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ようやく呼吸が解放され肩で呼吸を押し出すとようやく自分が長い眠りから目覚めたらしかった。nameは飛び起きるように白いシーツから自らの上体を押し上げた。
「…ッはぁ、はぁ…っく…ハァ」
「name!!……先輩、意識が戻りましたよ!……まずいな、深呼吸できる?」
一瞬で大きく見開かれたnameの瞳は、次いで所在なく辺りを確認する。はらはらと涙が自らの頬を伝っていることは気にも留めず、呆然と呼吸を取り戻しながら記憶を辿り寄せる。
……白い部屋…なぜ?テンゾウさんがいる?…さっきまで任務でいたあの宿は、…いや違う、違う……そんな…こんな、どうして……誰が…?
「nameちょっと!聞こえないの?…しっかりしなさいって!」
部屋に入ってきた途端に広がる異常な光景に、カカシもnameの様子を覗き込むだ。開かれたまま外の世界を断絶するように色のない瞳が心許ない。どんな言葉もnameの猛烈に逡巡しはじめた思考回路に、容易く弾かれてしまった。
意識が明らかになっていくと、数珠つなぎに記憶が色を帯びてゆく。鎖が地面を這うように引き上げられる脳裏の記憶の数々。息つく間もなく、血肉を裂いた感触がグチャリとnameの指先に蘇るところまで到達した。自分の手のひらを一瞥すると小さく震えている。思わずその不快な感覚を揉み消すように、腕に刺さる全ての点滴を毟り取った。
……遺体は、どちら側が"回収"を……?まだ会える?もう息をしていなくてもいいから、最後に、…最後に。
nameは一体自分が一時危篤状態で、何日間眠っていたかも知らぬままだ。初めての離床を粗雑に済ませたために、目の前は白んで全身が軋んだ。それでも、nameは制止する気配を見せたカカシの腕を見切る。するりと押し除けるようにその腕から身体をよじった。
「ちょっと、name…!!」
カカシがわずかに狼狽を残しながら声を上げると、既に制止は一足遅かった、既にnameは廊下を出て階段を下りだしていた。呆気にとられながらも先ずテンゾウが先に病室を出て、はっとしたカカシも次いで階下へと走り出した。
傷だらけの身体を引き摺ってどうにか階段を下りきった。霊安室前の通路にかかるカレンダーがnameの視界に入った。日付を見て愕然とするや、全身の力が抜けていく。思わず壁に手をつき、上体をもたれかけた。恐る恐る、横目に脇に2つかかっていたネームプレートも確認する。
そこに名があるはずもないのだ。本当はもう、この混濁する意識の中でも今こうして消えてしまいたいほどわかっている。ここは木の葉の病院で、彼は昔にこの里を抜けたのだから。もう全てが、手遅れなんだ。
……あぁ、失敗したんだ、私は。
喉の奥の粘膜がせり上がってくる。慟哭の兆しがnameに押し寄せた。
言葉の領域をとうに超え、吐き出せなくなるまで膨張した悲しみがいっそのことこのまま胸を裂いてくれればいいのに。魍魎としたまま腹の中を暴れまわる空虚な感覚は、涙はおろか呼吸さえ押し潰していた。
たちまち嗚咽さえままならずに、nameは浅く詰まった呼吸ばかりを繰りだした。
突如、ひやりとした感触が脚伝いに触れると、nameの目まぐるしい逡巡がはたと中断される。
自分の身体を見れば、血塗れになっていた。いわば本能的にベッドから飛び出してきた状態で、腹部の傷のことなどすっかり忘れていた。飛び出した時に無理な姿勢を取って傷口が大きく開いたのか、病院着は腹部のあたりから下は大きく鮮血に染まり、右脚を伝って床にまで及んでいた。太い針が刺入されていたのか、右腕からも流血している。
惨たらしく開いて見せた傷をぼんやりと眺めた。それでも今のnameには、流血できるほど幾日も寝入っていた自分がひたすらに情けなく、憎らしかった────心身の激痛と引き換えに、鼓動は確かに止めたつもりだったのに。対価は充分に支払ったはずなのに。
「……name。ちょっと、こっち向いてごらん」
「……ゃ」
「……酷い…やっとここ数日で塞がりはじめたのに……傷口が開いてるじゃないか。って、おっと」
「……っく」
