Zhonyu 1 hour drawing/writing


twitterにて開催の「鍾甘ワンドロ/ワンライ」参加作品のまとめです

#10 夕闇にこの手を

お題:お散歩
開催日:2022/12/10

 爽やかな風が歩むふたりの間を通り抜ける。
 ここは、璃月港から遥か遠くに離れた地。人々の賑わいも無く、彼らが灯す眩い明かりも存在しない。一般には、仙境と呼ばれる一帯だ。普通の人間は、迂闊に立ち入らない。仙人と呼ばれる者たちの住処を荒らすことは、許されないことだから。
「ここはとても静かですね」
 甘雨が言う。彼女は「半仙」と言われる存在。半分だけではあるが、仙獣「麒麟」の血を引く。その為、人とは異なる永い時間と、ふたつの黒い角を与えられた身であり――そして「岩王帝君」と契約を結んだ者のひとりでもある。
「……ああ、そうだな」
 隣を歩む青年がゆっくりと頷く。
 彼の名は鍾離。先に言ってしまえば、彼こそが、甘雨にとって一番の存在――岩神モラクスの今の姿である。神の座を降り、何処にでも居る普通の人間として生きることを望んだ彼のことを、甘雨はいまでも何より大切に思っている。
 俗世の七執政の中でも、最年長の神。彼は、契約の神であり、商業の神であり、武神としても名高い存在。だが、彼はあくまでも「鍾離」という名前の凡人であることを望んだ。
 ずっと帝君を慕い、敬い、信じ続ける甘雨の方に戸惑いが一切無かったといえば、嘘になる。あの日、帝君の死を知らされた時は喪失感に溺れたし、それが事実ではないと分かった時は、また真逆の感情に襲われた。「出来れば鍾離と呼んでくれ」と言われて、すぐに頷くことが出来なかった。それくらい、甘雨にとって特別だったから。
「甘雨?」
 黙り込んだ彼女を呼ぶ。どうかしたのか、と問うその瞳は、石珀という名前の鉱石に酷似している。この辺りでも採られるもので、璃月地域でしか見ることのない石でもある。
「い、いえ、なんでもありません」
「……そうか?」
 なら良いが、と鍾離が薄く微笑う。そして、自らの右手を彼女の方へと差し伸べた。えっ、と甘雨が声を思わず漏らす。自分のそれよりもずっと大きな掌。この手に、幾度となく救われた。自分も彼の為になれたら、そう願って生きてきた。自分のすべてである岩王帝君の為ならば、どんな傷を負っても構わないとすら思っていたのだ、少し前まで。
「……」
 だが、それは誤りで。彼は甘雨が傷付くことを、痛みを覚えて苦しむことを望まなかった。寧ろ、その逆だった。自分の為にそういった傷を負う姿は見たくないと、珍しく震え声で言ったのだ、鍾離は。
 甘雨は恐る恐る彼の手を取った。触れたところから熱が広がって、全身を巡る。
 もう少し経てば、大地を遍く照らした太陽が沈む。この地にも、夜の闇が押し寄せてくる。気温は時間をかけて下がり、光の下で生きる者は暫しの眠りにつくのだ。
 だから、ふたりきりの散歩の時間も、あと僅かで終わる。旅人たちと合流し、皆と火を囲んで食事を摂って――眠るのだ、朝が来るまで。
「……あと、もう少し」
 一緒にいたいです、甘雨は声を絞り出した。この穏やかで、けれど心を大きく揺さぶる時間を、少しでいいから延長したい。甘雨の願いに鍾離は頷いて、繋ぐ手に力を込めた。彼らの頭上を一羽の鳥が翔けていく。見覚えのあるその姿。だが、ふたりは気に留めない。
「ああ、そうだな」
 遠回りをして帰ろう、鍾離は言い、甘雨が嬉しそうに頷いた。

#08 巡り会う星

お題:帰りを待つ
開催日:2022/10/08

「ほら、もう帰りましょう? お父さまがお家で、あなたの帰りを待っているわ」
 若い女性が、我が子と思しき男児に手を差し伸べる。まだ遊び足りない様子ではあるが、幼子は、母のそれに小さな手を絡めた。母子はそのまま、街の雑踏へ消えていく。

 往生堂の客卿、鍾離はひとりだった。今日のうちに済ませるべきことは、すべて終わらせた。堂主の胡桃は、まだ忙しそうにしていたが、助けは要らないと言っていた。他にやることも無かったので、鍾離は往生堂を出て、多くの人々が行き交う街の中心部へと向かったのである。
 彼が理由も何も無く、街に出ることは、そう珍しいことでもない。ゆっくりとした足取りで進む。潮風が吹き付け、見上げた空には一番星が瞬いていた。西に落ちゆく太陽は、朝が来るまで、その身を冷たく暗い深海へ埋める。
 そうやって「一日」というものは死んでいく。弔うかのように、月が控えめに光るのだ。幾万、幾億と変わらずに繰り返されてきた、「光と闇」の「生と死」である。
 鍾離はふと足を止めた。いつの間にか、街の外れまで来ていた。故に、周囲の人影は疎らだ。なにやら荷物を運ぶ青年や、船の手入れをしている水夫の姿は一定数あるが、それ以外の者の姿は目に見えて少ない。
「――!」
 そんな中で、知った背中を見つけたのだ。空の色とも、海の色とも、何かが異なっているように思える、蒼い髪。かなりの長さがあるそれが、海から吹き付ける風に靡いている。その人物は、鍾離がしばらく目を向けていても、振り返る様子はない。
「……」
 だから、なのだろうか。鍾離は声をかけなかった。このまま、会わなかったことにして、この場所から自分が離れる、という手もあっただろう。しかし、彼はそうすることが出来なかった。此処に居るのが他でもない、「彼女」だからだ。鍾離は胸騒ぎを覚える。名前を呼べば、すぐに彼女の澄んだ瞳が、自分の存在をとらえるだろう。彼女がいま、この場所で何をしているのかは、一切分からないけれども。
「……」
 しかし、それでも、この場に彼の声が響くことはなかった。代わりに、また風が吹く。契約の街を軽やかに走るそれは、若干湿っているように感じられた。

 どれだけ経っただろう。その風の中で、やっと彼女が動きを見せた。長い髪は揺れ、紫色の瞳は鍾離の存在に気付くと同時に大きく見開かれ、淡い紅色の唇が、掠れた声ではあったが、鍾離のことを呼ぶ。
 鈴の音色のような声を発する彼女の名前は、甘雨。この璃月を統治している「璃月七星」の秘書を務める、半仙の女性だ。勿論、彼女も「岩王帝君」と契約を結んでいる。
 甘雨はまず鍾離に挨拶をし、彼もまた同じものを返した。黄昏時といえる時間は去りつつあり、もうまもなく、本当の意味での夜になる。
 鍾離は一歩、彼女に近付いた。少しだけ距離は狭まったものの、それでも、その隙間を海風は通り抜ける。そこで「此方で、いったい何をなさっているのですか?」と甘雨が先に問いかけてきた。鍾離は即答しない。別に、答えを出し渋っている訳ではない、なんと言えばいいのか、それが今ひとつ、分からなかったからだ。結局、鍾離は「何をしていたという訳ではないが」と当たり障りないが、曖昧な返答をする。甘雨が不思議そうな目をした。無理もない。
 今度は、鍾離が同じ問いを、彼女へと投げかけた。甘雨もすぐに口を開かなかった。そうですね、強いて言うのならば、私は、此処で待っていたのだと思います――まるで他人事のように、甘雨が言う。何を、と更に謎を深めた鍾離に、甘雨が穏やかに微笑った。その表情は柔らかなものだというのに、瞳にだけは、力強い光が宿されていた。甘雨が歩み寄ってくる。鍾離を呼び、そっと手を差し伸べてくる。
「……帝君あなたが、私の所へ帰ってきてくださることを――ずっと」
 恭しく頭を下げる甘雨。麒麟の角が見える。長きを生きている証でもあり、岩神との契約を遂行する者の証でもある。
 鍾離が数秒の間を置いてから、ああ、と応えて、彼女の手を取った。結ばれた部分に熱が灯される。これは、彼女が此処に――一番近くに、居る証明。鍾離は手に力を込める。甘雨は、誰より岩王帝君を慕う者。岩王帝君を知る者。帰りを待っていたというのだから、それ以上のなにかを渡すべきだ。鍾離は彼女の名を改めて呼んだ。居場所は此処にあるらしい――璃月の夜は、静かに更けていくのだった。

#07 この手で掴みしもの

お題:迂闊に攻めるな・手を繋ぐ
開催日:2022.09.10

 青く、高く、どこまでも続く空。広大な大地には緑が生い茂り、至るところで色とりどりの花は咲く。木々の梢からは小鳥たちの歌が響き、きらきらと晶蝶も風と舞う。
 テイワット大陸はとても美しい。だが、人類に敵意を持ち、悪意に満ちた存在も、残念ながら数多く存在する。甘雨は矢を番えた。集中力を高め、持てる力のすべてを振り絞り、ヒルチャールに向けってそれを射る。見事に命中し、ヒルチャールが奇声を上げ、そのままもんどり打って倒れた。
 ふう、とひとつ息を吐く。周囲のヒルチャールは全部倒した。これで依頼も無事達成だ。甘雨はほっと胸を撫で下ろす。
「――」
 こうして戦いに身を投じる時、甘雨には決まって思い出す言葉がある。迂闊に攻めるな、という「彼」の台詞だ。

 昔、甘雨は無茶をして、怪我を負ったことがある。岩神の召喚に応じ、彼や同胞と共に、終わりの見えない戦の日々を送っていた頃の話だ。甘雨は、岩王帝君の為にと心血を注いで戦っていた。彼の為ならば、命も捧げられる程の覚悟を決めて。だが、ある時、いつもなら避けられたであろう敵からの攻撃を避けられず、背中を斬られたのだ。激しい痛みを覚え、甘雨は大地に突っ伏した。生命を物語る赤い血が滴り落ちていく感覚がする。呆気なく、此処で自分は終焉を迎えるのだろうか。帝君、ごめんなさい――そう、弱々しい声を上げる。敵を元素力で討ち倒し、甘雨のもとへ駆け寄ってきた彼は、酷く動揺した顔をしているのが分かった。霞んでいく視界で、彼の存在だけが鮮明に見えたのだ。足音が聞こえる。治療を得意とする仲間のものだろうか。甘雨はゆっくり目を閉じた。意識は、鈍色の沼に沈んでいくようだった。
 そんな甘雨が目を覚ましたのは、それから数時間が経過してからだった。横たえられた身体の直ぐ側には、彼が居る。彼は張り詰めたような表情をしていて、甘雨の覚醒に気付き、その顔を緩めた。ごめんなさい、と改めて謝罪の言葉を口にする。彼はそんな甘雨の頭をそっと撫で、お前が無事で良かった、と言った。そしてこう続けたのである――迂闊に攻めるな、俺はお前のことを喪いたくはない、と。彼の言葉は、真っ直ぐに甘雨の胸で響く。まだ残るズキズキとした傷の痛みは、自分の弱さを突きつけるものである。
「……あ、あの、帝君」
 ひとつだけ、よろしいでしょうか、甘雨は言う。ああ、と頷く彼の瞳にもまだ薄暗い影が残されている。
「手を……繋いで頂いても、よろしいでしょうか……」
 いつもならそんな懇願の言葉、たとえ思っていても出て来ない。だが、今はするりと出てしまった。痛みが甘雨に冷たいものを齎している。このまま深い眠りに落ち、目覚めることが出来なかったら。そんな底知れない不安が、甘雨の胸に広がっていた。ああ、構わない。彼が言う。戸惑いや躊躇いのようなものは無く、ただ、真っ直ぐに目を向けられる。手を結びつけていれば、彼と同じ世界で目を覚ますことが出来る。彼がこの手を引いてくれるから。甘雨は安堵しながら、その目を閉じる。

「――甘雨」
 過去を思い起こしていた彼女を、現実へ引き戻すのは鍾離の声だった。今日も甘雨は彼と同行していたのだ。ふたりは旅人の同行者として、ヒルチャール討伐の任務についていたのである。鍾離さん、と名を呼べば、彼は満足げに頷いた。怪我は無いようだな、と続けた彼にも負傷した様子は見られない。
「そろそろ璃月港へ戻るか。旅人も、帰ってきている頃だろうからな」
「ええ、そうですね」
 では行こう、と彼は言う。甘雨も改めて首を縦に振り、璃月港へと繋がる道を歩み出す。
 長い年月は、世界を大きく変様させた。璃月の街も、昔と違った部分が多くある。人の時代を迎えたこの国は、これからも前を見据えつつ、変わっていくのだろう。もしかしたら、良いことばかりではないかもしれないけれど――それでも、だ。いつの間にか彼と繋がれていた手を、甘雨は見る。鍾離もその視線に気付いたらしいが、特に何も言ってはこない。ただ、結ばれた部分にぐっと力を込める。どんな暗闇に落ちても、彼は自分を引き上げてくれるだろう。嘗ての「彼」がそうしてくれたように。空は変わらずに青く、その下に広がる盤石なる大地では、多くの生命が未来へ向かって突き進んでいくのだった。

