■ 気の狂れた夜の唄
 朝が来なければいい。そんなことを考えることは多々有る。このまま永遠に夜が続いて、世界が静かに終わりを迎えてしまえばいい、なんて冷静になってみると訳の分からないことを考える。
 ディミトリは今夜もまた大聖堂にいた。天上に住まうという女神に縋りたい訳では無いはずなのに、彼の足は無意識にここへと伸びる。真夜中の大聖堂は静寂に包まれていて、冷たい空気を吸い込めば、胸に広がる重く熱い感情が少しだけ鎮まるような気がした。と、いっても朝が来ればそれは沸き起こる。毎日、毎日、そんな無意味なことを繰り返している。ディミトリの口から溢れたのは、最早溜め息に近いものだった。
 
 ガルグ=マク大修道院。ここに併設された士官学校で、生徒として過ごした日々がとても遠く感じられる。たった五年しか経っていないのに。といってもディミトリの歳から考えれば、五年間というのは大きいものなのかもしれない。しかし、その五年という年月には赤黒いものがべっとりとこびりついていた。
 愛してきた祖国は蹂躙され、ディミトリは斬首されたことになっている。王家の血が途絶えたことを嘆く王国民は居るだろうが、そういったことを考える余裕など彼らには持てないというのが実情だ。ファーガスは大きく揺れている。ダスカーの悲劇の時のように。
 ディミトリは奇跡的に再会を果たしたベレス、そしてかつて同じ学び舎で暮らした者たちと、アドラステア帝国に抗う戦の道を進んでいる。だがディミトリにあの頃のような笑みは浮かぶこと無く、ただただ殺意ばかりがその口から落ちていく。エーデルガルト――彼女の首だけをディミトリは求めてきた。父を、継母を、仲間を、同胞を。死んでいった者たちに捧げると決めているのだ、自分がただの殺人鬼に化したとしても。
 
 今日も何人殺したのだろうか。出撃のあと、彼はいつも考える。それは帝国に属する者であったり、賊であったり、魔獣の類であったりとそれぞれ違うが、ひとつひとつが「命」だ。もう、既に化け物に成り果てた自分。殺した者に家族がいて、愛する人がいて――そんな風に考えることも少なくなった。躊躇いなく殺す。それが復讐へ繋がる道なのだから、と。
 外ではどうやら雨が降ってきたらしい。その音にディミトリは視線を上に動かした。大修道院は例の戦いでところどころ崩壊してしまった部分があるが、いまのところ改修は出来ずにいる。資金面が苦しいのだ。人手だって足りていない。そんな話を騎士団の連中が言っていたな、とディミトリは思い出すが、すぐにそれは思考から外れる。彼にとって、それは然程重要ではない、というよりは寧ろどうでもいいことに分類されるのだろう。
 雨の音はあまり嫌いではないけれど、好きというわけでもなかった。何もかも好きか嫌いで分ける必要も無いようにも思えるが。ディミトリはただ祈る訳でもなく、そこに立ち、様々なことを考え続けた。
 その間にも、時は落ちる。砂時計の砂は止まらない。どんな権力者であろうと、時間というものを支配することは不可能だ。あの頃に戻りたいだとか、そういった甘いことを考える者は多々居る。ディミトリもそうだった。戻れるわけが無いと痛いほどに感じてからは、そういった考えを巡らせることはやめた。
 
「……」
 雨が降り出して、十五分程が経っただろうか。ディミトリは人の気配を感じた。彼の大きな背は動かない。誰が来ようとどうでもいい。殺意は感じられないから、侵入者だとか、そういった者では無いだろう。何も反応を見せず、ディミトリは上へと向いていた視線を正面へと戻した。すると、今度は足音が聞こえた。大聖堂の扉は開きっぱなしだったようで、それの軋む音は無い。
「……ディミトリ」
 彼の名前を口にしたのは、ベレスだった。ディミトリやシルヴァン、それからメルセデスといった面々が士官学校で学んでいた頃、突然現れて「青獅子の学級」の教師となった女性だ。もともとは傭兵だったという。父と共にガルグ=マク大修道院に来たが、その父も闇に蠢く者との争いで命を落としている。ベレスはその悲しみを乗り越え、今も戦いに身を投じているというわけだ、ひとりの戦士として。
「……」
 ディミトリは応じなかった。振り返ることも、何もせず。見られていないことを良いことに、ディミトリは唇を噛んだ。何故、そんなことをしたのかは、彼自身も分かっていない。ベレスが静かに歩み寄ってくるのは分かった。足音は響く、静寂に支配されたここで。ディミトリ、ともう一度ベレスが名を呼ぶ。少しだけ震えているように聞こえて、彼は時間をかけて振り返る。
「……何の用だ」
 月が雲に潰され見つからない夜。明日は休息日で、出撃の予定はない。とはいえ明日に響くから寝ろ、とでも言うのならもう一度無視をしようとディミトリは思った。しかし、今度はベレスが黙り込んでしまった。翡翠のような瞳が揺れているのが分かる。それに似た色の髪もまた。あの日を境に、ベレスの外見は大きく変わった。女神の力で闇から抜け出たと言っていたが、ディミトリはその詳細を聞いてはいない。本当は聞くべきだったのかもしれないが、今となっては遅すぎる。ベレスは、また少しだけディミトリとの距離を縮めた。ディミトリは全く動かず、じっと彼女を見ている。
「用がないなら俺に話しかけるな」
 吐き捨てるような台詞に、ベレスは表情を歪めなかった。ベレスはディミトリを心配し声をかけてきたのかもしれないが、今の彼にとってそういった優しさは、無数の傷口を傷ませるひとつの要因にしかならない。
 
