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Novel - Hanno | Kerry

18






 硬質な白い光が瞳孔を押し広げる。カカシがnameの復帰計画を一通り確認し終える頃、隠れ里の夜の空気は澄み切っていて、傾いてしばらく経つ月の光は鋭く暗闇を照らしていた。
 いつの間にか夜も更けていた。湯上りのほてりはとうに夜風にあてられて、延ばした背はすっかり硬い。緊張をを吐きだすように深く呼吸すると、カカシを占める懊悩が胸の奥へと浸透して、ゆるやかに逡巡が溶け出してゆく。

 
 今日、nameに自分の部下を引き合わせた。特段の理由も、まして少しの計画性もなかった。それでも通りがけに見たnameの姿をどうしても見過ごせなかった。

 木の葉通りの商店街をナルトとサクラに手を引かれるまま歩いていた。面倒に思いながらも、二人の無邪気さや街の賑やかさは心地よく鼓膜に響いた。
 雑貨や書店が並ぶ目抜き通りを抜けると、飲み屋や飲食店の集う一角がある。サイの合流の頃合いを確認しようとしたところだった。

 見覚えのある色が俺の視界の隅で揺れる。穏やかな夜風にたなびく髪の狭間から、端正な顔立ちが覗いた。時の流れを切り取るように大人びたその姿は、カカシの脳裏に他愛もない記憶が引き出された。


──そういえば前から夕顔になにかと猫可愛がりされてたっけねえ


 灰色の記憶の中に差す、穏やかな色を帯びた記憶が。カカシの胸に仄かに温度が宿った。が、それも束の間、目前に据えられたnameの変化が、長くも短くもない時の流れを確かな隔たりとしてカカシの腹の奥へ重く横わる。

 暗部在任中はとにかく面倒ごとが嫌だった。実際に目の回るような忙しさだった。もちろんあどけないながら目鼻立ちの綺麗なやつだとは思ったことはあったかもしれないが、ただでさえ余裕のなかったあの時の俺にとって、他者の容姿の評価など最も関わりたくない話題だった。
 
 カカシの記憶の中ではまだあどけなさを色濃く残したnameは、たびたびその瞳にアンバランスなほど気高さを灯して、幾度となくカカシの視線を恣にした。
 喪失の青い海に溺れていた。あの呼吸も手放したかった在りし日のカカシの意識を、nameのそれはカカシを呼吸のできる場へと幾度か引き上げたことがあった。それはある種の憧れだったかもしれないし、虞だったかもしれない。


 思索に絡んだ思考のまま数歩進むと蛍光灯の光が遮るように書店から漏れた、次第にnameの横顔が密かに抱く翳りを明らかにする。カカシの傷跡にするすると薄く鋭い何かが差し込まれる感覚がした。

 硬く閉ざされた口元、大きな瞳は開かれていれど、時折り空ろな色を滲ませた。弱く移ろう視線を罰するように、店先に固定してやり過ごす。nameの瞳には、あの日宿していた矜持は欠片ほども残されていないようだった。

 そもそも旧知の俺にも、現役の火影であり直属の長である綱手様の診察でさえ、半ば自らへ罰を課すように崩れるまで気丈に振る舞うことを止めない。弱さが見つめる切なさではない、隔絶。

 nameを、喪失の底から引き上げられるのは、いま救いだせるのは────そうだ、きっとあの紺碧の瞳の奥で永遠になったものだけだ。


 カカシの胸に混沌と交わって深く明度を落とす色がとくとくと広がって苦しい。


「nameさーーん!」


 自身の中で醜い色に沈みかけたところで、サクラの声が能天気に鼓膜に突き刺さった。拍子抜けして額を押さえながらも、カカシは胸をなでおろした。

 突発的に呼びつけた先、最初は少しばかり不安視していたnameの人見知りも数年会わないうちにすっかりなくなっていた。拾われたばかりの子猫みたいに、初対面の人間に対して顔をこわばらせるnameをなだめていた頃が懐かしい。
 あの不愛想も、単なる年頃の少女の人見知りとか、舐められまいと張り詰めた強がりだとか、そう思い込んでいた。

