10
月の初めにnameが変わり果てた姿で発見された。俺はnameの世話係兼番犬として任命されたことで、突如として目まぐるしく進んでゆく日々から断絶された。
重だるい雰囲気が鬱蒼と包む病室にひとり留め置かれる時間。時が巡るのを久々にもてあますような感覚が、じとりと重く肌を覆った。珍しく弛緩したカカシの思考の隙間からは、ひたりと濁った追憶が漏れ出す。細波のように続く追憶に身を任せると、柄にもなく湧き出た幾筋かの涙を指の腹でぬぐった。
カカシ自身、その涙だけは誓って濁りのないつもりではあったものの、静かに乱流を続ける記憶の波の中では、それが一体誰に捧げる涙なのか、実のところ明らかにできずにいた。ゆらりとカカシの胸に嫌悪が燻り出す。できるだけ早くその落涙の湧き出し口に手を伸ばし、燻りをおさめるべく自罰の蓋をするように努めた。
最早nameの空虚は、光も闇も差し込む隙さえないような、切ないほどの曇りのない圧倒的な無だ。そこに自分の弱さ故の綻びで、無遠慮に滴る漆黒を漏らして、nameの透明な悲しみを汚してしまいたくなかった。
……時間はない、考えるんだ。明日にもnameの意識は戻るだろう。どうすれば、生きてくれる。
少しでも早く最適解を手繰り寄せようと、カカシは躊躇うことなく痛みをたどった。次は極めて計画的に、自分の記憶に深く刻まれた傷を、今も疼く痛みに沿ってまさぐっては細く裂いた。何度目かはもう分からないが、その傷が完全には開かぬように、裂け目の中は覗けるように、慎重に。陶酔するような痛みではなく、意識を保つための軋むような痛みを引き出すために。
──暗部という組織は、治外法権的側面がある。言ってみれば当たり前だ。他人の殺生与奪の最終審判を下し、時には片側の正義ですら実行するのだから。
勿論、任務の責任遺棄や組織を破滅に導く程度のことをしでかせば、即座に首が飛ぶ。そのせいか側からは一見整然とした特殊部隊に見えるようになっているのだろうが、そうではない一面がある。
地下の世界に、高難易度でない任務はない。終わる事のない重責に道半ばで打ち勝てなくなった者は、その歪みを任務と同じような強い刺激で誤魔化そうとすることもしばしばある。
酒を煽ることなど可愛いもので、薬物、倒錯的なセックスに耽溺する者も度々いる。nameをかつて苛んだ事件も、これらの成れの果ての一部だった。それでも任務が正常に遂行さえできれば、プライベートという体のいい格好で見逃されることも多い。
「……まず何が有効かより、何を避けるべきか、かな」
ここ最近のnameの日常は俺の知るところではなかったが、テンゾウ曰く変わりばえしなかったものらしいから、恐らく今危惧したような最悪の事態は避けられているはずだ。
部隊長になってからはnameの班ができたわけだが、nameの機動力も相まって、連隊を作るような大型任務へ充てがわれることが殆どで、テンゾウや夕顔達と共にすることが多かったとも聞いた。つまり、人の目の多い日々でも淡々と過ごしていた、ということだ。
今から思えば、これに並行して”単独任務”も常に遂行中だったわけだが。それでも、一度でも昼間のような状態に陥ったということは、まだ油断はできないだろう。
「カカシせんせ!」
「サクラじゃないの」
重暗く無機質な室内に、サクラの明るい声と弁当の匂いが差し込んだ。停滞していた思考が子気味良く打ち切られた。
「ああ、もうそんな時間なの。夜の回診時間か」
「それと、…じゃーん!先生のご飯も持ってきましたよっ!先生よく食べるから、二つね。今日の会議の余りですけど、高級店のだから、とっても美味しいんですよ!」
「おっ、やるじゃないの。丁度腹減ってたのよね。」
「私はnameさんを診たらまた次の方なので、気にしないで食べちゃってください。」
「はーい、ありがとね。」
弁当の入った袋を受け取り、自分以外の意識が室内に充満すると、退屈に逆方向へ巻き戻っていた時間が、一気に正方向に進み出すようだった。
「うん。…よし!傷口もこのまま癒合してくれそうですし、熱が少し上がってますが、高くなりすぎなければ今のところは大丈夫そうです。綱手様、やっぱりすごいなぁ〜」
「そ、よかった」
「まったく、カカシ先生ったら呑気なんだから」
「ま、こいつは強いから、大丈夫だよ」
