- ナノ -
Novel - Hanno | Kerry

13





 あれから三週間と少し、一見して以前のような冷静さをすっかり取り戻したnameは、見事退院許可を獲得した。今は自宅療養に切り替えて週明けからは復帰に向けてリハビリだ。事態を知る俺とテンゾウ、手が回らないときは旧知の仲の夕顔に依頼し、様子を見に行く日々だ。

 nameの任務の全容がごく一部の上層部の人間にも明らかになってから、初めは五代目とテンゾウで、nameの入院後には俺も事態を知らされることとなり、内密に事態の精査が始まった。

 午前中に終了した会議で片手には書類の束。その中から今にもいくつか落としそうなほど散漫と握る左手と、一方で、固く閉ざされたカカシの右の拳の中には、忌まわしい記憶の数々と無力感だけが握り締められていた。

 まだ幼さを多分に残したnameが壮絶に壊されかけていた日──今でも忘れやしない。まだ若かった俺は、あの扉の中の光景に一気に血が上った頭のまま、獣同然となった元同僚を視界に入れた矢先、気付いたときには俺もまた獣性に突き動かされるままにこの男を殺しかけていた。

 旧知の仲間の凄惨な最後を見届ける恐怖、仲間を蹂躙するような真似を厭わない者への憎しみ、何も守れない自分の無力さへの怒り、混ぜこぜになった感情が腹の底から一気に湧き出しては押し寄せて、俺の理性を失わせるには十分だった。

 あの時、純粋でそれでいて整然としたイ夕チの理知的なあの一言がなければ、あのまま奴を殴り殺して、今頃は真実の欠片すら掴めずにいたかもしれないと思うと当時の自分の浅はかさにはぞっとする。イタチの聡明さは何気ない枝葉においても光ったのは当時からだったが、その才がこうして時を超えて愛を向けた一人をまた救おうとしている。

 この稀代の才を俺たちはこの里は、本当に失わなくてはならなかったのか。提起をはばからずとも即座に否定される現実が冷たく、重く、真実を知る者の背にのしかかる。

 断腸の思いで見送った三代目や、ましてnameやサスケを思うとあまりの無力さに硬く握った拳さえ、偽の悔恨に思える。

 あいつの上司を務めながら、部隊長の一人としてうちはの摩擦を知りながら、ここまで苛烈な運命の奔流の中にいたあいつを、その一端ですらまた何も掴めなかった。

 いつまでも無力な俺だからこそ、せめて罪滅ぼしとはいわずとも、餞としてまた一つ暗闇に光を射したことをイ夕チに知らせてやりたかった。だが、今はもう、叶うはずもない。

「だから、そう。…だからだ。nameには、生きてもらわないと…ね」


 自分の中の弱さを断罪する恰好の獲物を見つけた俺は、あの時目の前の悪魔をこの手でただ壊してやりたかった。nameのためというのは大義で、自分にまとわりつく陰鬱をぬぐうためのきらいを否定できるだろうか。

 あの忌まわしい事件後、nameの体調が落ち着いた頃、本人に調書を取りに行った時のことだった。最後の質問にnameは淡々とえて、頬を濡らしながらも薄く笑って見せた。隣に付き添っていた夕顔の方がよく泣いていたくらいだった。
 誰一人として、初めはかける言葉さえ見つからなかった。勿論あの暴虐の日を知る者は皆nameを案じたし、その分だけ心づもりも尽くした。でもだからこそ、あの仕打ちに見合う言葉を見つけられずにいたのだ。

 そのことを先回りして悟るようにnameは健気に気丈に振る舞った。その時ようやくこいつの不器用さに気づいたが、これもまた、遅かった。


(──もう、仕方ないと思ってました。それに…中途半端なことをしたのに、見つけてもらえただけ私は…幸せ、でした)


 今でも記憶に鮮やかに、悲痛の声色をごまかすような無理やりな響きが蘇る。抵抗虚しく、痛みと屈辱に苛まれ、崩れゆく視界の中で、自我を保ちながらも何の躊躇いもなく自尊心を放棄してしまう、あのときのnameの双眸の移ろいは既に空虚を知っているそれだった。

 自分の矜持を保つためなら倒錯や自失が救いであることも当たり前に横たわる忍のさらに地下世界に染まってしまっていた俺の胸を、この事が今でもどかしく軋ませる。

 さながらその様は、自分のために周囲が憎しみと悲しみの渦に落ちることなど決してないように、nameは傷ついた心身に本来排出されるべきだった自他両方の怒りも悲しみも惜しみなく巻き付けて、その持ち分だけ自尊心を捨てるかのごとく封じるように、抑圧の真空の空間へ自ら身を投じるようだった。

「あーあ、しんどいねえ。忍ってのも」

 帰宅して書類に目を通して次の計画書を作る、普段なら気にも留めない事務作業だが、当然に今回の件がいつも通りに進んでいくはずもない。

 限られた期限付きでこっちはこのエゲつない内容を精査してるってのに、ベッドの上に脱力して外を見やれば、窓枠いっぱいに気持ちいいほどの青天が広がっている。

「エゲつないなあー、まったく」

 そうカカシは独り言ちると、陰鬱な記憶の刃の一振りがどろりとした感情を辛うじて包む薄皮を裂き、中身が流れ込む気配を感じた。逡巡を一度遮断するようにまたひとつ大きく息を吐き、これまで集まった情報の要点を頭の中でかいつまみ、整列させる。

