ねえ聞いて、
「あのね、俺、夢をみたんだ」
坂道君の肩に凭れかかって、そっと手を取った。拒まれるかな、と思った指は優しく絡められて、ぎゅうと握ったら握り返してくれる。
「坂道君と、インハイで走ってる夢」
「うん」
「先に俺の方が登ってったんだけど、坂道君、ぐるぐるペダル回してさ、凄かったよ、どんどん追いついてきて、やっぱり笑ってさ。俺の隣に並んで、追いついたよって、笑うんだ」
今でも思い出せる。どくどくと心臓が爆発しそうなくらい痛かった。脚も、腕も、肺も。風も感じられなくなって、景色も歪んで。それでもきみが、追いついてきてくれたから。
「頂上まで勝負しようかって、二人でぐんぐん走ってさ、追いついて、抜かして、また追い付いて。もう身体中ぜんぶ痛いのに、でもゴールは譲りたくなくて、すごく苦しくて、周りの音も聞こえなくなってた」
それでも、君の声は聞こえたんだ。不思議だね。
「結局そのレース、俺が負けちゃったんだけど」
ぎゅう、と握るてのひらが熱い。
俺の熱か、それとも。
「悔しくてすごく痛くて、涙が止まんなくて。どこでどうやって坂道君と会ったのかも覚えてないのに、会わなきゃよかったって、思ったんだ。こんなに胸が痛いのなら、いっそ忘れてしまえればいいのにって。嫌いになってみようとしても、出来なかったから。」
坂道君は何も言わない。
もしかしたらこれ、夢じゃなくて、おれたちの前世かもしれないんだって言ったら、どんな顔をするのかな。
「それでも忘れる事なんて出来なかった。その時の俺はそのレースがあったからで、その痛みもいま、おれが生きてる証なんだって、忘れたら、俺のままで居られない。苦しいのだって涙だってぜんぶ、俺が生きてるって証拠なんだ」
心臓が波打つ音。心を揺さぶるのは誰も知らない頂上の色。
見たことのない景色も心地良い風も、後ろから追い付いて笑ってくれる君も、なかったら今の俺じゃなかった。だから他に、なにもいらない。
例えば昨日飲んだココアとか、さっきまで見てたテレビとか、毎日続けてるトレーニングとかを、ちょっとずつ積み重ねて、ぜんぶを吸収して、要らないものを切り捨てて、そうして出来たすべてのおれが俺になったんだ。
目頭が熱い。
「坂道君。ねぇ、覚えてる?」
絡めた指の隙間すら煩わしいと思うなんて。
確かにあの時知った痛みを、もう誰も知らない。前世であって、過去であって、俺の夢でしかない記憶を坂道君が知ってるわけない。
だからこれは、俺の自己満足だ。ただ頷いて欲しい。肯定して欲しい。それだけでいい。
「真波くん、僕と一緒だね」
「なに?」
坂道君がほっぺたを染めて笑う。
「夢でも自転車乗ってる。僕もさ、真波くんとたくさん夢で会って、競争して、勝ったり負けたりするんだよ。ね、お揃い」
広い窓から風が吹き込む。白のカーテンがひらひら揺れて、あの日の背中をかき消していく。
何もかも真っ白な病室は坂道君の頬までは白く出来なかったみたいで、カーテンが立ち止まる。
そうか、あれはもう終わったことなんだ。
過去だから、もう存在しないんだね。解ってたのに、ねえ、何処かでやっぱり、あれが現実であって欲しいと願ってしまった。
「うん、同じだね」
その言葉に、酷く心が揺らいだ。
悔しくても、嬉しくても涙は出るんだ。これが生きてるってことかな。
大切な物も、さよならをして、捨てていかなきゃ行けないね。
それが生きて行くってことなんだね。