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Novel - Hanno | Kerry

9





応急処置を一通り済ませ、細い腰に走る生々しい傷を圧迫する。耳にはいまだに先刻のnameの上がりきった呼吸が纏わり付いていた。これまでに見せた事のない、雪崩のように崩れ落ちたnameの気色が、カカシの盤石な克己心にわずかに亀裂を走らせていた。

"あの頃"の自らのほろ苦い記憶を思い起こさせた。

…先輩には関係ない、か。

 蕭条の渦に飲み込まれたまま、無力に泣き濡れるばかりのnameの双眸。孤独の水の中で溺れる寸前のように上がりきった呼吸。身体の傷には目もくれず、それでいて、もがくにはあまりに力ない腕。その全てが狂おしいほど切なく、今なおカカシの心を絞めつけていた。

……関係あろうがなかろうが、指導担当だった後輩を、エースを、悪いけどこれ以上死なせるわけにはいかないのよね。OBとしてもさ。

 nameにつけられた腕の小さな創傷を眺めた。漫然と湧き上がる何かを覆い隠すように、思考の器の縁から縁へと理屈の薄膜を張りめぐらせた。

……それにしても、あの二人がずっと繋がり続けていたとは、ね。まして、隠密な逢瀬や裏切り行為でなく、正式な地下任務のために。

 暗部とは"そういう"組織だ。汚れシゴト、とはそういうこともなきにしもあらずだ。そして、彼女の才能や性格を鑑みても適任であろうことは理解できる。そう、その点にはなんの曇りもないのだ。しかし、一連の出来事は不運な事故ではない。長期的戦略の上で、緻密に計画された犠牲と邪侈な妥協に見える許容だ。

 なぜ、殺しを含む任務に、幼くかつ恋人であるnameを選んだのか。相互に人質として組み合えるからか、裏切らせないためか──しかし、このしがらみを事実上全て了承していたイ夕チが、途中で抵抗するとも暁に寝返るとも思えない。それに、nameは生粋の生え抜きの火影の直下の暗部だ。
 本人が望まぬとも目立ってしまうことが多かったnameには、あの事件があってからは特に配置の配慮があったはずだ。それなのに、なぜ議決が通ったのか。

……いや、だから、か?

 内戦の危機を止められるのは、イタチしかいなかった。その事実は残酷だが現状でも肯けてしまう。それでも、その監視役と暗殺役を分けることはいくらでも理由をつけてできたはずだ。時期的からして、当時三代目在任中の決定だったはずだ。あの方なら、任務のために一人の忍を使い潰すようなマネは避けたがるように思えるが……何かまた裏で動いていたのだろうか。

 カカシの中で逡巡する思索の連鎖は、綱手の子気味の良いヒール音によって、一旦断ち切られる運びとなった。

「ったく…困った子だね!nameはこんなにお転婆娘だったのか?……階段から廊下から、そこらじゅう血塗れだぞ!サクラは借りたからな!」
「はぁ…」
「ハァは私のセリフだ!どんな動き方をしたら、こんなことになるんだか…まったく、何のためにお前を付けたと思ってるんだ!」
「……」

 なぜ親でもない、現状上司でもない俺がこんなに怒られなきゃならないんだ。そうカカシがため息ののち、怪訝の表情を浮かべるべく筋肉を構えた。一方で、真正面から綱手の顔が視界に入った。語気とは裏腹に、その表情は確実に悲しみを掴みはじめていた。

 綱手の憂いを噛み殺そうとする表情は、今nameの痛みを最も原型に近い形で噛み締めているからだろう。この人もまた、息の詰まるような悲しみに打ち勝たずとも召抱え、今影として手腕を発揮しているのだ。

……この子は一体、今後どうやって生きていくのだろうか。

 それを今誰よりも問いたいのはnameだろう。しかし、カカシは思いを馳せてやらずにはいられなかった。家族にも友達にも恵まれたとはいえない、若い人生。たった一つ、ようやく命を賭してまで望んだ居場所はいま無残に消え果てた。
 nameにとっては文字通り、今この世界は空虚そのものでしかないはずだ。

