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Novel - Hanno | Kerry

12






 淡い梔子色の光が味気ない白い天井を彩った。窓ガラスの重なりで屈折して部屋を照らすその光が私をやわらかに照らす。外にはまだ暁色の空が広がっている。どうやら夜が明けたらしい。

 外に一人見張りと思われる気配を感じる以外、周りには誰もいないようだ。
 瞼を瞬かせて意識を立ち上げると。瞼が眼球の表面をすべるたびにざらついて、次いで喉は酷く渇いていて、いくつか咽せこんだ。

 こんな些細な動作からでさえ、不自由さが神経を一筋ずつ逆撫でて不快だ。束の間の中庸を取り戻したnameの胸中は一瞬にして不安の色に染められてしまった。しかしどうやら今度は、丸一日と少しの昏睡で気が付けたようだった。枕元のデジタル時計を手繰り寄せて、掠れた息を吐きながらベッド脇のカーテンの端を手繰り寄せた。

 窓枠いっぱいに水色と桜色のグラデーションが埋めている────暁の空の色。

 明け方の空が好きだった。いつも淡い美しさに瞳を向ければ、複雑に絡まった思考の間を共に爽やかな風が通り抜けた。瞼の裏に空の色が焼き付く頃、ほどかれる感覚が心地いい。そんな束の間の時間だった。

 nameの瞳を今も染める色とは裏腹に、ふつふつとnameの中で黒いものが湧き立った。深く汚泥の堆積した沼のように、滴る失意が滞留している。するすると引き込まれたそこで、遣る瀬無さ、孤独、不安、すべての感覚が強烈な熱を帯びて焼き切れていく。そうして辛うじて行き着く先は、怒りでもなく恐れでもなく崩れ落ちるような悲しみだった。


 膨大な悲しみが湧き上がっては身体を這い登り、息が詰まる。そののち浅い呼吸で喉の奥が弛緩すれば、あとは止めどなく涙を吐瀉するだけだった。

「……っ、どうしていけばいいの…っ、これから…ずっと、ひとりで」

 嗚咽だけがゆるやかに空間に溶け出してゆく。この涙の根本には、先日のような熱を帯びた悲しみはもうない。きんと冷ややかな悲しみが腹の奥底から湧き上がっては、爪の先まで染み渡った。それでも誰の意思も汲まなくてよい今だけは、手放しに目前に広がる悲しみに浸っていたい。

 手放したくなどなかった。触れずにいた答えに、指先がついに触れた気がした。 別れの冷たさで悴んだ心では痛みさえ上手く掴めない。そのまますべての記憶まで薄れてしまいそうで、いまや最後の残骸の一片でも掴んでいたかった。
 たとえ今後絶えずその残骸には痛みか冷徹しか宿していなくても、あるいは触れるたびに自分を蝕むとしても。


 泣きながら血を浴びて歩いてきた夜も、激しく言い争った朝も、端正に象られた大きな瞳が切なさを孕んでいた昼下がりも、全部、ぜんぶ、もう来ない。
 嗚咽のままに悲しみをなぞったのはいつぶりだっただろうか。誰も居ない味気ない病室は、nameの心持ちの移ろいを気に留めることもなく無機質に包むが、そのことが今は何より心を解放してくれる気がした。


「……どうして、っ、私は、そっちの世界に行けないの」


 涙を拭うことも忘れて浅い呼吸を繰り返す度に、苦く甘いイ夕チとの数年の日々がnameの喉元を掴んで離さない。慟哭というにはあまりに力なく、落涙というにはあまりに膨張しすぎた切なさがnameの身体を駆け巡っていた。

 これからずっと、ささやかに、しかし確かに渇いてゆく。存在した暖かな想い出を反芻しては過去の温もりを啜ることしかできないそれは、どれほどのものなのか。この渇きを癒すことも断ち切ることも、自らが許せるはずがない。nameは悲しみの中に一抹の自己愛の兆しを嫌悪して、即座に無力感への自らへ向けた憎悪めいた感覚を引き出して塗り替えた。


「……許されていいわけ、ないんだ」


 この痛みに焼かれて、情けなく恋人の残光に縋って生きていく、最悪な失敗をしたんだから。連れてってなんて、痛みを断ち切るなんて、とんだ、贅沢だった。そうだ、そうだった。

 複雑に汚濁したnameの感情の堆積からたった一片だけ、当面の存在意義を救いあげた。



 両目どころか顔全体がすっかり浮腫んでしまった感覚がする。朝の診察はとても早くて、時計を見れば確かあと30分もない。
 取り乱して寝込んで、次に見たものが再び泣きじゃくった痕跡なら、きっと復帰はどんどん遠くなる。そうすればたちまちあの自己愛めいた回想に囚われて、きっと本当に何もできなくなってしまう。とにかく、今は適切な言い訳を探さなくては。まだ疲労の残る意識を、できる限り立ち上げる。

