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Novel - Hanno | Kerry

14






 白く高い陽に照らされてどこまでも塗り広げられた紺碧の下。アカデミーの質素な外壁や植木、鼓膜をそよぐ談笑の音、視界を揺らす知りもしないだれかたちの抱擁たちも、鮮やかに今という時を享受し、前に進めている。

 目前に確かに広がっているはずの世界はドラマのワンシーンのように鮮やかだ。刻々としてその彩度を感じる度に、nameの中に巣食う陰はその色を深めた。

 青空を眺めることが時々堪らなく嫌いになる。それがいつからなのかはもう分からないが、nameを軸にに流れる時間だけは、凝固か逆行を繰り返すばかりだからだ。
 自分だけが錆び付いた時間の流れの上にたったひとり置き去りにされたまま、すぐ横を何事もなくいくつもの朗らかさ過ぎ去ってゆく。その度に傷心は引き攣ってたびたび裂けた。


 買い物から帰宅して自宅の扉を開けば、自室にしんしんと積もった静寂がnameの意識を陰鬱に傾け始めていた。
 鏡に映るやつれた自分の顔を横目にぼんやりと蛇口をひねった。ぬるい湯が指先から掌を伝って緩やかに覆う。人肌より少しだけ温かいようなそれは、じわりと指先から筋肉を緩ませた。伴うように弛緩した思考の隙間からするりと何かが漏れ出す。

 はたと息をつくと、いくつもの喪失の記憶が五感のすべてに叩きつく。任務で血飛沫を浴びた手を取り合って帰ったとき、イ夕チの血が腕を伝ったあのとき、愛する人をこの手で裂いたとき──手のひらに赤く淀んだ温かさが滲んだとき。バクバクと鼓動が煩い。自分を象る全てが崩れ落ちて、がれき然としてそれが気道に詰まって塞ぐようで、呼吸が軋んで苦しい。

 自分の痛みすら上手く掴めないnameに、さらに傷の形など分かるはずもなかった。なす術もなく、簡素な自室に自分の不規則な呼吸だけが冷たく響いた。
 この部屋に目まぐるしく逡巡する思考回路を遮るものはなにも無い。

 嗚咽を平らかにするようにnameはいくつか呼吸を試みたが、浅く続く呼吸と大きくなるばかりの鼓動は、name自身を次第に狼狽させる。 これまでどれほど緊迫した任務でも、こんな風に崩れることなどなかった。指の隙間から自分に残された唯一の矜持が音もなく崩れていくようで、nameはその身をすくませた。

 完璧な殉職を遂げたイ夕チに比して、自ら望んで抱えた寂寞にすら耐えきれずにいる。それがnameはたまらなく厭わしい。
 生きながらえておきながら、引き戻されていながら、度々悲しみの淵に立ちたがる自分を、いっそのことその淵から早々に落としてやりたくなった。それなのに、どうして相変わらず身体は思考と分離したように荒い呼吸にしがみつく。自嘲する頃には既に視界が白く揺れていた。
 床に膝をつくとそのままぬかるみに沈むようで、そのまま投げやりに身体も横たえた。曖昧に滲んでゆく意識の境目に、鮮やかな思い出がなだれ込んでくる。優しかった微笑みが、感情の色を抑えた声色が、壊れていく身体の音が、漏出した命の味が、最後の鼓動の感触が、温もりが、嵐のように激しくnameの脳裏に降りつけた。

 ついに、nameの呼吸は、軋みの果てに裂けて、潰え始めた。



*****



  nameは恐らく俺と似ている。幼くして膨大に浴びせられた他者の無粋な値踏みにあてられて、疲労して自分を象れないところ、そうして自分の存在に興味を持てていないところ、仕事で痛みの感覚を塗りつぶそうとするところ、どれほど傷だらけでも手を差し伸べられると困惑の色を瞳いっぱいに滲ませるところ────俺はnameの好きなものひとつよく知らない。ここまで考え至って、漸くそのことに気が付いた。

 俺が部隊にいた頃は、好きな物や欲しい物を聞いたことはあったが、nameは自分のこととなると応答はいつも曖昧で鈍かった。
 それに、あの時は俺の周りも今よりもずっと周囲の雑音が大きかった。それがさらに増幅するようなことは、自分のためにも関わる他者のためにも、極力避けていたかった。暗黙下に深入りしない方がいいという雰囲気を、お互いに感じとっていたはずだ。疲れていた。そう、部隊長にもなって十個も離れた新入りの女の子が、何を背負わされているかなんて知りもせずに。
 今思えば、自分に降りかかる因縁と孤独の火の粉を振り払うことに必死だった。そんな自分の余裕のなさにさえ俺は気付けていなかった。


