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Novel - Hanno | Kerry

17





 深かった傷が仄かに引き攣る。ふやけて僅かに血管の透けた指先を眺めながら、ベッドに腰掛けた。まだ濡れた毛先に雫が伝って重さをこらえた。行き場をなくしたあと、瘠せた太ももに落ちた。

 あの日から必ず細く鋭い痛みが差し込んだ後、過ぎし日々が毒のようにnameの身体に充満する。過去で塗り固められた時間の矢は、重く沈殿したままの記憶を纏っていた。

 灰色の記憶に墜落しそうになる。濁り始めた脳裏に、サクラの声が溌剌と木霊した。

 同世代の、しかも女の子と私生活で喋ったのはいつぶりだっただろうか。最近の流行の服や化粧品、有名な甘味処や芸能人の名前。

  錆びた音に慣れすぎたnameの耳元では、サクラの発する言葉たちはまるで飾り物のようにキラキラしていて、数多の色を孕んでいた。それでいて近付こうとしようとも、ホログラムのように煌めいては無機質で掴みどころがない。そんな感触があった。

 初めは慣れない話題に戸惑ったものの、それでもサクラがnameに向ける羨望と友愛の柔らかな気色を前にして、nameも自分の中に滞留した濁りで決して目の前の少女を穢すまいと、差し当たりの心持ちを定められた。

 簡易的でもこの場にいる理由を抱いていなければ、直近までの自分に張り詰めていた雰囲気との差は受け入れがたく、どこか押しつぶされてしまいそうだった。nameは依然として暗く青く圧し固められている凝りを追求されるのがいまは恐ろしい。

 そうしてテーブルの下で堅く結ばれていたnameの拳も、目前の朗らかな少女によって事もなくほどかれていった。

 巷の様々な話を聞かせてくれた。勿論知っていることもあったけど、知らないことの方が多かった。共有できる話はなかったけれど、それでも二つ下だったらしい女の子が目の前でころころと表情を変える姿を見ていると、ただ率直にいじらしかった。

 最初は心のどこかで見ず知らずの人との食事を面倒に思っていたけれど、席についてしまえば、思ったよりずっと時が過ぎるのが早く感じた。そう感じて何度目か口角を大きく上げたとき、胸の底がひりりと引き攣る。

「nameさんって、そんな可愛くて、彼氏とかいないんですかー?」

 明るい暖色の照明の下なのに。この子たちは何も知らないのに。

 上向きかけた思考が影にまどろんで、密かに墜落の傾斜へと姿勢を変えた。

 木の葉の名門に生まれ育ち、彗星のように現れ忍界の頂点にたどりついたあの背にまた想いを馳せた。強烈な存在感を示して、グロテスクに儚く燃え尽きてしまったあの微笑みも、きっと時間に擦り切れて遠くない未来には霞んでしまうのだろう。もうこの里で親しげに名前を呼ぶことは許されないあの人。
 里を出てから、今日のようにイタチに一瞬でも、心穏やかに頬を綻ばせる瞬間があったのだろうか。もう二度と答えなど用意されるはずもない現実への疑問に悲しみが兆した。

 思い出を放棄することも、慈しむこともできずに立ち尽くす日々。未だ滲んだまま立ち上げきれない思考を断った。


「サクラさん、本当に最近は勇敢さに磨きがかかっていますが、この方にそれを聞けるのは──」

 細い目から密かにこちらに向けられる視線は極めて硬質だ。nameの背に、目の前の青年が根から上がってきたばかりの者である現実が冷ややかに伝う。

 ……どこまで知っている?いや、もし事の本懐を知っているなら、カカシさんはこの場に私を呼ぶことはないか、事前に言われているはずだ。突如バランスを崩しかけた思考を立て直そうと事実の整除しようとすると、カカシの間延びした声が心許ないnameの逡巡包んだ。

「サイ、その笑顔で四方八方に色んなもの吹っ掛けるのやめてちょーだい。サクラも、暗部の人間は近しい人の話は除隊まであまりできないって何回も言ったでしょーよ」

 きっと私の杞憂だ。ありふれた会話だ。地上でも暗部でも変わらない、年頃の女子にはよくある話だ。そう深い呼吸と共に言葉を飲み込んだ。サクラさんとナルトくん、そしてあの根に属していたはずのサイが穏やかに笑う場を眺めた。

