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Novel - Hanno | Kerry

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 nameは理解していた。先ほど自分に向けられたカカシの心痛を帯びた鋭い言葉の刃先は、自分の傷をさらに裂き入れるためではなく、純粋に自分の周りをいつしか取り囲んでしまった陰鬱の皮膜を切り裂くためのものであることを。何よりnameを案じたゆえであることを。
 それでも誰にも見せず隠していた自分の中にある忸怩たる一面を、こんな風にだらしなく漏らし、さらに引き出されるように露呈したくなかった。

 とうに暗闇に塗れ、汚れ、狡猾に歪んだ一面が自分にはあること、さながら自慰的な様相を帯びていて、それでいて終いには孤独に怯えて諦観を捨てられなかったことを、今や一番知られたくない人なのに。

「……どうでも、よかった、自分の身体なんて?」

 核心をつく言葉の数々に、考えるほど思考が乱れる。こうして全てを知られてしまえば、仕事上とはいえ憧憬の念を少なからず抱いていたカカシに幻滅されてしまいそうで、実力を積み上げて漸く手にした"認められた後輩"の座から降ろされてしまいそうで、そして何よりひとたび生き残ってしまえば、こんな下賤な煩悩を抑えられない自分がいることが、たまらなく汚らわしく、そして恐ろしさがこみ上げた。

 重責から解き放たれようとも、とうに運命の手筈に何度も胸を裂かれ、突かれ、かき乱され、引き抜かれて大きな風穴があいたようなnameの胸ではどの感情にも実体を宿せないままだった。そんな心持ちのままで、何かを掴めるはずもなかった。

「……name、生きていくしか、ないんだ」

 圧倒的な無の空間を、煙が無造作にくゆるようにたまに痛みや悲しみが流れていた。それに沿って、カカシは自らの心痛をそこに侵入させた。やがてそれは寄り添い、溶け合って、nameはじわりと自分の胸へ半ば強制的な許可が注がれるのを感じた。
 痛みは痛みのまま、憂いは憂いのまま、他の何かに偽ることなく、胸の中に磔にしてもよいという許しだ。未だ呆然と立ち尽くす心持ちのnameの両手からは、いつの間にか自罰の鞭が奪い取られていたようだった。

 まだ温もりにおぼつかないまま、nameは涙をしゃくりあげた。数分間の会話では、ここ数年間で抜け落ちた心情の残骸の全てには到底及ばないが、これまで欠落してしまった部分の体積を、たとえ一片でも他者に埋められることなどなかったからだ。

 それが悲しみなのか、己の無力を受け入れる痛みなのか、はたまた今後抱えていく愛別離苦への畏れなのかは依然として混濁したままだが、久方ぶりに自らの胸に確かな痛みを象るところまではできた。

 近頃はもう、感情の一片を掴めども砕かれすぎたそれは、まるで細やかな砂のように、掴みきる前に指の隙間から次々とこぼれ落ちてゆく有様で、ただ無力にその様を眺めるように時を過ごすことしかできなかった。

 暫くすると、先ほどカカシが注いだであろう生々しくもやわらかに軋む痛みが、静かにnameの涙を抑えた。

 突如として溌剌とした気配と語気が、痛みの積もる空間に差し込んだ。

「name、目覚めはどうだ」

 既に夜も深いにも関わらず、豪快に病室のドアを引いたと同時に、nameに話しかける。静かな病室には唐突すぎる音に、大きな瞳をさらに大きくしたnameだったが、綱手がそれを気に留める様子はない。


「…え、あ、綱手様……その、…ご迷惑を、おかけしました…」
「……name、辛気臭い態度は今月いっぱいまでは許してやる。だが、それ以降は努めてやめることだ」
「……」
「何か不満なのか、name」
「いえ、ただ…ただ、今の私に、綱手様と約束する権利などあるのか、と…」
「何をバカな事を言ってる。まぁ、月末にもう一度聞いてやる。とりあえず今のうちに休んで、後悔のないくらい泣くでも喚くでもしておけ」
「……」


 思えばこれがnameにとっては、意識を取り戻してから綱手との初対面だった。未だnameは身体に纏わり付くような気怠さを拭きれない。だが、それよりも自分が最悪の形で中途半端に崩れてしまったことが不甲斐なく、気がかりだった。

 つい最近まで、その薄い肩に重たい鎖を幾重にも巻きつけて身体を引きずったような日々は記憶に新しいが、初めての崩壊を迎えたnameのまだあどけない理性は、その鎖の存在の不条理より自らの弱さを呪ってきたのだった。