 ただ、時間が流れる。ベレスがその場を離れるわけでもなく、ディミトリが立ち去ることもなく、沈黙が続く。ディミトリはまた彼女に背を向けた。このままベレスが何も無かったように、この場から立ち去って欲しいと願いながら。だが、ベレスは大聖堂から出ることはなかった。大きな、それでいてたくさんのものに押し潰されそうなディミトリの背を、彼女はじっと見ていた。何か言葉にしたい。そう彼女は思っているのかもしれないが、ディミトリはそれを望まない。
 夜という時間は、次第にその残りが少なくなっていく。とはいえ、まだ朝はしばらく先だ。ベッドに入ったところで眠れるわけがない。なんとか眠れても、悪夢に魘されるのだ。死んでいった者たちがディミトリを責める。殺してきた者たちがディミトリに牙を剥く。そういった悪夢にまとわり付かれるくらいなら、こうしている方がずっとマシだ。少しくらいは眠ったほうが良い。ベレスにはそう言われるかもしれないが――ちらりと彼女のことを考えて、ディミトリは乾いた笑みをこぼした。当然、それはベレスにも届く。突然のことだったので、ベレスが「えっ」と小さな声を発した。
「……なあ、先生」
 ディミトリはそのまま、彼女に声をかけた。予想外のことにベレスは戸惑いながらも、彼の発する言葉の続きを待った。さっきまで恐ろしいくらいに静かだった世界は、その顔色を変える。
「お前は、このまま夜が続けばいいと思うことはあるか」
「……ディミトリ?」
「俺は……毎晩だ。少しずつ聞こえてくる朝の足音が嫌でたまらない。今だって、そうだ」
 ずっとディミトリは苦しんでいるのだ。多くを奪われ、同じ苦しみと屈辱を味わわせてやる、と冷たい決意を固めてからずっと。ベレスは一歩、彼に歩み寄る。彼女が近寄る気配にディミトリは気付いていることだろう。しかし振り返りもせず、拒む声をあげることも無い。
 ベレスの腕が、ディミトリへと伸びた。指先がそっとディミトリの腕に触れる。振り落とされるのではないか。ベレスはそう思っていたが、意外にもディミトリは何もしなかった。代わりに少しだけ表情を変えたが、ベレスの目にそれは映っていない。
「……」
 彼女は腕を掴んだ。触れるだけでは足りない、とでも言いたげに。流石にディミトリも彼女のことを見た。何故だろうか、ベレスは泣きそうな顔をしている。息が漏れた。彼女の表情の理由が見つからずに。ディミトリの目が僅かに大きくなる。そういった小さな変化に、鋭いベレスは気付く。
「……朝が嫌なのは、私も……分かるよ」
 絞り出すように、なんとか声を出したベレス。ディミトリは何も言わなかった。その目に、かつての彼を見つけて、ベレスはもう一度口を開く。
「あなたと同じ理由かどうかは、分からないけれど……」
 彼女もたくさんの悲しみを抱えて生きてきた。ずっと一緒に暮らしてきた父を目の前で殺され。担当こそしていなかったが、士官学校で共に過ごした生徒たちと戦うことになって。死を積み重ねてきたのだ、幾つも、幾つも。その中で心が痛まない訳がない。ベレスだって、眠れない日も多い。今日も、それでこんな時間に大聖堂へ来ているのだ。ディミトリと会ったのは偶然だが、もしかしたら必然だったのかもしれない。心に蔓延る負の感情を処理する為の。

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