テンゾウが壁からnameを引き剥がそうと、痩せた肩に触れた。とっさにきっとして睨むも、たったこれだけの衝撃にくらりと、崩れてゆく。まるでそこが本当の底無しの沼であるかの如く、歪に足元が沈んでいく。もう必要ないはずだった、自分の血溜まりにへたり込んだ。
……傷口が開いてたら、なんだというんだろう。酷いのは誰の仕打ち?……もうあの人は、暗闇の中で永遠に眠ったままなのに。血も涙も浮かべることも、痛みすら感じることもできないのに。
少なくない失血量に連動して加速する心拍数は、まるで忘れることを拒否するように、まざまざとこれまでの悪夢のような現実の数々を脳に放った。濁流のように混乱の渦がnameを飲み込んでゆく。
「name……ね、とりあえず、病室に戻ろう。すぐだから、運ぶ間の痛みは我慢して?話はすぐにしなくてもいいから。まず身体を」
今度はカカシがまるで小さな子供をあやすような口調で気遣ってきた。横抱きにするためだろう、カカシが伸ばしてきた腕を、反射的に振り払った。
「話すことなんて、ない──」
私が今生きていて、この人たちが今私に付けられているということは、概ねの内容を知ったのだろうから。それなのに、まだ何か要求するというのだろうか。nameの中で排泄されなかった悲しみが怒りへと腐乱してゆく。
「……name」
「……嫌っ、これ以上余計なことしないでください!……っ、最悪!」
「おい!」
「離して!……離せっ!!先輩には、なんにも、関係ないでしょ!」
「name!」
カカシから注がれる視線は今まさにいかにも忍としての威厳に満ちているように感じられて、疎ましくて憎たらしい。nameは力任せに逃れようと最後にはカカシの腕に爪を立て始めた。しかし、とうとういつものような力や俊敏さはもうない。
「name!っ、いい加減にしろ!!」
カカシが今度はがしりと強く手首を掴み、肩を抑えた。じたばたとしていたnameを力尽くで自分にまっすぐ向かわせると、いつもになく威圧感のある低い声で制止した。
ぼろぼろとnameの首まで伝う涙が、時折カカシの手を冷たく濡らした。
「ちょっと、先輩!いくら暗部の人間相手でも、これだけの怪我人に乱暴すぎますよ!それにこのままじゃ、nameの状態はまた逆戻りに」
「……はぁ」
まずい、そう予感した時には既にカカシの顔が目前だった。
内に光を溜めた真紅の瞳がほのかに悲しさに傾くと、ほんの一瞬全身が硬直した。…術中だ。初期状態の写輪眼。nameは鼓膜を揺らす写輪眼の持ち主の声色を引き寄せて確かめた。でもそれは、頭の片隅で求めていたそれとは違うものだった。
「……name、ごめん、な」
「ひど、い……」
いましがたまで悲しみと怒りに燃えていた焔は、一瞬で双眸から失われた。そこには澄んだ色の瞳だけが残された。虹彩はぐらりと上向きに消えてゆき、やがて両の瞼を閉じた。
カカシを一身に拒絶していた腕はだらりと力を失った。いつも折り目正しく閉ざされている薄い唇は僅に弛緩し、そこから力んでいた呼気が逃れた。カカシは後方にうな垂れかけた頭を支えてやり、くたりと力を失った身体を、その場に静かに寝かせた。早く止血しなければ。
「あーあ……nameちゃんはこんなに手がかかる子だったっけねえ、まったく」
「……先輩、…大丈夫ですか?」
「は?」
「……目が赤いですよ」
「そりゃ、写輪眼は赤いモンでしょーよ」
「誤魔化さなくていいですよ、こんな時まで。…じゃあ、俺は人を呼んで来ますから」
「……どいつもこいつも、一丁前に生意気になっちゃって」
場違い甚しい物言いだということは分かっている。しかし、カカシはテンゾウといつものように冗談めいた物言いでもしなければ、自分の中の何かが、極めて一部だが自分を構成する重要な何かが、今にも崩れ落ちそうだった。
いま目前で崩れかけている後輩の悲しみが、遣る瀬なさが、これまであった繋がりを最悪の形で失う痛みが、カカシにはどこか覚えがあった。
大義のために同胞を自らの手で殺さなければならなかった、窒息しそうな息苦しさを伴う無力感。その後にたった一人で、虚な世界に閉ざされて背負わされる熱傷じみた孤独。そのどれもが拭い難いことを、カカシは誰よりもその身をもって知っていた。
久々に胃の底から突き上げるような虚しさを感じた。どうにか力ずくで呑み込んだ。深い溜息の裏で、胸の奥が軋んでは、不協の響きを上げる隙間から古びた感情が漏れ出していた。