「ところで、nameはうなされでもしてたのか?その充血」
「いえ…あ、その、」
「カカシか?…お前」

 綱手がカカシに居直ろうとする。慌ててnameはそれを遮るように口走った。

「い、いえ、私がいけなかったんです……すみません」
「……そうだろうなあ、まさかお前が、禁止寸前の薬物を使用してるなんて、カカシは考えもしなかっただろうな」

 たちまち様々な羞恥で口を塞がれた心情のnameは押し黙ってしまった。それを横目に入れ、次には綱手の雰囲気が柔和なものへと変わり、とりまく空気も穏便な色へと塗り替えられた。

「まぁな、そんな単純な話でもないだろう。とりあえずやったことが分かっているのならそれでいい。その話は後でこの私がゆっくりと聞くつもりだったんだが…カカシ、この状態で手厳しすぎだぞ。朝は珍しく狼狽したかと思えば、今度は躍起になって詰問か。怪我人をこんなに泣かせて…!」
「あ、はは…」
「ったく、nameの容態が悪化することがあれば、お前の責任だからな。分かってるな?カカシ」
「ですよ、ね…」

 冗談めかしながら、予想よりあっさりと終わった綱手の詰問に少々拍子抜けしながらも、カカシはnameの今後について思案を始めると、綱手の診察も一つの目処を得たようだった。

「そうだな…入院自体は問題なければあと2週間、だな。だが、復帰するにしても勿論すぐには一人で任務に出すことは許可できない。退院後もしばらく休養するでもいいし、リハビリ後の任務にしても、暫くはまたヤマトやカカシに世話になる覚悟を決めるんだな」
「……復帰、したい、です…なるべく早く」

 nameは何よりも恐れていた。体力が今より戻れば、こんな状態では意識のある時間のほぼ全てがイ夕チへの追憶で埋もれることが目に見えている。そして何より体は確実に鈍る。

 男女の差は努力次第で埋められるのが忍の楽しさであり難しさだ。それを維持するのには勿論男女差の有利不利は付き纏う。そうして心も身体も朽ち、いつしか忍としての機能すら失ってしまったら、自分の存在の鞍点に、nameの思考は依然として悲観の傾きの途中だった。

「name、もう一度しっかりと考えておけ。さっきも言ったが、また聞くという意味を考えろ」
「でも!…こうしてるうちにも、身体はどんどん鈍りますし」
「まだまだ、青いな」
「綱手様、お願いです…!まずは傷が塞がるよう養生はもちろんしますから、だから……!」

 聞き覚えのあるトーン、焦燥と無力の狭間に押しつぶされまいと息を切らして自らの身を削っていることにすら気づかなかったあの頃の音。カカシの周りの高い声がぼんやりとして曖昧に滲んだ。

「まあ、落ち着け。臓物どころか背中まで裂いた傷をこさえてきて何を言ってる」
「もう、私は……暗部の忍としては、不要、ということですか?今回ばかりはっ」
「そんなことを言っているんじゃないよ。分かっておくれよ、name」
「でも……私は」
「これだからだ。おまえはもう少し任務以外にも時間の費やし方も覚えろ。これも管理者の能力の一つだ。どうせ死に走らなくとも、お前が生き急ぐ寸法なのはこのアタシにはお見通しだよ。そして、カカシにもな」
「……っ」
「そーねえ」

 滲んだ音の輪郭をなぞって言葉をなんとか掴みなおして、どこかうわの空の生返事を返した。カカシは、胸の奥がチクリと痛んだ。

 もがいてももがいても逃れられない、溺れたようにうまく呼吸もできない、忌々しい記憶がいつのまにか脳髄まで浸透し、重だるい心身を地下世界の刺激で誤魔化しながら、真っ当な殉死だけがいつしか夢や希望になる日々。ただ時間の経過を待つような虚しさ、砂を噛むような、悲しみの味すらままならぬ日々。

 依然として遠くない感覚、色褪せない。いや、つい最近まで自分も苛まれていた青く苛烈な喪失の炎。

「…そして何より、この事態は…どことなくお前の精神状態に危機感を察知しながらも、お前の強さに甘んじてしまった私の監督責任でもある」
「っ、それは!私が先代からの任務として、そのように仮初の姿で振る舞ったからで!」
「奢るな。…私はこれでも火影でな?お前は任務を全うした。一方で、付随する負担を計算できなかったのは、この、私だ……」
「っ、もうやめてください、綱手様……!」
「お前らしくない。頭を冷やせ」
「……」
「……とはいえ、お前の中ではまだ、すべてが昨日の夜の出来事みたいなものだろうよ」

