■ くちづけで奪う純情
 雨は上がっていた。思っていたより短時間でやんだが、それでもしかし分厚い雲が空を覆う。星ひとつ見つけることが出来ない。
 ディミトリとベレスは大聖堂を出て、闇の中を歩いていた。会話は無い。ディミトリが心身に多くの傷を抱え、それが酷く膿んでいるのをベレスは見抜いていた。その何度でもぶり返す痛みを、じくじくと疼くそれを、少しだけでも癒せないものか。ベレスの口からそういった言葉が出ると、ディミトリは笑った。といっても穏やかにだとか、柔らかくだとか――そういった類の優しい笑顔を見せた訳ではない。寧ろ、その真逆と言っても良いだろう。
 明日は休息をとれる日だ。何時に起きようが、構わない日だった。たしか、その次の日は出撃予定があるけれど。ベレスは隣のディミトリを見上げる。大聖堂で幾つかの会話をした時の彼は、氷の仮面のようなものを付けているようだった。だが、今は違う。素顔でいる。それでいて、冷たい笑みを浮かべている。
 お前は、本当にそう思っているのか。大聖堂を去る直前、ディミトリは低い声で言った。あなたの為に何かをしたい。そう言ったベレスに対して。勿論、とベレスが頷いたのを見ると、ディミトリの目になにかが宿った。獣のようななにかだ、とベレスが察するにそう時間は要さなかった。まさか、とは思ったが、彼は距離を詰める、ゆっくりと。少し無理をすればベレスは逃げられたかもしれない。だが、ベレスはその場でもう一度頷いたのだ。やや身体は震えていたかもしれないのだが。
 
 ディミトリの部屋の前。そこで彼はぴたりと足を止める。ベレスのことを見ず、加えてなにかを言うわけでも無いディミトリ。これは――逃げる道を用意しているのだ、そうベレスは察した。だが、それでもベレスは身動ぎもしない。本当ならば逃げることが正解だったのかもしれない。分かっていて、ベレスはディミトリを見上げる。良いのか。本当に、本当に良いのだろうか――ベレスは考えを巡らせた。それはぐるぐると螺旋状になっていって、辿り着いたそこにも霧が広がっている。
 ディミトリのことは正直なことを言えば、好き、だ。しかしそれが異性への愛なのかというと、すぐに頷くことが出来ない。分からない。それが今の答えだ。彼とはじめて会ったのは、傭兵として賊の討伐に出た日だった。その時の彼は、今の彼と印象が大きく違う。エーデルガルトとクロードも一緒だった。そんな彼と時を過ごし、同胞たちと支え合いながら生きた。その日々は楽しかった。本当に楽しかったのだ――戦争が起こって、フォドラが悲鳴を上げた日までは。何もかも変わってしまう日までは。
「……」
 静寂が続く。本当の想いに答えを返せないまま、ベレスはひたすらにディミトリのことを見た。また雨の音が聞こえてくる。どうやらすぐに帰ってきたらしい、雨雲は。次第にその音は激しくなる。人間の血を吸った大地のことを、酷く責めているようにも聞こえた。
 ディミトリが部屋の扉を開けたのは、その直後。彼はそのまま部屋に入り、ベレスもそれを追いかけてしまう。それが答えだった。ベレスの出した、たったひとつの答え。
 
 以前は花が生けられていたような記憶があるが、今の彼の一室は殺風景だった。その記憶も随分と前のものだから、間違っている可能性はある。たとえば、他の生徒と混同しているだとか。ベレスが入ってきたことにディミトリは僅かに表情を変えたが、何も言うこと無く扉の鍵をかけた。ガチャリと金属音がする。
 ベレスをディミトリがベッドに座らせた。それにより腰がやや沈む。カーテンは閉じられており、外とは完全に隔離されている。誰も自分たちを見ていない。本当にふたりだけ。そのことを改めて感じるベレスの頬に、僅かではあるが紅がさす。
 ディミトリの部屋にベレスが来たのは久し振りだった。相当前だ、ここに入るのは。その時はまだディミトリが士官学校の生徒として過ごしていた頃で、確か課題について質問があると言った彼について来たのだ。そういったことは何回かあったが、鮮明に記憶しているのは一番最新のものだ。古く難解な本を広げて、勉強をした。試験前だったかもしれない。ディミトリは勤勉だった。遠くない未来、ファーガス神聖王国を背負う身であるから、と熱心に学んでいたのだ。
「……何だ」
 彼がやや目をつり上げた。どうやら長いこと無言で見つめてきたベレスに、彼は少々苛立ったようだ。何度か首を横に振って、ベレスは「なんでもない」と答える。なんでもない訳が無いが、昔のことを考えていた、などと言えば彼は怒りを顕にするだろう。ディミトリにとって、過去は遠ざけたいもののひとつのように思えるから。
 
「――先生」
 間を置いて、ディミトリがベレスを呼ぶ。ベレスは頬が強張るのを感じた。彼の声はいつもと少し違う。どこが違う、と問われるとすぐに答えを並べられないのだが。ディミトリが手を伸ばしてくる。その大きな手が触れたのは、右頬だった。彼の手のひらはぬくもりを手放したように冷たく、ベレスの体が跳ねる。それはつまりディミトリからすれば、彼女のものは熱い頬、なのだろう。指が這う。頬から首の辺りへ動いて、ベレスは小さな声を落とした。
 逃げなかったのは自分だ。ディミトリのことをほんの少しでも救ってやりたい、そんな願いを抱えてベレスは此処に来ることを選んだ。この先、なにをするのか。それを考えると頭の中になにかが満ちて、くらくらする。ディミトリが自分を求め、自分を喰らうことで、僅かでも何かを得られるのであれば――それで良い。そう思ったことは事実だが、実際「それ」が現実味を帯びると世界が揺れる。
「……っ」
 突然、唇を塞がれる。ベレスは思わず目を閉じた。強く、強く閉じたそれを開けば、至近距離にディミトリの素顔が在る。彼にくちづけられたと分かったのは、その時になってからだった。仄かな熱を灯す、柔らかな唇だった。ベレスにとって、はじめての行為。ずっと傭兵として暮らし、そういったものとは無関係だったベレス。ガルグ=マク大修道院で日々を過ごすようになってからも、同様だ。
 ディミトリはそのまま彼女から少し離れた。熱が遠ざかる。そのはずなのに、身体は火照っている。ディミトリは、またベレスに逃げるという選択肢を与えているのだ。ここで終わらせれば、小さな過ちで済む。この先に進むよりはずっと。彼の隻眼はそう言っているのだ、だがベレスは立ち上がることも無かった。そのまま、エメラルドグリーンの瞳でディミトリを見つめていた。

[ prev / next ]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -