Zhonyu 1 hour drawing/writing


twitterにて開催の「鍾甘ワンドロ/ワンライ」参加作品のまとめです

#16 ぬくもり

お題:あたためる
開催日:2023/12/23

 吐き出す息の白さに、身体が冷え切っていることを知る。
 ふと、空を見上げれば、真冬の星が幾つも瞬いているのが見えた。私は息を両手に吐き、何度かそれを擦り合わせた。
 夜の璃月港は、昼間とまた違った景色を持つ。行き交う人の数も若干は減るものの、賑やかさが失せるという意味には繋がらない。あちらこちらで人々の語らう声が聞こえ、やはり四方八方から食べ物の匂いがする。私はひとり、道を進んでいく。今夜は仕事を終えてから、ある人物と会う約束をしていた。その人物との再会の時を思うと、仕事中も気が散ってしまいそうで、少し困ったのだけれど――それはつまり、私がその瞬間をずっと待ち侘びていたということを指す。
「……」
 待ち合わせた場所は、もう、それほど遠くない。ひとつ、またひとつと灯りが消え、通行人の姿も減っていく。待ち合わせの場所は街の外れ。出来れば人の少ないところが良い、と彼が言ったからだ。私はそれを汲み取って、もうすぐ辿り着くそこを提案した。
「……」
 少々早く着き過ぎてしまったのかもしれない。そこにはまだ誰も居なかった。
 ちょうどよく置かれたベンチに座って、空を見上げた。美しい星々が世界を見ている。それらの眼差しは、柔くて優しい。彼が見せてくれる微笑みに似ている。今夜も、その表情に会えるだろうか。会えたら、嬉しい。私はそんなことを考えながら、時の流れに身を委ねた。

「……甘雨」
 十分程が経過して、その人は私の前に現れた。焦茶色の髪に、石珀のような瞳。待たせてしまったか、と言う彼に私は首を横に振る。私が早かっただけで、彼が遅いというわけでは一切無い。彼は私の隣に腰を下ろすと、その目でじっと私を捉える。
「どうかなさいましたか?」
 私が尋ねると、彼は「いや」と小さく言って、それから私の手を取った。
「随分と冷えてしまっているな」
「そう、ですね……ふふ」
「なんだ?」
「い、いえ、あなたの手はとても温かいなと、そう、思いまして……」
「お前の手が冷たすぎるのではないか?」
 彼は私の手をそっと包み込んでくれる。大きな手。この手に私は何度救われたのだろう。何度守られたのだろう。こうしてぬくもりを分け与えてもらうのも、何度目になるのだろう。遥か彼方――遠い遠い過去まで手繰らねば、その答えは見つけることが出来ない。
「……ありがとうございます」
 私は笑った。彼の優しい体温が嬉しかったから。そんな私たちを、引き続き、夜が見下ろしている。これから先の未来でも、この温かさが私を守り包んでくれるのだろう、私もそんな彼に、何かを与えられる存在になりたい。願いは夜風に乗って運ばれていく。何処か、遠いところまで。

#15 希望のひと

お題:星空
開催日:2023/07/15

 夜の璃月港。昼間と比べてしまえば、流石に人数は少ないが、それでも、がらんとした印象は受けない。甘雨はゆっくりとした足取りで陽の落ちた街を進む。潮風が通り抜けて、甘雨の長く豊かな髪を弄ぶ。
 彼女は「璃月七星」の秘書であり、その身には仙獣の血を流している。七星はこの璃月を統治する、七人の大商人を指しており、街の上空に浮かぶ「群玉閣」は、そのひとり「天権」の有する富の象徴でもあった。一度、失われたことのあるこの空中楼閣は、旅人やその仲間の活躍もあって現存している。
 今夜はとても天気が良い。澄み渡る星空は、いにしえの時代から多くの人々を、そして、彼らの営みと選択を見守り続けてきた。人が深く傷付いた時代も、逆に笑い合える平穏な時代も、変わらずに、ずっと。
 甘雨はそんなことを思いつつ、ひとつ息を吐く。前述の通り、仙獣の血を持つ彼女は、その可憐な見た目からは想像も出来ないが、数千年を生きており、非常に強く岩王帝君を慕い、崇めてきた者のひとりだ。そしてそれは今も変わらない。甘雨にとって彼は絶対であり、彼との間にある「契約」は、久遠に朽ちることのないものである。
「……」
 いまの立場に不満など無い。これからも、今までのように、自分は「契約の国」である璃月と、璃月の民の為に時間を費やすのだろう。現在の七星が遥か遠くへ旅立ち、次の世代にバトンが渡されても、甘雨は変わらない。初代七星が二代目に未来を託したその時から、甘雨はその覚悟を決めていた。
 人間とは大きく異なる時を与えられた身だ。天権や玉衡と幾ら絆を繋いでも、いずれ彼女たちは甘雨のもとから去ってしまう。一見、それはまだ「先の話」であるが、幾千年もの時を紡ぐ甘雨からすれば、やはり感覚は異なってくる。故に、甘雨は恐れた。
 それに、思うのだ。得ることは難しいのに、失うことはいつだって容易いことであると。どんなに幸福な時間もいつかは終わるものだし、別れの痛みは身に沁みて分かっている。人ではない者の孤独と、人である者たちとの別離。俗世に交わりつつも、完全には人と成れない甘雨の心を、これらは常に抉っていた。
 ふと、星空を見上げる。無数の煌めき。そのひとつひとつは細やかな光であっても、幾つも灯ることで、美しさは増す。これらは、甘雨を置いて逝くことのない輝きでもある。そう思えば、靄々としたものがゆっくりと晴れていくかのようだった。この世界がもっと混沌としていた頃も、星空は美しかった。甘雨は胸元に手をやる。視線は動かさない。数多の光が自分を見ている。そのひとつが、突如として流れた。つうっと落ちていく光。願いを託すよりも先に消えてしまい、甘雨は「あっ」と小さな声を落とすことしか出来なかった。もし、願いをかけることが出来たら――自分は何を願うことだろう。そこまで考え、すぐに答えに到達する。甘雨の願い、それは――。
「――甘雨?」
「……!?」
 後ろから唐突に声をかけられ、甘雨は反射的に振り返る。聞き覚えのある声。その人物が何を思って声をかけてきたのかだとか、いつからその人物が居たのかなどは、全部、後回しだ。甘雨の瞳がとらえたのは、背の高い青年。全体的に落ち着いた茶色の衣服を纏い、彼女を見据える瞳は金色の光を放つ。焦茶色の髪が揺れている。
 彼は鍾離。往生堂の客卿であり、それでいて本当の名はモラクスという。そう、彼こそが甘雨の慕う「岩王帝君」である。彼は、岩神の座を降りることを、自らの考えで選択し、ひとりの凡人として暮らすことを選んだものの、それでも甘雨からすれば特別な存在であった。あなたは何故ここに、と甘雨の顔には大きく書かれていたが、鍾離はその件について何も言わなかった。
「何をしている?」
 逆に彼がそう訊ねてきた。甘雨はええと、と数秒間思考を巡らせて、「星空が綺麗だったので」と呟くように答える。鍾離は「そうか」とだけ返答し、彼女のすぐ隣まで移動して、先程までの甘雨と同じように、視界を星の海で埋めた。
「確かに美しいな」
「ええ……」
「何か、願いでもあるのか」
「……」
 鍾離の次の問に、甘雨は即答出来なかった。即ち、「はい」と言っているようなものだが。もう一度、空を見上げる。また、星がひとつ滑り落ちていく。
「……私の願いは――」
 先程見つけた答え。それを、甘雨は言葉に綴る。ここに居るのが、彼だから。ずっと、ずっと、気が遠くなるくらいに長い間――想い続けてきた存在である「彼」であるから、声に出すことが出来た。淀みなく続ける甘雨の隣で、鍾離が僅かに驚いたような、そんな表情をしたが、薄暗い場であるから、彼女はそれに気付かない。
「……そうか」
 鍾離は目を細める。人ではない者が抱く痛みが、彼と居ると、薄れていくような気がする。甘雨はそう思って、一歩、彼との距離を詰めた。失ったものは多い。テイワットの大地で長い時間を紡ぐ、自分には――自分たちには。だが、何もかもを失うわけではない。何も得られなかったというわけでもない。道の先にあるのは、すべてを手放すような辛いだけの未来ではない。
「俺の願いも……甘雨と同じだ」
 彼が静かに言い、彼女に歩み寄る。抉られていた部分は、彼の言葉によって、次第に癒えるかのよう。
 美しい星空は変わらずにふたりを見守る。古い時代も、いまも、この先も、その輝きは奪われたりはしない。甘雨は鍾離の隣でそんな確信を得る。夜風がふたりの間を抜けて、闇色の海は、普段通りの波の音を響かせていった。

#14 祈りはいつか、

お題:おやすみ
開催日:2023/04/15

 甘雨は、日々、岩王帝君への祈りを忘れない。
 東の空が明るくなって、この世界が目覚めを迎えた時も。
 食事を摂る時も。そして、燦々と輝いていた太陽が海原に姿を沈め、暫しの眠りにつくその時も。

 ◇

「まだ、眠らないのか?」
 暗闇が、テイワットの大地を支配する。いまから三十分ほど前に、甘雨は寝台に身体を横たえたが、その紫色の目は夢ではなく、現実の世界を映していた。そんな彼女に声をかけたのは、彼女にとって特別な存在である鍾離だ。彼は寝台の横に置かれた椅子に座って、細やかな洋燈の灯りを頼りに、古書のページを捲っていた。
「……なんだか、寝付けなくて」
 彼女は素直に言った。
「そうか……」
 短い返答をしつつ、鍾離がぱたんと本を閉じる。一枚の栞を挟むことも忘れない。甘雨が上半身を起こした。その眼差しは確かに彼女が言ったように、眠たそうなものではない。
 鍾離も甘雨も、いまは旅人に同行する身。鍾離は胡桃から、甘雨は七星から纏まった休暇を与えられていて、その間は、若き旅人の仲間として各地を巡っている。
 名の知れた冒険者でもある旅人のもとには、様々な依頼が舞い込むので、手分けしてそれをこなすのが、最近の旅人の日課だった。しかし、明日、鍾離と甘雨には出撃予定が無い。自由な時間を与えられているのだ。夜更かしは褒められたことでは無いが、たまには許されるだろう。
「……なら、少し話でもするか」
「え?」
「眠れないのだろう?」
 彼の声はとても優しい。まるで、乾いた大地を潤す雨が降り落ちたかのよう。甘雨はひとつ頷く。だが、これといった話題が思いつかない。せっかく彼が時間を割いてくれているのに、と甘雨の表情が僅かに曇る。そんな彼女を前に、鍾離が笑んだ。その淡い微笑みに、甘雨の心臓が高く鳴る。
「お前は夢を見るのか?」
「えっ? ええと、そうですね……毎晩では、ありませんけれど……」
「最近は、どんな夢を見た?」
 鍾離からの質問に、甘雨は思考を巡らせた。夢。それは大抵の場合、曖昧で、少々不可解で。僅かでも時間を置くと、泡のように消えていってしまう。あまりに儚い存在でもある。けれど、甘雨には忘れられない夢があった。
「最近と言うには、少し違うのかもしれませんけれど――」
「ああ」
「帝君の夢は、よく見ます……」
 甘雨の返事に、鍾離が少しだけ目を丸くした。だが、薄暗い一室。彼女はその変化に、気付いてはいないようだった。鍾離はそれを察して安堵する。
「……なるほどな。実にお前らしい答えだ」
 璃月七星の秘書、甘雨。彼女が今の立場についたのは、遠い昔のことになる。初代七星の時代から、甘雨はそのサポート役を担ってきた。それが帝君との契約であり、そこが彼女の居場所であるから。
 そんな長い時間を生きているのは、甘雨が普通の人間ではなく、仙獣の血を持つ混血であるからだ。甘雨はその長い時間を璃月とその国で生きる者たち、それから帝君の為に費やしてきた。それは、これからも変わらない。甘雨にとって、帝君との間に契られたものが絶対であるからだ。
「俺も、夢を見ることがある」
「……」
「昔のことを思い描くものが多いな」
「……それは――私にも、分かる気がします」
 昔。彼の言うそれが、いったい何を指し示すのか。甘雨はある程度、理解しているのかもしれない。
「……」
「……」
 そして、訪れるのは沈黙。だが、重苦しいものではなかった。鍾離が目を細め、甘雨の方に手を伸ばす。戸惑いながらもその手を取れば、伝わってくる体温。いつの間にか、張り詰めていた心が、じんわりと温められていく。不思議な感覚ではあった。だが、何か懐かしくも思う。
「遅くなってしまうな。もう一眠りするといい」
「……はい。そう、ですね」
「――おやすみ、甘雨。お前に良い夢が訪れることを願っている」
 鍾離が祈るように言う。その声色の優しさに、寝台に身体を倒したばかりの甘雨が、ゆっくりと目を閉じる。その瞼の反対側に描くのは、帝君の姿か。それとも、異なるものか。答えを知るのは、彼女本人だけだろう。
 そして、鍾離も徐に目を瞑る。彼が描くのは当然、甘雨の姿なのだけれど。