 ────あの人が望んでいたはずの景色には、あの人だけが何時も居ないまま

 つんと押し詰まっていた喉奥を嚥下した。カカシさんのせっかくの計らいの場だ。
 それにみんなこんな事実を知る由もない、知る必要なんてない、知ってはいけない。残酷な悲しみを背負うのは、私とイ夕チだけでいい。そうだ、あくまで実行前までの算段だったが、こうして生き延びてしまうこともプランBとしてあった。

 ぬかるんだ心持ちに、目張りのように駄目押しの論理を重ねる。差し当たりは滲みかけた笑顔も再び象れた。


 帰り道、病み上がりだから私を送ると言ったカカシさんと、他愛もない話をしながら街頭の下を歩いた。影を合わせるように少し後ろを歩く私に歩幅を合わせてくれた。暫くすると、ふいに歩みは止まり、深い藍の眼が揺らぐとこちらに向いた。

「name、言いそびれたけど……サクラは、サスケの身を本気で案じて、あいつの帰りを未だに待っている。信じてる。そのことだけは、その、知っておいてほしい」

 分からない。カカシさんの瞳が切なく揺れて、nameの動揺の波は高くなるばかりで口が止まらない。

 どうして先に言ってくれなかったのか、どうしてそれなのに誘ったのか。逡巡を呑み込めないまま、復帰計画のスケジュールを渡されて帰路についた。

 それにしてもあの時、カカシさんはなぜあんな泣きそうな顔をしたのだろう。きっと夕食の誘い自体、カカシさんなりの意味があってのことだろう。もしかしたら、綱手様に私の様子を見るよう言いつけられていたのかもしれない。店を出るまでだって特段のそぶりはなかった。むしろ、暗部では見たことがないほど緩慢に近い穏やかさすら感じていたのに。

 nameの心に先ほどまで滴っていた翳りは、今までいだいたことのない透明な疑問にすり替わっていた。

 思い違いなのかもしれない。それでもほんの一瞬、確かにあの年上の男の心持ちが揺らぐのを、nameは目撃したような気がした。


 脳内で再生されるカカシが湛えた悲哀をなぞる。憐憫というよりも、もっと色濃く柔らかな冷たさが漂っていた。悲しみに似た色を湛えていたことは確からしい。
 暗部でのカカシの下に配属されていた頃の記憶まで引きずり出してみても、理由は掴めそうにない。最もnameとの距離を保ち、それでいて最もnameを尊重した初めての男がカカシだった。

 記憶の鎖を確かめる様に手繰り寄せると、nameは先程の詰問をした自分に嫌悪の泥を烙印代わりに塗りつけたくなった。

 ふと重たい記憶に横たわるそれと対をなすようにして、nameの脳漿にカカシが今晩声を上げて笑う姿が泡沫に再び浮かび上がった。

「カカシさん、あんな風に笑うひと、だったんだ……」

 nameは突如として短時間に大量に注ぎ込まれた温かい時の流れで胸を満たされて、その残渣を持て余していた。

 これまでnameの中でのカカシの存在といえば、最も近くも最も遠い先輩として、最悪の一日から救ってくれた人として、そして褪せることのない忍の道標の一つとして、厳しくも優しい上官だった。nameの中で、カカシの存在とはこの種のロジックに落とし込まれた存在だった。
 
 四代目の息子、政略の果てに孤独に残されたうちはの子、里にとって重苦しい要素を残す二大因子を、地上で引き継いで里の未来を紡ぐための暗部勇退──nameは確かめるようにカカシの輝かしい軌跡をなぞって自分の心の中に生まれる温度を確かめた。

 たった一つ、人生の中で自分が幸運だったのは、流れ着いた暗部という組織で、徹底的な強さを見せつける人たちのそばにいれたことだ。そう思い返すと、おぼつかない心持ちをいなせる気がした。

 ベッドに体を完全に預けて、ようやく手にした念願の復帰計画書を眺めた。よく見ると、主担当欄に「はたけカカシ」と書かれている。
 もう既に上忍師のはずなのに、どういうことなのだろうか。スケジュールも当初の話よりずいぶんとタイトなものだ。
 これは本当にひとたび復帰さえすれば、無駄なことを考える時間はなさそうだ、とnameの胸の内を安堵が薄い安堵が覆った。

 ようやく爛れた思考の逡巡を捨てる日が近づくことがわかると、ふわりと緊張の糸が溶ける。こときれるように眠りについた。




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