 思索が巡りつくしても、インターホンに応答はなかった。目の前に横たわる沈黙が逡巡する思考を遮断すると、廊下越しの窓に薄く照明が見えた。気配だってすぐそばに感じる。

「おーい、name、こんな時間まで寝てるわけ?それとも取り込み中なら、今のうち言いなさいよ」
「……これ以上応答しないなら、悪いけど、入るよ」

 五代目から世話係だからと与えられた鍵を手にして、扉を開けた。流水音だけが音を返してくる。嫌な予感だ。
 音を手繰り寄せて歩くと、玄関からほどなくして洗面所のドアの隙間にnameの髪色がのぞいた。わずかにその柔らかな艶が蠢くと、流水の音の裏にnameの綻びきった呼吸がこびりついている。跳ねそうになる心臓を押さえつけて、極めて事務的な位置でカカシは会話を試みた。

「name」
「……っは、せんぱ」

 紅潮した顔色、涙でぐっしょりと濡れた睫毛や頬、腕に一筋食い込んだ赤い痕、はくはくと心許ない呼気を繰り出す薄い口元。すぐに助け出してやりたいほどの鮮やかな痛みに、見慣れているはずの崩壊に、期せずしてカカシはその胸に救済を見出してしまった。
 程なくしてカカシの胸中にくゆる嫌悪と浅はかな悔恨が不安定に揺れた。これ以上思考を緩めれば、nameを自分の薄暗い翳に閉じ込めてしまいそうで、倒錯めいた様相に傾きかけた思考を即座に遮りたい。そうしてカカシが選んだ言葉は、あまりにも粗野なものだった。

「お前、何か飲んだの」
「っ、ちが……な、んで」
「そ?じゃあいいや。はい、ここで呼吸して」

 ちょうど手持ちの小袋を空にすると、nameの口に当てがった。今日はnameが大人しく従ってくれるようで、差し当たりカカシの胸には安堵がおりた。

「部屋まで運ぶけど、今度こそ暴れないでね。ま、今は無理だろーけど」

 警告の言葉を冗談めいて丁重にnameの瞳に貼り付けてからを横抱きにした。泣き濡れた双眸は抵抗めいた色をまだらに宿している。そんな威勢をよそに、また少し痩せたnameの身体にカカシは胸の奥が再びきつく縛られる。

 忘れるはずもなかった。長い間カカシ自身も苦しんだ感覚。明滅するように苛烈な最後と陽だまりの記憶が目まぐるしく切り替わっては、思考を焼き切って、あらゆる感覚を剥離する痛み。時間だけが洗い流せる重たく侵食する傷と二度と消えない傷跡。

 走馬灯を後に短い廊下から閉じかけのドアを蹴り出せば、年頃の女の子とは思えない物も色も少ない殺風景な部屋が広がった。

 この部屋の様子では、きっと今もnameの根本的な性質は変わっていない。多少増えた家具や調度品らしきものは恐らく依頼者からもらったと考えると自然だ。唯一の変化と言えば、まるで何かに固執するように、何かを主張するように、いやに統一された白い居室だった。無機質に俺を出迎えた。
 ソファにnameを横たえると、相変わらず心許ない呼吸の破片がいくつも空気を震わせた。不安定な室内の雰囲気を落ち着けたくて、白いレースカーテンを引いて窓を開けると外気を誘った。

 nameは恐らく、俺に似ている。きっとあやすような声色も、気休めにもならない労いの言葉も、今も熱を帯びて膿むnameの心痛にはその意図のままには浸潤しないだろう。

 それでもどうにか、カカシは自身の手で、もしくはある種の献身で、自分に伝った傷よりたった一寸でも短く済むようにしてやりたい。カカシは確かにそう思うのに、どこかその自らの想いに確信を置けずにいた。nameの創傷の姿を目撃して自分の奥底のどこかがほどける感覚を覚えていた。その感覚はカカシに憂いを宿していた。

「あーあ、蛇口」

 体のいい言い訳を思い立つと、部屋にnameだけを残した。洗面台の蛇口をしめて、キッチンで手頃なグラスを見繕う。シンクの上に簡単な惣菜が転がっていたのは恐らくnameが買ってきたものだろう。兵糧丸を冷蔵庫に入れていた以前と比べれば随分ましになったものだが、まるで日常に興味がないと主張するような選択に、カカシは苦く表情を緩ませた。

「ほーらね、何もない」

 半ば試すように覗いた冷蔵庫には辛うじて炭酸水だけが転がっていた。独り言ちて扉を閉めると、今しがた購入してきた食材を台所の上に並べた。

「あ。nameー、ココと食器類、借りるから。いいね、大人しくしてなさいよ」

 もちろん声を張ろうが返事が返ってくるはずもない。それでも元上司とはいえ、この前数年来の再会をした男が自宅をうろうろしているのは、あまり気分のいいものではないだろう。
 料理の作りがけにnameの様子を横目に見たが、随分と落ち着きを取り戻せているようだった。さすがに激しい呼吸に疲労したのか、腕で顔を覆ったままぐったりと動かない。胸が上下していることを確かめると、残りの作業に取りかかった。