#06 輝ける花へ

お題:ひざまくら
開催日:2022.08.13

 ゆっくりと瞼を開けば、柔らかな陽の光が鍾離の意識を現実へと誘っていく。んっ、と思わず漏れ出た声。どうやら、自分はいつの間に眠っていたらしい――その事実に到達したのとほぼ同時に、少女の声が彼の鼓膜を揺らした。
 降り落ちてくる視線は、まるで日光のように、穏やかそのもの。目が覚めたのですね、と彼女がふわりと微笑っている。甘雨、とその名を呼びかけて、そこでようやく自分の置かれている状況に気付いた――鍾離は甘雨に「膝枕」をされていた。
「……す、すまない、甘雨……!」
 勢い良く身体を起こす。いえ、と甘雨は笑っている。一方で、鍾離は「どうしてこのような」と思考を巡らせた。つい先程まで、甘雨と共に、璃月港から程近い草原を散歩していたはず。事実、視界に飛び込んでくる景色は、雲来の海で見られるものだ。少し歩き疲れたから、この辺りで休憩をしよう、と言った記憶もある。柔らかな草の上に敷布を広げて、並んで座った、その先の記憶が無い。濃い霧が立ち込めている。気を悪くさせたのでは、と鍾離は自分らしくも無く慌てた。
「お疲れでしたのでしょう?」
 甘雨は普段通りだった。怒っていたり、呆れたりしているような素振りはまるで無い。確かに今日は甘雨と会うまで、往生堂の仕事をしていた。それらを片付けて、ひと月振りに彼女と会って、一緒に出かけたのだ。何処へ行きたいか、と甘雨に問うと、無欲な彼女からは「あなたとならば何処へでも」と続けられて。時間的に遠くまでは行けない、だから散歩でもしよう、鍾離はそう返した。それで――どういう訳か膝枕。
「いや、そうでも……無いはず、だが……」
 無自覚ではあったが、疲労が溜まっていたのだろうか?
 いや、違う。昨晩、良く眠れなかったせいだ――然程の時間を要さず「答え」を見つけたものの、鍾離は口を濁した。眠れなかった、と真実を言えば、甘雨は心配するだろう。心優しい彼女のその心を、そういった気持ちで満たしたくはない。それに、と鍾離は甘雨を見た。眠れなかったのは、久々に甘雨と会えるという事実に、心が落ち着かなかったせいだ。子どもじみた理由だ、と顔が熱くなる。
「鍾離さん?」
 黙った彼に、甘雨が首を傾げている。水色の綺麗な髪がそよ風に靡いた。
「あ、ああ……本当に悪かった……。重かっただろう」
「いいえ。お気になさらず」
「……だが」
 彼女の顔色に変化は無い。普段と同じだ、慈しむような眼差しも、僅かに赤らんだ頬も、薄紅色を乗せた唇も。甘雨の隣に座し、鍾離は彼女に向けていた視線をいったん動かし、空を眺める。白い綿雲が流れていくのが見えた。この七つの元素が複雑に絡み合うテイワット大陸を見下ろす光は、先刻よりは西へと傾きつつあり、時間の経過を感じ取れる。
「では、今度……少しだけ、私に付き合っていただけますか?」
 甘雨が言う。こんな風に彼女が何かを頼んでくるのは珍しい。ああ、と鍾離はすぐに頷いた。それで一体何をだ、と言葉を足す。普通ならば、そちらを先に口にするものだが、今回ばかりは例外だ。
「……清心の花を摘みに行きたいのです」
 清心。璃月地域で見られる、白い花。鍾離は目を大きくし、けれど即座に首を縦に振った。彼の返答に甘雨がぱあっと目を輝かせる。素直な反応と、そういえば清心は、甘雨の好物だったな、ということを思い出し、鍾離の頬にも笑みが浮かぶ。
「では、次の休日にでもどうだ?」
「はい。是非、お願いします。……ふふ、鍾離さんとお出かけ出来るのを、楽しみにしていますね」
 甘雨が言う。照れもせずに言う彼女を見て、鍾離の胸がぎゅっと締め付けられた。勿論、好物の清心を楽しみにしているのもあるだろうが、彼女は自分と出かけるということに喜びを感じている――それが、ひしひしと伝わってきて。
「……俺も、楽しみだ」
 そう返すだけで精一杯だった。だが、きっと自分は――そして彼女も「その日」を指折り数えて待つのだろう。結ばれた小さな約束は、彼らに大きななにかを齎そうとしていた。