…まず事件の犯人だった部隊長の男に根の在籍記録があったこと、男が陵辱の的として目をつけたnameが、偶然その当時根が欲していた口寄せや時空間系の術に才覚を表していたことで、ダンゾウの目についたこと。班内演習をしているうちにどうやらnameが好奇心で男の一つの術を解析してしまい、それが根にとって重要な情報を含むものであったらしい、とそこまでだ。

 近いようでまだ遠い核心と、何度思い出しても核心を取り巻く酷すぎる過程に眩暈がする想いだ。

 あの事件から数年後、あの時と同じように病床で自嘲の威を借りてうそぶいたつもりであろうnameは、物憂気な眼差しさえ上手く浮かべることすらできていないことを自分では気付いていないようだった。

 あの時よりもずっと大人びた様子のnameだったが、もう粗野の威であっても構わず手にして取り繕ってしまうほど、余裕なく蝕まれている。いや今後もそこからさらに静かに蝕まれていくという暗示を孕んだ姿はあまりにも弱弱しく映った。

(──おかしい、ですか)

 そう言い放った瞳とぶつかると、瞳の奥深くどこまでも隙間なく悲しみが圧し詰められていた。
 表向きはガラス玉のように無機質に透き通ったnameの大きな瞳がわずかに揺れて、そのたびにそこからはあの日と同じ色の諦観があの日より色濃く透けて見えていた。

 そんな顔色のまま俺の目の前で、力ずくでも悲しみを自分に許さずに自責と懲罰にすり替える如く、重たい枷を既にひしゃげた心に施して鉄球を追加しはじめたnameを、ついに俺は冷静には見ていられなかった。

(──おかしいなんて思えるわけないでしょ)

 感情に任せた声調のまま口を突いてしまった。言放った内容は、恐らく先輩然としていて、極めて適切で妥当だったはずだ。

 nameの双眸を捕らえたつもりだったはずの俺は、実際のところ捕らえられた側だった。そう気づいた瞬間、俺の手には友の肉を裂き骨を断つ感触が、胸には何度も錯乱しながら覚醒したあの夜の浅い位置で繰り返される呼吸の感覚が、俺の判断力を瞬く間に塗り潰した。徒に記憶の色を大量に脳に撒き散らすように蘇っては鼓動を煩わしく乱す。

 親愛の人をその手で切り裂き、自らも散ることを一度でも選んだ世界を見た双眸は、退廃的に影と光を乱反射するように揺らいでいる。

 nameの不安定に傾くその瞳を慰めるつもりが、カカシはその瞳の表層以外すべての領域に閉じ込められた膨大で鮮やかな陰翳に、ある種の救済を見出してしまっていた。
 痛々しく滴るnameの癒えるはずもない痛みにはしたなく縋りそうになった自分を隠したい。歪な喜びの表皮を年長者が庇護対象へと向ける笑みに早急に張り替えた。

 悲しいものは悲しい、取り繕うことに終始した俺はただ当たり前の常套句を並べることしかできていなかったはずだが、心なしかnameの表情に安堵の色が滲んだ。見開かれた下瞼の上の滴が輝きを増したのは俺の見間違いだっただろうか。

「……なんて顔してんのよ、まったく」

 分かっている。あまりにも膨大な陰鬱を吐き出すことは容易ではないことを。痛みをいやすための行為に痛みが伴うことも。

まるで過去の自分を見せられているようで、カカシの奥底で押さえつけられていた数えきれない残痕のうち、深い傷がいくつか引き攣り、いまにも開こうと疼いていた。

 手荒な封を続けられた傷跡はいつしかその抑圧の下で腐敗し、傷のそれぞれが溶け出し、汚泥のように無秩序に混ざり合い、形を留めずにカカシの肉体の中で消えることなく滞留している。少なくない頻度でそれは血脈に乗り、全身を蝕む痺れが広がっていくのが分かる。

 くだらない。そう思い返し、詰まった胸のまま、大きく息を吸った。

 近所からカレーに焼き魚、なんともアンバランスな、それでいて空腹を刺激する匂いが鼻をつく。朝から何も食べていなかったことを思い出して時計に視線を移せば、正午をゆうに過ぎていた。何気ない昼下がりの一幕が、カカシにふと暗部に任命された日のことを思い起こさせた。

 あの日もこんな昼下がりで、任命の後に先生の家で食事をご馳走になったことを想い出した。食べ盛りだからとクシナさんが和洋問わずに作ってくれた種々の料理──幼くして父を亡くし、友も立て続けに失い、なす術もなく立ち尽くす俺を、必死につなぎとめてくれた温かな大きな手。

 何かを悟るようにカカシは瞼を閉じると、滲んでいた水滴が頬を伝う前に瞳に馴染ませた。
 今しがた思考をすべきことへと戻したというのに、いつのまにか再びnameの背負わされた運命の色を一身に追い、自身の気鬱と重ねるような思考に、自分の歪な自己愛を認めさせられる。

 一方で、なんとも殊勝なことにこんな心持ちでも、物の見事に腹は空くものだと溜息もそこそこにベッドから重い腰を上げた。

「……メシ、もう食っちゃったかしらねえ、アイツ」


 自宅の扉に施錠を済ませると、心地よい風がカカシの頬を包んだ。





PREV INDEX NEXT