 そんな世界に無理やり引きずり込み、留め置くようなことをしてしまったのではないか。そんな世界で生を強要した先に、nameが選ぶのはきっとよく見積もっても、婉曲的に何度でも今日までと同じ経過を踏襲するだろう。生きてほしいと思いに、俺のエゴが混じりはしていないだろうか──生き急ぐことしかできなかったあの頃の俺が、問いを重ねた。

「カカシ、考え事なら他でしろ。邪魔だ」
「すみません」
「で、状態だが、内臓はギリギリ無事だが、やはり皮膚がかなり深く開いて、筋肉もそこそこ傷ついている。あとは、何よりこの出血だ。……まあ、まだ少しかかりそうだ」

 極めて事務的に話を進める綱手の優しさに、カカシは気付いていた。畏怖すら抱くようなこの悲しみをより深く知るこの人の心遣いが、幾ばくか自分の迷いを取り払ってくれる気がした。

「……はい。いま俺にできることはなさそうなので、一旦ここはこれにて。……それから、軽い錯乱こそしてましたが、事の直後です。その、縛り付けるようなことはしないでやってください」
「あぁ、分かってる」

 深々と頭を垂れると、聴き慣れた張りのある声が階段から降ってくる。

「あれ、カカシ先生ー?……って、えっ、まさか…お知り合いですか?」
「まあ、…うーん、後輩?」

 サクラなりに、まるで惨劇直後のようなこの血染めの空間に、多少の不穏を感じ取ったのかも知れない。階段の手前で看護師にカルテを渡され、いつになく真剣な顔で内容を読み込み確認したと思った矢先、nameを見遣るなり声を上げた。

「うわっ、お人形さんみたい……」
「サクラ、お前ね、この状況で」
「えっ、待って、待って、こんな女の子が暗部の隊長してるってこと!?」
「サクラ!一歩間違えたら死ぬ患者だぞ!そして極秘事項を抱えているんだ。殺したいのか。今後二度と表で階級を口走るな!これ以上色めき立ちたいなら、今すぐ帰れ!」
「す、すみません……!」

 俺の発言には見向きもせず、不謹慎にもnameの風貌と肩書きのアンバランスさに浮かれ始めるサクラ。そしてそれを即座に綱手様がたしなめるのを成功するのを眺めているうちに、この状況で随分と肝が据わってきたなと、教え子に妙な関心を抱いてしまった。

「そいつは、サクラとそんなに歳は変わらないんだ。…ま、歳の割にシケた奴だけど、落ち着いたら友達になってやってよ」

 nameには同年代の友達は事実上いない。同期の多くはようやく中忍として務まる奴が出てくるくらいだろう。そして当然、暗部内部には十代の者は極めて少ない。まして、高難易度の任務を取り扱う班ではまずいない上、早々に隊長クラスまで昇格してしまったらなおさらだ。

 アカデミーでは、一般の普通科の学校とは違い、才があれば、まして突出していれば、早急に見出されて実戦に回される。それ自体は本人、他の生徒、里、ひいては国、その全てに有意なことだが、一方で、アカデミーを飛び級するデメリットも当然にある。
 例えば、たった十数年の短い人生の中で、ある種の特殊な状況で育ってきたこいつが、自分の命をこの世に留め置くための引き出しは、たった二つ、ということもその一つだ。

 一つ目の引き出しは高難易度の任務の遂行、二つ目のそれは身近で唯一年齢も能力の程度も拮抗できる恋人との関係。そして、いまや後者は、少なくともnameにとっては最悪な形で跡形もなく打ち砕かされ、奪われたのだ。

 任務には明日すぐに立てるわけはないし、立たせるわけにはいかない。復帰したとしても、故人の記憶は何度でも残酷なほど美しく蘇るだろう。

 胸につかえるような、大きすぎる離別の悲しみをnameの痩躯から無理に引き摺り出そうとするなど、俺にはどうしてもできそうにない。もしもそんなことをすれば、次こそnameは名実ともに身を裂くだろう。その悲しみを無理に引き上げようとすれば、救済のはずだったその過程は、全て鋭い刃となってnameに向かうだろう。