#05 あなたというひかり

お題:水辺のひととき
開催日:2022.07.09

 陽光に照らされて水面がきらきらと輝く。南方から吹いてくる風も柔らかく、緑の森からは小鳥たちの囀りも聞こえてくる。どこまでも穏やかな光景が此処にはあった。
 月海亭の秘書である甘雨は、「七星」の凝光から休暇を与えられてこの場所に足を運んでいた。璃月港からは然程の距離は無い。休暇は数日間。もっと遠くまで出かけても、何の差し支えも無い。しかし、彼女は此処にいる。いつでも璃月港に戻れるような場所に。
「……」
 青々とした大地を撫でる風が、花の香りを運んでくる。本当に、この世界は美しい。そんな美しい世界が、穏やかな時間を紡いでいけるのは、遠い過去があるからだ。戦に塗れていた時代。人々が恐怖に震えていた時代。それらを乗り越え、テイワット大陸のいまがある。
 甘雨は半分だけではあるが、「仙獣」麒麟の血をひいている。故に長い時間を与えられた身で、魔神戦争時代も「彼」と共に戦った。そっと頭部の角に、甘雨は自らの右手で触れてみた。確かに存在するそれは、自分が自分であることの証明とも言えるものだった。幾つもの過去が過ぎっていく。

 どれだけ経過しただろう。甘雨は背後に気配を感じ取って、ゆっくり振り返る。するとそこには見知った長身の青年の姿があって、甘雨は思わず息を漏らす。
「……鍾離、さん」
 何故、彼が此処に居るのだろう。ついさっきまで、周囲に人の気配なんて一切無かったというのに。彼は石珀に酷似した目を細めて、甘雨の名前を呼び、時間をかけて歩み寄ってくる。自らの胸がどくんどくんと大きく鼓動し、騒ぎ出すのを甘雨は否定することが出来なかった。やがて甘雨の左隣に立つ鍾離。久しぶりだな、と短い言葉が発せられて、甘雨は「は、はい」と震えた声を返した。
「此処で何をしている?」
「え、ええと……特に、何かをしていたという訳では……」
 絞り出した返答は、真っ赤な嘘ではない。強いて言うのであれば、遥かに遠い過去を思い描いていた――のだが、どうしてかその言葉は出てこなかった。鍾離は「そうか」とだけ発し、甘雨の隣で、先程の彼女がそうしていたように、視界を青く輝く水の色で染めていく。
「美しいな」
 鍾離は呟いた。甘雨は「ええ」と頷きながら、傍らの鍾離の横顔を見上げる。自分とは、顔ひとつ分くらいの身長差がある。後ろで纏められた焦茶色の髪がそよ風になびき、それと近しい色合いの衣服の裾もはたはたと揺れた。
「――どうした?」
 甘雨の視線に鍾離が気付く。かあっと頬が熱くなっていくのを甘雨は感じた。火照ったそれを隠す術を甘雨は知らない。ただ赤らんだ頬のまま、鍾離の整った顔を見つめて、さらに熱度が上昇していくのを認めることしか出来ない。
「……甘雨」
 鍾離が僅かに笑むのが見えた。そして、彼の大きな手が甘雨の頭に触れる。優しく撫でられ、甘雨は彼のぬくもりに、遠ざかる一方だと思っていた過去を重ねた。ああ、今も、「彼」はこうして私のことを見ていてくださる――水面は変わらず、煌めきと美しさを保ったままだった。

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