち上がることにはなりそうだけどね。
「でも」
「でも?」
「ホントは別のところにキスして欲しかったなぁ」
と、人差し指で私の唇に触れ、余裕たっぷりな顔でさらっと言ったダイゴ。
やっぱりこの人は、こうでなくちゃね。