「此処に、居てはいけないよ」
振り向くと短い銀髪が揺れた。強くない潮風にあてられても尚、美しさを忘れない輝きに目を閉じる。逸らした先は、なにも、ない。
打ち寄せる穏やかな波に膝まで浸かりながら、誰かの思念が囁いた。
「でも、僕が、他に行くところなんてないんだ」
「シンジ君」
さらりとした陶器のような肌が僕の肌と触れ合った、するりと腕を絡めて僕を捕まえる。
「ここは、なにもないから」
僕と一緒。なにもない。
赤い波と白い砂浜。空に青はなく、ただずっと灰色だった。見渡す限り、ふたりきり。
だからここにいられる。ここにしかいられない。否、ほんとうは。
指を絡めて、腕と腕がぴったりくっついて、カヲル君の体温がわかる。心音までは聞こえないのに、妙に安心する。音もなく動く彼にはもう、慣れたけど、スキンシップはまだ慣れない。突然近づいてきていつの間にか隣にいる。驚いて飛び上がりそうになってもカヲル君は決して離してはくれない。恥ずかしいのに。
「誰も見てないよ」
「でも、」
くすくす笑われたのが分かって、またうつむいてしまう。情けないと思われたのだろうか。触られることは拒むのに、自分から嫌われに行くのは怖いのだ。かと言って手は離してくれないし。恥ずかしい、のに。
「カヲル君は、」
僕なんかのどこがいいんだろう。
情けないし、引っ込み思案だし、あんまり人と関わるのは好きじゃない。なのに結構わがままだし、頑固で、どこかで平気な顔をして人を裏切っているかもしれない。カヲル君みたいに綺麗な顔はしてないし、運動も得意ではない。
「全部だよ」
見透かしたように彼が笑う。
「もちろん外見にもだけれど。僕はきみの魂に惹かれているんだ。中身も性格も顔もすべてひっくるめて好きだよ。きみが嫌いなきみのところ、とか、きみが好きなきみとか、そういうの、全部まとめて好きなんだ」
ぜんぶ、ひっくるめて?
それが、ヒトをスキになるってことじゃないの?
彼は笑う。
美しい顔で。そういえばいつも笑っている。
いやじゃ、ないのかな。僕といて。楽しいのかな。
「嫌じゃないよ。楽しい。君と生きていれば、どんなところだって楽園さ。」
打ち寄せる赤い波が膝下で飛沫をあげる。産声を上げる間もなくうまれたての泡が消えた。
「寂しいの?」
「シンジ君といれば、寂しくないよ」
「僕じゃなくても、良いんじゃないかな、カヲル君、人気だし、」
目頭が熱い。握り返した手のひらが熱い。頬が熱い。鼓動がどうか伝わっていませんように、と願ったら強く強く握り返してくれた掌に泣きたくなった。
「僕はシンジ君とがいい。シンジ君とじゃなきゃ駄目なんだ。」
ね、かえろう。
優しい声がして、けれどいやだと首を振った。
ぼくはカヲル君が思ってるようなヒトじゃないんだ。凄くずるくて、わがままで、どろどろしてて、なんて醜い。ああ、カヲル君みたいに、せめて顔だけでも綺麗でいれたら良かったのに。
「僕、何もできないよ。カヲル君、いつもにこにこしてくれるけど、優しい、僕が欲しい言葉をくれるのに、ぼくはなにも返せない。僕ばっかりで、もらってばかりで、」
自分が悔しい。
惜しみなく愛を欲しいのに、貰っても返せないから。ぼくはとても強欲で、意地っ張りだから。それでも寂しいと泣けば彼は両腕いっぱいに抱えきれないほどの好きをくれるから、ねえ。
「僕、嫌だ。この海に還ったら、僕以外の他の人ともひとつになるんでしょう。そんなの嫌だ。カヲル君を独り占めしたいんだ、ねぇ、ほら、嫌な奴でしょう。なんて奴だって思うでしょう」
だからお願い、これ以上踏み込まないで。
強請るばかりで返せない。けれど放したくない。ずっと僕だけのものであってほしい。そんなことは許されないのに。ずっと同じことを繰り返して、なんで成長しないのだろう。なんて成長しないのだろう。
「じゃあこうしよう」
ずっと黙っていたカヲル君が僕を引き寄せて、くるりと僕の正面にきた。腰を引かれて驚く暇もなく、額が近づく。
「シンジ君が嫌なら、この海には還らない。僕は僕らだけの海にかえろう」
ああ、また、そうやって甘やかすから、ぼくはどんどんずるくなって、もう引き返せないのに。
「でも、ぼく、なにもできない…カヲル君が僕にくれた分、ぼくは何も返せない」
「なにができないの」
頬を、両手に包み込まれて、鼻がぶつかりそうになるまで近づいて、綺麗な顔だって何回も思ったのに、また新しく綺麗だなって思う。
「シンジ君、なにが出来ないの。料理が出来る。洗濯もできる。人に気を使えるし、掃除だって買い出しだって、チェロもピアノだって弾けるじゃないか。なんでも出来るよ、きみに出来ないことなんてなにもないんだよ」
「そんな、こと、言ってくれるのカヲル君だけだよ…」
「そう? じゃあその僕と結婚しよう」
さらりと言われて、僕は頭が真っ白になる。気が付いたら唇に柔らかい感触だけが残っていて、もう紅い目の近さなんて忘れてしまった。
「ほんとうに…? ぼくでいいの?」
「シンジ君がいいんだ」
「僕、わがままだし、男、だし」
「関係ないよ、君だから好きなんだ」
かえろう。
手を引かれて、赤い海に身を焦がす。
涙がぽろぽろ落ちて、新しい海の嵩が増す。
いつの間にか暖かい海に、手を繋いで、ふたりで歩く。
「ねえ、じゃあカヲル君、競争しよう。どっちが早く帰れるか。」
「構わないよ」
向かい合って、両手を握って、境界が消えてゆく。暖かく、とても満たされた気分に酔う。
「それで、先に帰った方がおかえりって言って、一緒にごはん食べて、お風呂入って、くだらない話をしようよ、」
「うん」
指先から感覚が無くなって、でもそれは不快じゃない。落ちる涙で海はどんどん広がって、でもカヲル君だけは絶対最後まで離さないよ、もう、どこにも行かせないからね。ごめんね。最期まで僕と一緒だよ。
うまく言葉が出てこなくなって、涙に滲む視界が身体ごと崩れていく。カヲル君、やっぱり綺麗な顔してるなあ。
「ありがとう、シンジ君」
あたたかいなにかに包まれて、抱き返したら額に何かが触れた。暗いくらい、海の底へふたりきりで堕ちる。ふたりで還る。
なにか、聞こえた気がして、うん、頷いたけど、もう考える気にはならなくて、ただ身を委ねた。
あたたかいうみからこえがする。
おかえり、おかえり−−−