- ナノ -
Novel - Hanno | Kerry

19






 どこかだったはずの荒野と成り果てた獣道を再び踏みしめた。焦燥と怒りが深く胸に立ち込めても、nameはまだそれなりの強かさを携えていた。

 ざり、と乾いた土の音がざらついて突如として視界が大きく開けた。墜落するような感覚が冷たくnameの背を伝う。

 両足は確かに地を踏みしめているのに、そろそろと身体の芯から気力が抜け落ちて足がすくんだ。今更死ぬことが怖いわけではなかった。目の前に映し出された光景にnameの大きな瞳が揺れる。

 日の光を受けて、ガラス玉のようなnameの瞳に、よく馴染む青い空が煌めいていた。

 目の前に映し出されていたのは曇りのない晴天と、暴虐の核心。そのすぐ下で割れた地盤が基本の物理法則に反して緩やかに上昇してすぐに、重力方向に見覚えのある銀髪が叩きついた。

 大きい背中が容易くふわりと宙を舞って、次の瞬間には容易く四肢の自由を完全に奪われた。その人は、一身にペインと銘打ったこの殺戮の首謀者と対峙している。疑いようもなく、カカシ先輩の姿だ。

 犠牲を増やすだけ、音を立ててはならない。そんな基本事項を思考がなぞるほど、状況は切迫していた。それでも生唾を下げたがるnameの細い喉が、小さく鳴った。

 疲労と緊張に渇いた口を堅くつぐんで、咳嗽をようやく抑えた。nameのあらゆる感覚に、とくとくと重く淀んだ静寂が注がれて重たい。視界の隅々までもうすぐ訪れる喪失の予感が塗り広げられて背後に近い。

 手段の有無の選択の余地はない──そんな現実を脳が拒否して、面前の景色に思考が滲んで指の先から体温が引いていく感覚。何度戦っても、何人殺しても、所在なく繰り返す感覚。脳裏で焦燥と諦観がぶつかって、その成れの果てを覆い隠すように煙に煤けて曇っていく感覚。

 靄に埋もれかけて視線を下げかけたその時、分厚い布を裂くような鈍く硬い音に、思考が破けた。鼓膜を鋭く撫でたその音を合図に、既に土を纏った杭が、男の手中で鈍く光った。

 nameの細い喉が悲しみと怒りと、それから得体の知れない何かに硬直して、息が苦しい。小さな唇が歪められる頃、再び硬質な音がnameの耳にさざめいた。

 銀糸をかき分け、男によって極限まで斥力の載せられた杭が人骨を潰したことを知らせる音が揺れた。

 精悍な輪郭が天を仰いで数秒、口の端からうつろに言葉が溶け出している。その曖昧な言葉を貪れど、ついに掴めない。二言目か三言目か、痛みを詰め込まれたままの身体が、最後の呼気を吐き出してやがてくたりと支えを失った。

 つい数週間前まで、自分に向けられていたはずの言葉、眼差し、その全てが、今はもうきっと、ここにない。
 変わらぬ厳しさで導いた端正な目元は閉ざされ、薄い唇は弛緩している。初めて触れる温かさを自分に差し出していた逞しい腕は、地中に埋もれたまま見えないまま、もうきっと動かない。

 ほんの数十秒のことだった。あの男が下した痛みは、切なさを容易に切り出して、カカシの奥底に巣食う空白を巧みに捉えて壊し、そしてnameの胸を粗く抉り刺した。
 
「せ、んぱ……っ」

 伸ばしかけた指先を拳の内に握る。既に煤にくすんでいた頬を、たった一筋涙が伝う感覚だけが、nameに時の経過を知らせていた。

 カカシの髪がnameの視界の端で風に淡く揺れる。

 あの時と同じ感覚だ。体の芯から冷え込むような、悲しみとか怒りに似た感覚で思考が痺れて回らない。それでいて、バクバクと制御を超えた鼓動が、痛いほど加速して身体に叩きつく。

 意識なんて手放してしまいたかった。今朝までの死線の果てに獲得した無機質な金属の冷たさが、禁書の存在を主張して繋ぎ止める。
 呼吸も浅くなっているのに、忍の身体は「次の遂行を」と混沌とした胸の内を逃そうとして煩わしい。持ち合わせる心持ちとは不釣り合いな笑みが、乾いたnameの喉を押し広げた。


 ゾクと神経の全てが聳つ。九尾のそれとも異なる、魍魎としてつぎはぎめいて、不安定で、それでいて膨大な悪意がたった一点に圧し固められる不均衡が、今こちらを向いてた。
 
 決して合わせてはいけない、輪廻眼だろう。理性を掴みなおすと、自分の今背負う情報の重みが、その意味が、一気に体に蘇った。

 召喚の印を還元的に刻んだクナイは綱手様の側へと下ろしてきている──気づけば印を結んでいた。

「name……!」
「綱手様、こちらが全ての禁書になります」
「お前、この量をこの短時間でどうやって……!」
「先輩が準備したポイントが手掛かりになりました。私は次点の処理にあたりますので、では」
「っ、おい、name、少しは──!」