#13 夢と現

お題:見つめる
開催日:2023/03/18

 約束の日は快晴だった。綿雲ひとつ浮かんでいない。何処までも青く澄み渡る空。そこを翔ける白い鴎。燦々と輝く太陽によって、海面は煌めいていて、何処を切り取っても美しい光景があった。
 鍾離はゆっくりとした足取りで、待ち合わせの場所へと向かう。吹き抜けていく潮風によって、焦茶色の髪が靡いた。目的地は、賑やかなこの街でも比較的人の姿が少ない場所である。
「――?」
 時間的に、自分が先に到着すると思っていたが、その場所に「彼女」の姿は既にあった。水色の髪をした小柄な女性が、高台に設置された木製の腰掛にちょこんと座っている。待たせてしまっただろうか、と鍾離は急ぎ駆け寄った。
「……甘雨?」
 名前を呼ぶ。しかし、反応は無い。まさか、と思いながら、鍾離がもう一度呼びかけた。どうやら――彼女は眠っているようだ、安らかな寝息が聞こえてきて、鍾離は張り詰めていた表情を緩める。
 甘雨。璃月七星の秘書として、多忙な日々を過ごしている女性。天権からも、玉衡からも、それ以外の七星からも、全幅の信頼を得ており、その勤勉さや真面目さは誰もが認めるものだ。鍾離は苦笑した。甘雨は、疲れているのかもしれない。こうして自分と会う時間を作る為に、激務をこなしてきたのかもしれないからだ。鍾離は彼女の隣に腰を下ろす。ざあっと風が吹き、ふたりの間を通り抜ける。
「……」
 寝顔を、しかも女性のそれをじろじろ見るのは、非常に不躾なことだろう。だが、彼の石珀に似た瞳は、彼女に向けられたままだ。逸らすことなど、出来なかった。白い肌に、長い睫毛。アメシストの瞳はどんな夢を見ているのだろうか。夢の中に、自分は居るのだろうか。もし居るとしたら、どんな目をして、彼女のことを見つめているのだろう。
「う……うぅん……」
「……甘雨?」
「――て……帝、君……?」
 時間をかけて、その瞼が開かれる。それと同時に零れ落ちたのは、眠気の抜けていない、辿々しい声。
「……ッ!? しょ、鍾離さん……!?」
 みるみるうちに、甘雨の顔が、恥じらいで真っ赤に染まる。起きたのか、と鍾離が苦笑いをしつつ言えば、甘雨は勢い良く立ち上がった。ごめんなさい、ごめんなさい、と謝罪の台詞が繰り返される。落ち着け、と鍾離が言っても彼女は顔を赤く染めたままだ。と、言うより更に色濃いものになっていく。
「疲れているのだろう?」
 鍾離のそれを、甘雨は否定しなかった。恐らく、毎日のように残業しているのだろう。そして甘雨は、それを嫌だとか、苦であるとか、そのように思わないタイプだ。璃月の為、そこで暮らす人々の為、それに加えて、岩王帝君との契約の為――彼女は夥しい量の仕事を抱え込んで、それをひとつひとつ処理しているのだ。たとえ、人の目に一切映り込まないことであっても。
「……た、大変失礼しました、鍾離さん……」
「いや、気にするな。それよりも」
「は、はい……?」
 小首を傾げる甘雨。まだ、その頬は火照っているようだ。
「一体、どんな夢を見ていた?」
「えっ……ええと、その」
 この透き通った瞳で、何色の夢を見つめていたのか。それが鍾離は気になった。彼女はすぐに答えず、恥ずかしそうにしている。普段の鍾離であれば「無理をして言わなくてもいい」と言ったかもしれない。だが、今日の彼は違った。酷く気になってしまったのだ、帝君、と彼女が漏らしたから。
「……とても――とても懐かしい夢を、見ていました」
 なるほどな、と鍾離が一度頷いた。すべてを察知した瞳だった。そんな彼は彼女から目を逸らさない。特徴的な色彩の瞳が、甘雨だけを見ている。それは甘雨の方も同様で、紫の瞳に映り込んでいるのは鍾離、彼だけだ。ざあっと風が過ぎ去り、海猫の声がした。船乗りたちが声を張り上げ、子どもたちが高い声ではしゃいでいる。しかし、ふたりの耳に届くのは互いの声と呼吸音。
「……鍾離さん」
「何だ?」
「あなたも、夢を見ますか?」
「……そうだな」
 素直に返答する。鍾離はゆっくりと目を瞑った。そして数秒後にそれを開いて、じっと甘雨を見据える。
「だが、今、お前は俺の側にいる」
「……はい」
「そして俺も、お前の隣に居るだろう?」
「そう、ですね……」
「夢も悪くないが、現実の方がずっと良い」
 鍾離がすっと甘雨に手を伸ばした。甘雨が恐る恐るそれを掴む。
「そう思えるのは、きっとお前が居るからだろう」
 重ね合わせた手と手は、どちらもとても熱かった。