「ほら、起きて。俺、腹減ってるんだけど」
「……はぁ、私にはどうぞ、お構いなく」

 少しの時間、眠りに落ちていたらしいnameは不機嫌そうに豊かな睫毛を瞬かせた。カカシは思い出したように口元を緩ませた。

 そうだ、コイツは差し当たりいつも凪いているようで、寝起きだけは思ってることが顔に出やすかったんだ。随分と大人になったように見えて、まだまだ、子どもだーね。

「あのね、なんで俺が来たかぐらい分かるでしょーよ」
「あ、ええ。でも、別に普通に暮らしてますよ。さっきは……驚かせてしまってすみませんでした。今まであんなことなかったんですけど」
「ふーん?ま、食べきれなくても、たまには少しは野菜食べなさいって」
「本当ですって」
「はいはい」
 
 nameの表情を見るに、問い詰めずともきっと本当に偶然今日だったのだろう。でも、これもきっと同じだ。
 耐えられると思った、耐えていると思っていた。それでもきっとこれから、静かに確実に、nameの心は喪失の痛みに侵食されてゆくだろう。そうして死角でその口を大きく開いたままの傷は、やがてじくじくと澱んでは腐敗していくだろう。カカシはその先に待つであろう荒んだ生活にだけは、nameを重ねたくはなかった。

「カカシさん……正規に移ってから、その……ずいぶん変わりましたよね」
「は?まあ、そうかもね」
「失礼ですが、兵糧丸を食べてるところしか私の記憶には、その……」 
「あ、そーか。でも俺ね、七つから一人だから元々料理は自分でしてたし……って、してたでしょ。任務での炊き出しとか。アレ、メニュー決めたり作り方元の教えたりとかほぼ俺なんだけど」
「え……」
「ハァ。あー、つれないねえー、まったく」
「す、すみません……本当に」
「俺の手料理で何人の後輩が育ったことか。暗部の奴らは食事がテキトーすぎなんだよ。体調管理も任務のうちだってのに」

 何の気なくnameが自分の作った料理を口にするのを眺めると、カカシの中の行き場を失っていた庇護欲めいた心持ちが、どっと満たされる気がした。

 あの夜からnameの入院生活に至るまで、全てがカカシのいつもの周到な予測を外れたところで進行していた。勿論同じ部門を外れたのだから、与り知らぬことがあっても当然なのだ。だが、自分が関わる全ての人や状況に関して、なにも知らないという状態をカカシは嫌った。自分の仕事を全うしたいから。少しの隙が自分だけでなく他者の命取りになるから。いつものようにそう胸に刻むために反芻しなれた動機を、今一度確かめる様に暗になぞった。


 刺すように眩しかった陽光は、レースカーテンの細やかな装飾を朧げな影として白い床板に落としている。他愛のない会話を交わしながら穏やかな時間が過ぎてゆく昼下がり。心地よく揺らぐname横髪が耳にかかると、nameの大きな瞳がこちらを向いた。

「カカシさん、あの」
「ダーメ」
「でも……!」
「リハビリも上がりきってなくて、ハッキリ言うけど、この前より痩せたでしょ。そんな身体で、どうするわけ?」
「どうして、どうして……先輩だってよく知ってるでしょう?どうして言わせるんですか……本当に何かしていないと、苦しくて」
「ま、でしょーね。でも、何もそんな急がなくても、あと少しで嫌でもまたこき使われるよ」
「……」
「それよりさ、name」
「な、何ですか」
「お前の舌のそれ、いつからなの」
「なっ、どうして」
「そりゃあんた、あんな派手に死にかけておいて、周りが何も気付かないわけ無いでしょ」

 明るい色のnameの双眸は光をよく透過してきらきらと偏光を散らした。陽光を湛えてきらめく狭間で、深く揺らぐ瞳を認めると、カカシの迷いは追求へと一気に傾いた。言葉を丁重に探そうとするも、口をつく言葉を止める術が分からない。

「name、何があったの。オレが居ない間に」

 必死に何かを請うようだったnameの表情は、今や隙間なく動揺の色に塗りつぶされた。

 混ぜこぜになったnameの心持を、半ば力づくにでも掻き出して、その裏に息を潜めるnameの誰もまだ触れぬ核心を掴みたい。厄介な任務は早急に解決するために。
 そう大義を盾にしたカカシの尋問めいた関心は、いつのまにか剥き出しのままにnameに向かっていった。




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