 あの頃、とっくにnameはたった一人緊張と重圧を背負わされ、棘ばかり鋭い足枷を引き始めていた、その現実がカカシの胸を容赦なく締め付けた。


 それでも席に着いた直後は建前めいていたnameの表情も、サクラやナルトの語勢に巻き込まれて、次第に綻んでいくのを眺めているのが心地よかった。時折、薄い唇に制するように人のための笑みの痕跡を残したことを除いて。

 目の前でさながら小綺麗に皿に盛られた温もりの前で、ただ身を竦めたままそれを手にできずにいるnameと、その瞳の奥に蔓延る重く暗い虚像に、カカシは覚えがあった。


 古い惜別に裂かれたカカシの傷口は容易く開いてしまっていた。じくじくと膿んだ疼痛は離したい記憶を離させない。nameの軋んだ傷口と、自らの追体験のそれとを重ね合わさった感覚がカカシの胸に堆積する。共感など迂遠で下賤だ、そう閉ざしていたはずなのに、悲しみの肉感は酷くカカシに刻まれている。

 自らの手で永遠の別れを完成させる時の不協和音、黒でも白でもないがらんどうの色、血の臭い。途切れる記憶と暖かい手、最後の声。与えられる暖かさに一度でも触れてしまえば、忘れ難い記憶さえ否定するような感覚。随分と時は流れた今なおグロテスクに蘇る。

 えも知れぬ膨大な悲しみをあの細い肩で、今夜も明日も背負っている。そして、触れるべきはずだった温もりにありつけず、まるで飢えた屍の隣で自分だけが盗み食いするような感覚に苛まれたまま、爛れるほどの焦燥をnameに刻むのだろう。


 重さをまとうほど嵩んでしまった翳の感触は、執拗で不快で、それでいていやらしく懐柔するような強かさがある。ひたひたと背後にまとわりつく様なそれは、たとえ全てを見透かすように照らす陽の下でもその濃さを変えない。巣食うように影は色を濃くしたまま、誰にも気付かれないがらんどうに閉じ込める。

 たとえ忍の世界が死と隣り合わせといえど、全てを奪われるような事はめったにない。そういう風に工夫されている。

 結局一般人と何も変わらずに、孤高の沼地に押し出されてしまえば、自分だけを残して残酷に時は進んでゆく。たった一人で人知れず空虚な場所に押し込まれたまま、周りの世界だけが巡ってゆくのを眺めることしか許されない。

 少々ぎこちない対応も、受け身な会話も、見て見ぬ振りをした。nameの中で止まったままの時間を、恐らく動かせるのは、いまやname自身でしかない。そのための布石だとしたら、この場にいてくれることすら尊ぶような心持だった。


 死して永遠となった絆に焦がれた。苦しさを逃がせないまま、許しを請うように喘ぐように口をついたのは、サスケの名だった。ヒヤリとしたが最後、再びカカシの双眸を占めたのは、動揺しきったnameの瞳だった。

 なにも不粋なからかいをしたいわけではなかった。それにいつかは話しておかないと、nameの今後にも影響すると感じたからだ。時間の問題だった、そう言い聞かせたかったのに。最悪だ。最低の動機で最悪を吐露した。

 懊悩が落胆に形を変える。むくみ始めた顔を覆おうとするも、コツコツと伝令の知らせが遮る。


「ったく、ゆっくり後悔する暇も権利もないってわけね、ハイハイ」


 げんなりとしてガラス戸を開いて受け取った。差し当たり朝も近い今、恐る恐る開始時間に薄目を通すと、4日の猶予がありそうだった。ランク指定はA。

 だが、術式により黒塗りにされた文言を解術してカカシは息を呑んだ。今日改めて愛おしいと思ったこの里が、人々が、再び痛みの堆積に埋もれる危機がすぐそこまで速度を上げて近づいていた。


──暁の動向不明が連日継続、追加警戒、秘匿捜索の緊急依頼


 既に地上の任務として与えられているということは、均衡は想像より遥かに切迫しているのだろう。
 唯一、幸か不幸かnameの任務の完全復帰と主担当期間は被りそうだ。地上と地下の任務は隣接していても、原則きっぱりと分けられて、連携箇所だけを提示し合う。nameの心労を増やすことは避けなくてはいけない。いや、二人の若い忍が捧げた未来を潰させやしない。

 「俺のこの手で、一体何ができる」

 何度目か分からない問いが自らの鼓膜を弱く揺らした。柔らかな夜を胸に抱きながら、疲労に沈む身体に身を任せた。








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