#11 夢に願う

お題:夢
開催日:2022/1/21

 生まれたての光が、重い瞼を抉じ開けてくる。小鳥の囀りもやや遠くで聞こえる。穏やかな朝の訪れだ。
「う、ううん……」
 目を醒ました甘雨は、無意識に目を何度か擦り、指先に付着した涙に戸惑いを覚えた。ついさっきまで彼女の意識は夢の中にあって、その夢は大変に幸福と呼べる内容だったはずなのに、どうして私は泣いていたのだろう、と。
「……」
 夢というものは、いつだって酷く曖昧だ。
 そこから抜け出して、現実の世界に意識が浮かび上がれば、かなり早い段階で、夢の記憶はぽろぽろと崩れ落ちてしまうもの。
事実として、甘雨は「幸せな夢だった」という部分だけを覚えている。
「……はあ」
 思わず、大きな溜息が出てしまった。どんなに幸福な夢だったとしても、覚えてないのでは何の意味も持たない。この涙の理由も、分からない。甘雨はもう一度息を吐き出してから、手と手を組んで、目を瞑り、帝君への朝の祈りを捧げる。
 半仙の甘雨にとって、帝君との間に結ばれた「契約」は何よりも重要なものだ。彼女が七星の秘書として日々働くのも、璃月という歴史あるこの国を大切に思うのも、すべては帝君との間に結ばれたものに繋がっている。
「……」
 もしかして、と瞼を開いた甘雨は考えた。帝君に纏わる夢を見たのではないか、と。
もし、そうであるのなら、心の奥に残された幸せな気持ちも、理解出来る。それと同時に、ならば失いたくなかった、という感情がふつふつと沸き起こる。甘雨は頬の辺りが火照るのを感じた。
「……帝君」
 こぼれ落ちる声は、どうしてだろうか、淡い切なさを帯びる。
 甘雨が絶対的な忠誠を誓う彼は、契約の神であり、商業の神でもあり、そして武神としても名高く、六千年を超える時を刻んでおり、俗世の七執政の中でも最年長の神である。
甘雨は今までも、これからも、この命が続く限り、彼への想いを棄てないと誓っている。特別なのだ、この世の何よりも。自分自身の魂ひとつよりもずっと。だが、それを彼に告げれば、優しい彼はきっと顔を顰めるだろう。それでも、甘雨の気持ちは変わらない。それが今の今までテイワットで生きてきた、半仙の娘の考えだ。
 ひとつ、我儘が許されるのなら、今夜もまた、彼の夢を見たい。甘雨はそのように願いながら、もう一度目を瞑った。

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