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Novel - Hanno | Kerry

20






 目の粗いノイズが鼓膜から脳髄を貫いて、一直線に細く固められた硬質な残響が鼓膜に蠢く。

 生死の境界線に足をかけると響く、鋭く高い耳鳴りのような音。

 それはまるで終わりを告げるエンドロールのように、鈍い金属光沢がスローモーションで視界に影を導いた。


 ……三度目──そうか。昔、二度だけ死にかけたことがあった。一度目は情けなくも一番のライバルの目の前で、眼球もろとも顔を切り裂かれた時、もう一度は、まだ幼いという言葉が相応しかったテンゾウに背後を取られた時だった。キンとした高音が近い。息を呑み、喉が締まる。

 極度の集中か緊張かもわからない、呼吸も忘れて次の一手に賭けた日々も、いまは懐かしい。

 瞳を閉じることに何ら躊躇いはない。それどころか胸に滲むのは、この地を今まさに埋め尽くす不条理を、整然と照らし示す晴天のような、そんな清々しさを孕んでいる。
 だから今、小さく口をつく呼吸は穏やかだ。まるで喫茶店の椅子に腰を落ち着けるように、もしくは任務の小休止で木の根にようやく座り込むときのように、柔らかく喉を透けた。

 うつらうつらと走馬灯が再生されて、土煙の舞った青天によく映える漆黒の外套と、失ったはずの面影がチグハグに入り乱れる。
 あぁ、いつも失ってから輝きを増す記憶に惨めに縋る日々からも、これでさようならだ。……結局、俺はあいつにもあと一枚の壁のところで何も伝えられやしなかった。

 苦笑も脱力に引き摺られて、瞳孔が瞼へと翻る。失いかけの視界の最後のフチが明滅した。白と赤を僅かに捉えると、主導権を既に手放したはずの意識の糸が、急速に張り詰める。

 あの日、あいつの手から一度はこぼれ落ちたあの面が、戦場を舞っていた。

 白と黒の境界線の向こう側で、再び鼓動を宿したそれが、泥沼に身を任せるまま沈みかけていた意識の糸を引き寄せていた。


「っ、name、後ろ……!」

 
 喉をふり絞り機能を奪われた手足に入る力の限り叫んだ。

──暗部の者がなぜ術式を構えて背後に迫っている……!

 寸手で背後を気取り、腕を背刀へと振り上げるnameの背を見送った。ザーザーとホワイトノイズが聴覚を塗り潰す。どこまで声音を象れていたか確かめる前に音の失われた激戦地に、深く重くカカシの意識が重く冷たい沼の底へと沈む。





*****






 たまに見る、あの戦いの日の夢。世間一般にはこの目覚めはさながら悪夢というのだろう。でも、今の俺にはnameの最後の面影に触れる大切な時間になっていた。


「っく、は……はっ……」


 ナルトの成長、サスケの傷の増幅、ナルトの成長、火影就任打診が来たかと思えば忍界対戦、目まぐるしい日々を送るうちに、この夢をみることも近頃ではめっきり減っていた。
 また俺は生かされた。このことが幸か不幸かは詰まるところの答えは出ないまま、また時間だけが過ぎていく。

 あの日を最後にnameは消息を絶ったままだった。

 いつだって、こうして俺が手を伸ばしかけた存在は、必ず指の隙間から零れ落ち行く砂のように消えてなくなってしまう。

 何度目だ、何人目だ、そう何度自嘲と自問を堆積させたって、今夜のようにまるで俺が傷ついたみたいな呼吸で目が覚める。そうだ、ただこの大戦に心を痛めて記憶を深く刻みなおすわけでもない。たった一人、もっとも近い存在だった一人をまた失って、気に入りの玩具を奪われた子供のように今日も縋っている。


「っ…………!」


 空っぽなこの部屋に響いたのは、渇いた自嘲と薄いガラスが割れる音。思い切り振り上げた手の甲に、冷たい感覚が触れる。ひやりとした一方で、すぐにじんじんと熱を持った。胸の奥に痞えた灰色の靄を、溜息に乗せて吐き出した。

 上弦の月の淡い光がカーテンの隙間から透けて、血の滲んだ手を冷ややかに照らした。バラバラになった破片を汚れた手で集めて、隣に横たわる写真に収まった3人の幼い顔を眺めた。写真は無事で、ガラスが割れただけだ。日が昇ったら買いに行こう。