 ごめんなさい、そう心のうちだけで呟いて足早に背を向けた。私に投げかけた途中で、綱手様の表情が硬直した。

 きっと先輩の訃報が入る頃だ。これからもこれまでも、兵器としてこの里を守る任を与えられた私に、今更何があるのか。綱手様の言葉はきっと今の私には温かすぎて、聞いてしまえばまた無様に崩れそうで、そんな情けない自分は今度こそ許せなそうで、怖かった。どうかご無事でと祈りながら、振り切るようにその場を後にした。

 敵の情報整理の次は、身内の情報整理と収集だ。自分がすべてを統括しているのだから当たり前だ、そう任務の手順をなぞるように論理を浴びせて心を冷やした。



 すっかり戦禍に乱れて視界を邪魔する髪を耳にかけてみても、何かを捉えのがしている気がした。

 どこの誰かかもわからない腕に絡み付いた乾いた血糊を剥がしてみても、痒に似た小さな痛みが皮膚を走るだけで、痛みのその奥に触れられないままだ。



 その男は、"痛み"と名乗った。

 痛みを知れ──青年の風体をした男の声が、地を這うように低くと、そう響いた。

 その言葉の残響はnameの胸の奥深くを掴み、そのまま無遠慮に何か黒くどろついた糸を引き出してゆくような妖しさがある。逡巡がnameの身体を占めて拭えない。

 今しがたあの男が吐きつけた言葉がいやに沁みた。あの言葉によって腹の内でのたうち回っていた何かが、少しずつ落ち着いていくことが恐ろしい。

 面前に立ちはだかったのは完全悪であり、紛れもない暴虐だった。矢継ぎ早に幾多の喪失を強要するはずの男の言葉に覚えた既視感を、nameは認めたくない。すでに痺れた唇から再び、鉄の味が舌を伝った。

 その言葉は、軋んだ響きを孕みながら、何度か艶めかしくnameの胸のうちを這い回ったことがあった。イ夕チとともに過ごした深く短い青い春、そのほぼすべての時間、根と火影、そして地上と地下を行き来する道程で崩れそうになる心の亀裂に忍び込み、度々憎しみの灯火へとnameを誘い、何度か惑いかけた。

 でも、だから、悔恨に焼き尽くされても、未だ貴石めいた記憶のたった一片でも、そこに見た響きを、今ここで認めたくない。次第に混沌と濁っていく感情に表情が歪んだ。

 イ夕チのあの大きかった背中が痩せていくたび、独りひた隠した黒い感情の色に纏った言葉──ダンゾウ、先代、一般市民にすら吐き捨てることを夢想した自慰めいた言葉を。
 内戦の停止と大戦の回避、強大な大義の下で、あの残酷に散って行った命の下で、確かに自らの手で手折ったはずだの言葉を。

 それなのに狡猾にそれを引き出すような響きを認めたくない。name自身のどこかで張り詰め傷つきほつれた何かが、共鳴してしまうのが怖かった。



 傷だらけのつま先がもつれる。歩みを早めた矢先、思うより疲労が蓄積していたらしい。なんとか踏みしめた先で、市民の顔がこちらを覗いた。まだ並々と鮮血を吸ったままの忍服を抱えて泣いている。

 どうしてこんな所にいるのか、吐きかけたため息を面で隠して妥当な単語を並べた。

「お怪我は……どなたか、お探しですか」
「……」
「ここは危ないですから、避難区域にお連れします」
「婚約者なんだ!放っておいて、くれないか……!!」
「……忍の身体は丈夫ですから、まだ諦めないで。そちらも、持っていきましょう。ね?だから、行きましょう」

 慟哭と共にたじろぐ男の声も、実のところ、とうに擦り切れた心のどこにも爪痕は残さなかった。ふと、やつれた男に投げかけたはずの自らの言葉に、脳裏が黒く光る。

 あの首謀者の術を受けた遺体だ、辱めどころか丁重に回収され、処分されることも容易に考えられる。誰もきっとカカシ先輩が死ぬなんて、思いもしなかったことだろう。拳を握ると爪が柔らかい肌に食い込んでも、気にも留めない。


 動き出した思考がようやく動き出しかけると、背に広がっていた砕けた森の残骸に鴉の声が良く響く。nameの瞳が暗く揺れた。

 どうせこの状況下でどの班も出払っている、だからきっと、遅かれ早かれ私が預かる任務になるだろう。自分が向かう、きっと後から伝令もつくだろう。医療班に渡した男の慟哭を横目に、残りの任務を遂げるべく踵を返す。回収しに行こう、行かなくては。思考を巡らせるほど癒えた身体が後ろ暗い。

 じくじくと痛むのは、どうやら肌に依然として横たわる赤い傷跡ではない。ここまで極限まで酷使した復帰準備。その期間中にも何度かカカシに言いとがめられていた大義も立ち消えてしまった。

 そんな今、たちまちnameの中で、思考に咀嚼されることを避ける様に積まれた感情が、理性の堰の縁が、パラパラと剥落しはじめた。

 誰に対する感情がどんな温度をして、どんな色をしていたか、確かめろと急き立てるようにnameの脳裏に滂沱の記憶が走ってまた一つ、痛みが焼けて焦げる臭いが鼻腔をつく。

 浸りたい陰鬱の重さに引き摺られながら、ぎゅっと瞼を閉じ、深く息を吐いて目前の戦禍に視線を戻した。

 




PREV INDEX NEXT