 綱手の言葉が、nameの双眸に取り戻されつつあった光に翳った。ゆらとぐらつく瞳をカカシは見透かすと、自らの胸の中のどこかが焼け焦げるような感覚を覚えた。

 悲しみに毎夜脳裏を焼かれ続ける。その疼痛。これから、この目の前の少女もひとり背負っていくのか──痛みも理不尽への怒りも自分の無力への焦りも、どれも行き過ぎた感情は悲しみという器に収束していき、それが脳のシナプスひとつひとつを食いちぎるような感覚。

「何はともあれだ、よく生きて戻ってきた。長きにわたって過酷な任務、ご苦労だった」

 事務的な声色に鼓膜を揺らされ、nameは綱手の瞳を再び見上げれば、色濃い憂いと共に、暖かな優しさに満ちていた。nameが綱手の心痛を理解するには、その光景で十分だった。綱手から養生を言い渡され、また来ると頭をくしゃりと撫でられるのは慣れない行為だったが、再び床につくためのまろやかな号令となった。

 カカシが明かりを調整してやると、電池が切れたようにnameは再び眠りについた。

 一度閉じられたはずの扉が開いた。
 振り返ると、綱手に手招きしている。外に出てみれば、綱手の双眸には深い憂慮の色だけが残されていた。

 現役の火影ですら眩むような稀代の惨禍を背負った痛みなんて、どう和らげろって言うんだか。気の遠くなるような想いだよ、まったく。内心を危うく漏らしかけると、こちらを覗く目にここちよい厳しさが宿った。

「で、本題だが、どうだった」
「はい、本人もまだ事態を飲み込めてないのが本当のところでしょう」
「そうだろうよ。これだけのことを……よく、あの娘たった一人で…こう話ができるのも奇跡のようだ。私があいつを失った時は……いや、とにかく、首を長くして待つとしよう」
「……ええ。傷心の本分に到達するのには、暫くかかるのも仕方がないでしょう」
「ところで、…あいつの薬についてだが」
「はい、お考えのように。違法ではないようですが」
「まあ、そのようだな。時間の問題でもあるが……使用は認めた、ということか」
「ええ」
「まあ、細かいことは後々分かっていくだろう」
「俺の今の考えだと、nameが極端な動きをするようには思えません。第一、そのための俺の配置なわけですし。ただ、あいつの弱った状態を何かと利用するような流れからは避けたいなと」

 綱手の表情がふいに強張りを見せ、決意を込めるようにギリと奥歯を噛む。決意の表情に異変を感じて、カカシは再び狼狽えることを憚らない。

「カカシ、…お前は……nameの舌に、呪印が入っているのは知っていたのか」
「…っ、なっ、それは…口ぶりからして、ダンゾウの、ということですか……!」
「ああ。搬送直後、挿管時に見つけた。ヤマトも気付いていなかった」
「ダンゾウにとって、一つの大きな懸念にnameがなりうる、ということですか」
「……カカシ、お前の鋭い大局観には常に助けられている。──引き続き、頼んだぞ」
「…承知」

 暗部内の上忍の中でも片手でもランクが付くような段階になると、極めて稀だが担当案件の特秘事項は書類上黒塗りのまま次代の火影に引き継がれることがある。その内容が知らされるのは当該者の死亡か、任務達成を待っての二つに一つだ。その一角をnameももう背負っていたということになる。

 ──誰も詳しいことは知らない。勿論、nameが根に属していた経歴はない。間者の可能性もゼロとちょうど今晩調べがついた。ダンゾウは勿論呪印を施してまで何を封じたかったのか、核心らしき事は口を割らない。引き継がれてもいない。ただ、時期については少ない証言からは恐らく、監視着任の前後だと思われる。くれぐれも、気を付けろ。

 綱手の説明が未だ明らかな核心は留めないままカカシの脳内に漂っていた。己と臥せるほどの後輩の無力感を病室に横たえると、思考は見る間も無く抑圧されていくようだった。

 もう一度思考を立て直すべく、深く息を吐く。

 name、お前は今まで何を見て、何を思ってきたのだろうか。誰かが全てを背負いきるなんてのは無理な話なのは痛いほど知っている。それでも、払ってきた痛みの対価は少なくないはずなのに、また俺は、自分の近しい人すら守りきれないのだろうか。さっきまでぼやけていた思いが心痛で輪郭を繋いだ。

 nameの穏やかな寝息に安堵を分け与えられたカカシは、微笑みをたたえながらも、両の手には悔恨が滲むほど固く拳を握っていた。






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