 ぼんやりと冴え切らない意識は、重たいノック音に唐突に立ち上げれた。二度目のため息で重たい腰をあげてドアスコープを覗けば、今ではすっかり見慣れた顔がどんよりと覗き穴の奥に浮かんでいる。


「なぁーに?こんな時間に。あのねえ、熱心なのはいいんだけど、次の戦略の事なら……」
「……カカシさん、すぐに暗部棟まで来てください。このことは……内密に」


 いつも泰然としたサイの声が、視線が揺れている。夢から覚めたはずの身体はたちまち末端まで温度を失って、たちまちカカシの首元から肩へ、指先へ、じっとりと緊張が張り詰めた。動揺を悟られる前に部屋に鍵をかけた。

 暗部内の建物、帰宅を拒むサクラを入り口に残してサイと二人暗部内の治療施設のある地下へと歩みを早めた。


 大戦の渦中、起こりえないことなどない。ここまでの忍稼業で嫌というほど思い知らされてきた。それでも、胸の奥から引き裂かれるような光景を脳裏に焼き付けることで自分の鼓動を確かめている。弔いというよりは償いに近い。

 影の計らいで、安全のために秘密裏に結界を結んで限りある治療を一身に享受する、とは表の理由で、裏のいや真の理由はこの細胞を兵器として管理だ。

 取り戻された遺体とも見紛うテンゾウの姿が反応を返すはずもない。


「……まったく、困ったねえ…」


 横たわった半身に、生身の人間の肉体にはあまりにも異質な白が侵食する。石膏のように拘縮して、わずかに肩口には剥落さえしている。救いという言葉を躊躇いたくなる痛みに満ちた姿で、呼吸を繋がれて眠っていた。 


「ヤマト隊長が帰還されて、一つ分かったことはnameさんは暗部に復帰された時からどうやら根に……ダンゾウの命…いや、あれは脅しだったんです──」


 8年前の満月の夜の記憶が脳裏に重く流れてはこびりつく。仄暗い感情は張り詰めど、滴る前にまた腐敗してはその色に名前を宿さないまま、どろどろと奥底に沈む感覚がした。

 暗部内の更に奥深くの影、そこと折り合いを付けながら任務をこなした者が、あれから何を強いられて、何を失っていかなければいけなかったのか。

 あの時だって、崩れていったのはオレの隣からだった。長い間待ち望んだはずの情報を思考が食むよりも先に流入を拒もうと逃げる焦点に、必死にサイの発する言葉を一つずつ打ち込んだ。


「これを……カカシさんに直接渡すようにと…」


 差し出された紙の束は、恐らく表紙を失っていて、薄汚れて破れた形跡に沿って焼け跡のような筋が走っている。一件白紙の小ぶりなノートにいくつかの解術を試みた。記された内容は記録と、仮説。テンゾウらしい几帳面で明朗な書き口と、日に日に短く弱くなる筆跡に、容態が滲んでいた。

 サスケによるダンゾウの殺害により、戦況は混迷を極めている。しかし、ダンゾウの死によってテンゾウ含め、ダンゾウのマーキング対象だったことは確かだ。根以外の火影庇護下の暗部の忍にかけられていた縛りに何らかの解術もしくは解放が生じていて、あいつは……生きていること。

 そして、行方は火影さえ知りえない、それでいて離反した形跡もないままだということが記されている。離反者の烙印を押されないよう、水面下での懊悩がありありと記されている日もあった。


「カカシさん、もう時間です……ナルトくんは次の区画へと向かっているはずです」


 もっともらしい溜息をついて、色も形もない感情を束ねられないまま、踵を返す。燃えるような暁の空だけが、色を帯びて不気味に空を照らしている。扉をひとたび出れば、スコープが照準を合わせるように、血の染みた土の臭いに無機質に意識が研ぎ澄まされて、渇いた笑いが疲労を溜めた口角から漏れ滲む。


「あはは、分かります。僕たちは、どうやら……そういう生き物みたいですからね」
「はは、敵わないなあ……さすが、サイ」


 潔いサイの声に視界が少しずつ開けるのを感じた。

 散──小さく、しかし厳しく唱えたその瞬間に、彼の視線に積み上げられた時間の厚みをいまはどうやら信じられる気がする。

 漆黒と深紅が溶け合って、やわらかく紫色に滲む地平線を望んだ。







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