 だから、カカシはせめても背負いながらも歩めるように、引き出しを増やしてやりたくなった。かつて自分が、三代目や四代目に人知れず背中を押してもらったように。砂を食むような日々に一人途方に暮れていても、諦めず日常に色を与え続けてくれた、友人たちのように。

 自分に生きる意味を見いだせないまま、重み付けをかろうじて担っていた他者さえ失ってしまう。そんな荒涼とした世界に、たったひとり遺される空虚な感覚と底無しの不安だけを知っただけで、逝かないでほしかった。

……サクラに一番に声をかけたのは正直な話、たまたま、だけど。

「えっ?!ウソでしょ……でも、確かにそう言われてみれば…えっダメ、頭が追いつかない!…あ、あとで話を聞かせてくださいよ、カカシ先生!絶対!」
「ハイハイ、後でね。手が止まってますよ、サクラ、サン?」
「コラッ、いい加減にしないか、サクラ!」
「は、ハイっ!すみません…!」

 甲高い声が行き交いながら、綱手と助手たちが手際良く処置を進めて行く。とりあえず急場はこれで凌げるだろう。今度こそと、その場を離れ、カカシは帰る前に一度nameの病室に戻ることにした。

 静まり返った病室に戻ると、テンゾウが書類を準備しながら俺を一瞥した。追加の入院日程が必要になったのは明白だから、そのための物だろう。

「先輩…nameの容体は?」
「んー、身体はひと先ずは大丈夫そーよ」
「そう、ですか…」

 こいつは俺よりいまやはるかに長くnameを見ている。それでも、nameがあんなに崩れたことは一度としてなかったのだろう。いつになく所在なさげだ。

「……俺が抜けた後、何か不穏なことでもあったの?」
「それが、なにもないんですよ。報告書もまだ書き切らないほど急務で……勘付いたのが決行約1ヶ月前、そこから調査と検証で必死に追いついて、あっという間に当日ですよ。かくいう当日も、見事なnameのトラップにかかって現着が遅れて……最終的に、このザマです」
「……ま、そんな落ち込むな。おまえの落ち度じゃないし、落ち度云々というよりそもそもnameの任務だったわけだし、何よりアイツの命は助かった」

 nameが目覚める直前までの沈鬱とは異なり、カカシの質問を皮切りとして、テンゾウが心情のすべてを吐露した。堰を切ったようにこれまでの緊張状態を言葉にし終えると、いつもは逞しく伸ばされた背筋を竦めた。

「イタチの里抜け直後は?」
「特には。当時、事が公になったあと聞いたんですが、イタチのことなのに悲しむでも怒るでもなく、珍しく何も言いたくなさそうだったのは覚えてます。……それでもその後も任務を欠かすことはなかったですし、コトもコトなのでいつしか誰も聞かなくなりました」
「まあ、そんなもんか。…気付けるトリガーも、強いて言えばその時の些細な違和感くらいだけってワケか」
「……はい」
「……あの暗部一のひよっこだった二人が、このエゲツない長期任務にあたってる間、のうのうと俺は地上に上げてもらってたってことね」
「……先輩、今僕に言ったご自分の言葉は、忘れたんですか…?」

 短い沈黙の後、ははと弱い嘲笑を浮かべながら、肘で隣を小突いていると、病室のドアが開いた。処置を済ませたnameが運ばれてきた。綱手様とサクラも一緒だ。

「サクラ、報告の練習だ」
「はい!…えーと、腹部の再縫合しました。また、出血が多かったため、2単位の再輸血。主に輸血の経過観察のため、入院日の追加は2週間。あとは…暗部の方といえど、こういう時は平等に免疫が落ちるので、輸血が馴染むまでは任務直後の格好のままのお見舞いは、控えてください。来るなら、任務前とか、非番の日に」
「……だそうだ。内臓は無事癒合したままなのが不幸中の幸いだ」
「……はい。綱手様カツユ様の網療治夥の術のおかげです。あの、お忙しい中、憶測に過ぎなかった段階から、ありがとうございました」
「いや、私も火影として責任を感じている。引き継ぎの曖昧さに気付けなかったのは、この私だ。この難易度の任務で……致命的すぎる。まあ、まずは普通に接してやってくれ。わかったな」
「勿論です」
「じゃあ、私は執務室で厄介ごとの続きだ。ったく、酒を煽る暇もない!」

