■ 純情が灼け堕ちる
 雨音程度では、やけに早い心臓の鼓動の音を隠すことは出来ないだろう。ディミトリはそんなことを考えながら、何度か繰り返しベレスに口付けた。触れるだけでは物足りなくなり、次第に深いものへ変わっていく。すると、同時にベレスの表情も変化していくのも分かった。最初のうちは恥じらいと戸惑いを宿していた瞳も、今は薄っすらと涙で濡れて、とろんとしたものになっている。
「……先生」
 何回目か分からない口付けのあと、彼女を呼んだ。ベレスはディミトリを見上げる。彼女の全身の力は殆ど抜け、ほんの少しの力を加えれば簡単にベッドに倒れ込んでしまいそうだ。ここで自分たちは何をしているのか。何をしようとしているのか。改めて考えると、ぞくりとした。ディミトリとベレスは愛し合う男女の関係ではないのだ、今のふたりは所謂「恋人」ではない。それなのに身体を重ねようとしている。互いの熱を冷ます為だけに、そんなことをしようとしている。
 いっそここで告白が出来たら、なんてベレスは頭の片隅で思った。好きなのだ、確かに、ディミトリのことは。先程の自問では頷けなかったけれど、何度も口付けるうちに心の奥にしまっておいたはずの想いがこぼれ出てきたのだ。だが、ディミトリはきっと、この想いに応えることはないだろう。単純に、仮初めの関係を彼は望んでいる。そこに、愛情だとかそういったものを持ち込むのは面倒で。
「ディミトリ……私……」
「――何だ。此処まで来て、やはり逃げたくなったのか?」
 絞り出した声は最後まで音にならず、ディミトリの冷笑にかき消される。ギシ、とベッドが軋んだ。ディミトリの大きな手が、やや強引にベレスのことを押し倒したのだ。大柄な男である彼を、ベレスが振り切ることは不可能だ。いや、振り切りたい訳ではない。本当にこんなことをしていいのか。それでディミトリの何かが落ち着くのか。それを問おうとした彼女だったが、そのまま黙してしまう。海の底に沈んだ貝のように。
 
 ざあざあと雨の音が急に強くなった。微妙な天気が続いている。明日も、もしかしたら太陽の光は得られないかもしれない。恵みの雨、という言葉もあるが今日のそれはそのようには思えない。
「……ディミ、トリ」
 ベレスの口から、またしても彼の名が溢れた。白いシーツの上に横たえられたベレスは何度も口付けられ、張り裂けそうな心をなんとか押し込む。これはきっと一方的な愛で、彼はそれを求めているわけではない。ベレスの薄紅色をした唇を、ディミトリは若干強引に抉じ開けた。そこに捩じ込められる舌。そんなことをされるのは初めてで、ベレスはぎゅっと目を閉じた。
 彼のそれが、ベレスのことを貪り食っている。自分のものではないものが押し入ってくる感覚は、彼女の何かを駆り立てていく。このままでいいのか。そんなことを考える余裕はいつの間にか失せてしまった。ディミトリと縺れるように倒れる。ベッドがまた軋む。彼の大きな体がベレスに覆いかぶされ、それでもなお口付けは続く。
 彼のもとから、逃げたい訳ではなかった。ただ、本来は許されない行為をすることに少し怯えているのだ、ベレスは。ディミトリの目には普段と違う光がある。やっと唇が開放され、ベレスは全身の力が抜けてしまったまま、ディミトリを見上げた。執拗に続いた口付けによって、彼女の胸には大きな炎。ディミトリは彼女の顔に触れた。ここに彼女が居るということを確かめるかのように。ベレスは普段よりずっと体温が上がっていて、あてがわれた彼の手が冷たいと感じるほど。
 また雨の音がする。ディミトリは自分の唇を首筋へと落とす。ベレスが高い声をあげた。何とかこらえようとしたが、それすらもままならない。ディミトリがにやりとした。ベレスの方は、そんな表情の変化に気づく余裕すらない。
 首と胸の間辺りを舐められる。ぞくぞくした。ベレスも、ディミトリも。ただそういった感覚を得た理由は違う。ベレスは背徳感に近いなにかに。ディミトリは彼女を得られるという暗い満足感に。
「あっ……」
 一層高く、そして甘い声が、部屋に広がった。ベレスは声を発することをなんとか我慢しようとして、しかしそれが出来なかったようだった。いつもなら聞くことの出来ない、そんな声にディミトリは薄暗い満足感を得る。こんな彼女を見ているのも、こんな彼女の声を聞いているのも、自分だけなのだと。ここに来て、自分に大きな独占欲があることに彼は気付く。
 ディミトリは唇を胸元から、耳のあたりへ動かした。柔らかな耳朶を食む。上擦った声が上がった。ベレスの全身に熱く、甘く、それでいて激しいものが駆け巡ったのだろう。ディミトリは妖しく笑う。ベレスにその笑みは見えていない。
「感じているのか? 先生?」
 何度か繰り返してから、囁く。かあっとベレスは顔がなお熱くなるのを感じた。真っ赤に染まった頬。それが、彼女の言葉にはならない答えだ。ディミトリが一度、一定の距離を取った。彼の青い瞳がベレスをとらえて離さない。幾つかのランプはベレスの女性らしい輪郭線をなぞり、加えていつもと違う表情もしっかりと照らす。ベレスのさらさらとした翠の髪は、シーツの上で無造作に散らばっている。
 もう一度、とディミトリはベレスの口を塞ぎ、その後にまた耳へ舌を這わせる。どうやらベレスはここが弱いらしい、と把握したからだ。再びベレスの嬌声があがる。
 それとは対照的に、胸が痛かった。ベレスは涙を堪えきれない。もし自分の想いが彼に届いて、それからの行為なら、本当に幸せだったのに。彼からも同じ感情を向けられていたら、何よりも幸福だったのに。願いは叶わないものだ、そう簡単には。ただ肌を重ねるだけ。昂ぶるものを抑える為だけに、こういったことをしている。繋がっている訳ではないのだ、自分と、彼は。張り裂けてしまいそうな心を、ベレスは隠さない。涙を絞り出す。ぽたりと落ちるそれが、シーツに小さなしみを作るのだった。

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