 来るのはサクラさんだろうか、綱手様だろうか…知らない人でも観察中だろうから、誤魔化しても無駄かな。そんなことがよぎってふと自分の頭に添えられた氷嚢を思い出すと、急いで両目にあててみる。ひんやりとした感覚に双眸を閉じると、闇の中を漂う。

 また嗚咽だ。あっけなくnameの鎮静の試みは頓挫した。今思えば色鮮やかだった日々の追憶が再生されると、いつまでもコントロールできない自分に自嘲を向けながら、そんな自分の弱さに辟易とした。思わず力の限り片手を自分に振り上げた。


「っいい加減に……!」


 眼球あたりに来るはずの衝撃は、上腕の違和感にすり替えられて間も無く、声の主にびくと肩を揺らした。


「気持ちは分からんでもないけどね、また新しく傷作らない方がいーんじゃないの」
「……」
「返事は」
「気配、消さないでください!」
「ん、元気でよろしい!」
「……っ!」

 再び虚を付くようなカカシの行動に、羞恥と煩わしさがじわりとnameに広がる。表情を変えることが悔しくて唇を噛み締めた。

「やめてください」
「やめてくださいって、もうそろそろ人来るけど……」
「しってます……!」
「え、あれ、怒らせた?」
「……」

 腕を解いたと思った矢先、今度は氷嚢をずらそうとするカカシの手をなんとか振り切りると、逃げるように布団を頭までずり上げた。

「え、name、ちょっと…驚かそうとしたわけじゃなくて、寝てると思ってね、てっきり」
「……へ?」
「いや、当たり前でしょ?あなた怪我人だし。で、頭でも痛いわけ?」
「……あ、怒ってないですから、だから……少し、もう少し一人にしてください」
「だーめ、抜糸までは我慢」


 カカシさんは読めない。ずっとずっと、こうだ。同じ班にいたときから普段は踏み込んでこないのに、班員が崩れるようなことが起こったときは突然距離を詰めてくる。
 暗部に入ってしばらくするまで、誰にも気に留められもしなかった私は、何年経ってもこの対応に慣れない。でも、だから、心身の余力がない今はなおのこと放っておいて欲しい。
  私は泣きすぎなのだろうか。カカシさんのようには冷静になれなかった私の未熟さが、子どもみたいで面白いんだろうか。そうだ、カカシさんだって、いろんなものを、失っているのに。

 カカシさんの優しさは、あの人の誠実な義務感から来てるんだから、あなたのためじゃないから──突如として、そんなセリフが脳裏で暗くきらめいた。もう顔も朧げな自分より大人の女にいつかぴしゃりと言われた言葉。

 そんなの知っている、とは言えなかった弱かったあの頃。今の私はあの頃に比べて、少しでも強くなれたのだろうか。

 背負った十字架を漸く下すに至ってもなお、これまでに受けたいくつもの刺は、依然としてnameの背にとどまっていた。優しさを受け止め、丁重にしまい込める余白は少しも見つからないほど、胸中を隙間なく暗く冷たい澱に満たされている。


「nameー、聞いてる?」
「えっ、あ……はい」
「聞いてないやつだーね、それ」
「……す、みません」
「あーら、なるほど?」


 カチリと深い藍の瞳と視線が合ったところで、nameは気付いた。うっかり自分がカカシの方へ顔を向けてしまった。もちろん未だ両眼のふちまで隙間なく浮腫み、瞳には涙の塩分が未だ滲み入る感じがするから、きっと充血している。

 カカシの飄々とした様に、さっきまでnameの中で張り詰めていた緊張がするすると細く抜けていくようだ。自分自身をいつまでも制御できないことへの憤懣に張り詰めていた体からも力が抜けてゆく。再びくたりとベッドに横たわると、悔恨混じりのため息が漏れる。


「からかうほど……おかしい、ですか」
「は?」
「いつまでも泣いてるの」
「そんなもん、でしょ」
「…え?」
「だから、おかしいなんて思ってないって」
「……」
「思えるわけないでしょーよ」


 ベッドの横に歩み寄って隣の椅子に腰かけて、私を覗き込むカカシさんは、暗部にいた頃よりずっと優しく笑うようになっていた。それなのに、どうしてか今とても短い間、この人の瞳の奥の陰影は深まったように見えた。

──なんて切なく笑うんだろう。

 自罰の加工を施した痛みは、それぞれ弱く鈍いものだったが、空間でそれが交わる感覚は確かに互いに伝播してゆく。それは決して安穏の色を帯びてはくれないが、そのことが心地よかった。

 自らの翳りに背を向けずに済むことが、暗夜の灯のごとく寄り添っていた。





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