 テンゾウと同時に無言でカカシも頭を下げた。再び静寂が訪れたのも束の間、深い事情を知らないサクラが、なんとも呑気な質問を、この殺風景な病室に響かせた。

「で、カカシ先生、こんなお人形さんが暗部に居るって、しかも部隊長って、何事ですか?!」
「あのね、サクラ、さっきの綱手様の言葉は忘れた?あと、多分それ本人の前で言わないほうがいいよ」
「え?いや、だってボロボロの状態の寝顔でこんな可愛くて、起きたらどうなっちゃうのかと!しかも、すっごく強いんですよね?実戦で」
「サクラ、特に前半の言い方、もうちょっと考えたらどうかな」

 やれやれとテンゾウが呆れ顔で肩を落とすのを横目に、ああこれが年相応な会話かもしれないと、サクラの明るさになんだか救われたような気がした。同時に、その横で命を手放そうとしているnameが、まるで鮮やかな残酷な対比だ。切なさとやるせなさがカカシの胸奥を圧迫していった。

「私がnameさんだったら、毎日楽しいだろうなぁ。強くて美しくて…そういえば、アカデミー飛び級してからずっと暗部だったって、親御さん心配しないんですかね。こんなに可愛いし」
「……nameに親はいないよ。いや、正確にいうとどこかで多分ご健在だけど、こいつが会うことは二度とない。だから、天涯孤独だ」
「……私……また、すみません」
「ま、サクラにはその感覚を忘れないで欲しくもあるよ。当たり前に両親や帰る場所があるって感覚。だけど、nameもまた、そういう厳しい環境で生きてきた」
「はい……」
「でも、そうやって普通の女の子として接してもらうのもnameにとっていつかはいい材料になるかも。ね、テンゾウ?」
「そうですね…それはそうなんですが、まずは次に目が覚めたときも一筋縄で行くか…オレは不安です」
「そうねえ、こいつの強さを信じるしか、できないね」
「あ、私、残りの片付けにいかなきゃ。また話聞かせてくださいね。ケアの仕方も考えなきゃなんで!」
「ふーん、頼もしいねえ」
「ちょっと!カカシ先生、私のこと馬鹿にしてるでしょ!」
「いいえ、まさか!頼りにしてますよ。ほんとーに」
「先輩、僕もそろそろ暗部の任務だから、あの書類の提出しておきますが、nameをよろしくお願いしますよ」
「りょーかい」

 じゃあ、と二人が別々の方向に去っていくと、たちまち椅子に腰掛ける俺とベッドに静かに横たわるnameに、静寂が降り積もった。nameの髪を撫でると、再びnameの青白い頬にひとすじ、涙の痕跡が残されていることに気付いた。

──忘れたくても、忘れたくない。

 忘れてしまったら、先に逝った仲間たちが、仲間たちに傾けた自分の心が、全て無かったことになってしまう気がした。
 そんな状況はどうしても避けたかった。自分の胸にほと走る尽痛さえ耐えさえすれば、彼らの最後のひとひらの欠片だけでもこの世にまだ留めておける。生き延びてしまったことの引き換えに、彼らの痛みを痛みのままで背負うために、忘れられないのだ。いや、忘れたくないのだ。

 nameの涙と静寂は昔年の想いをいとも容易く暴き出した。俺の理性の壁を騙して、混沌としたまま混ざり合った。いつのまにか瞳の奥から雫が溢れ出しては、nameの隣に静かに沈んでいった。





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