「……先生。そういう積み重ねが、…昼間みたいな事態を招いたんでしょ!」
「……」
サクラの瞳がたちまち潤んでいく。こういうところが、サクラの強みであり弱点だ。生憎俺は、この涙の意味の本質を、きっと理解してやれてはいないが。
「……私は、…暗部の人達の苦労なんて知らない。分からない。……だけど、自分と殆ど歳も変わらない女の人が、一人であんなに血を浴びて帰ってきて、その後に更にこんな、っ……!」
「そーね…だけど、そういう世界なんだ。いつか、誰かが、やらなくちゃいけない。そのことは今のお前なら、少しは分かるだろ」
「……でも今は過去!今は、戦争中じゃないし、こんな若い人が…なんで…」
「均衡を保つのは綺麗事だけじゃ続かない。そして、nameにしかできないことだったんだ。だから、それを担った時点でnameは色々な覚悟を決めなきゃいけなかった。…今回は疲労して、それがとうとう少し崩れてしまった。まあ、よくあることよ」
「そんな…っ、でも!」
「サクラ。…自分のできることをやるんだ。そして、その涙が収まったらでいい。この言葉の意味を一度ゆっくり考えなさい」
頑張ってらっしゃい、と声をかけたものの、入ってきた時とは打って変わって力ない背中をドアが完全に遮って数秒、咽ぶ声がうっすらと透けて聞こえる。無理もない。近頃サクラは自分の無力感に悩んでいた上に、あいつにとって同年代の忍のここまで生々しい強烈な光景を見たのは、恐らく生まれて初めてのことだろう。
気付けば再び病室には、消えることなく積もり重なっていくような静寂が広がり、カカシは息をするために独り言ちた。
「あーあ。…nameちゃんさあ、俺の教え子まで悲しませないでちょーだいよ」
カカシの視界にわずかに長い睫毛が動くのが映った。無粋すぎる弱音を漏らした直後、まるで呼応するようなタイミングのそれに少しばかり狼狽え、静かにnameの顔を覗き込んだ。
丸く大きな瞳に沿って閉じられた瞼がゆっくりと開いた。数度ゆっくりとしばたかせたのち、俺の瞳を捉える。
「…………え」
「……name、おはよ。俺がわかる?もうすっかり夜だけど」
「……」
「まだ熱があるから、安静にしてなさいって。輸血の経過も順調だし、もう無駄な抵抗はやめなさいね」
あれこれと考え抜いてみたが、結局カカシはあえて単調で直接的な言葉を用いることにした。
ある種の賭けではあったが、横たわる絶望の深度がカカシですら心許なくなるほどの深さであるが故だ。そして、聡明なnameに付け焼き刃の言葉を投げかけても、逆効果だろうとカカシは結論付けたのだ。
「…せんぱ、……すみませんでした…昼間。あ、れ…今日…?」
かすれ気味のザラついた声が、弱弱しくカカシの鼓膜を揺らした。
「…ほらね、こうやって言うと思ってたよ」
ベッドを少しだけ起こしてやると、nameの謝罪から始まった会話。そうして心の奥深くへ誰かが進入してくることを丁重な形で拒んだことを、具にカカシは感じ取った。何を隠そう、自分の不安定だった頃も、数えきれないほど用いたやり口だ。
しかしそれは、やがて長い混迷へと繋がりかねない。カカシはnameの瞳の焦点が定まることを確かめると、至極滑らかに、次の会話にとりかかった。
「name、とにかくよかったよ。こうしてまた会話ができて。改めて久々、だーね?」
「……部隊長にもなって、お恥ずかしい限りです。こうなる可能性だってゼロではなかったことは、頭に入れていました。…それなのに」
「name、だから、こんな時までやめなさいって」
「先輩の貴重な任務枠やお時間を……!」
「あのねえ、だーから、そういうことじゃないでしょーよ」
──待てよ、何か、引っかいからないか。時間…時間は今、何時だ…?
「ねえ、name」
突然改まるように名前を呼ばれたnameは、はてと唇を薄く開けた直後、まだ微睡みを残す意識の中でも、俺の詮索を早々に勘繰ったらしく再び口を噤んだ。つくづく、優秀な奴だよ。
でも、なんにも良くないね。さすがに病床だからか、緩んでいる表情に一瞬の焦りを浮かべてくれたことだけは不幸中の幸いだ。こりゃ、確定かね。
「予定の半日近く前に意識が戻ったのは、本当によかった。俺もさすがに内心舞い上がっちゃって、危うく見逃すところだったよ」
「……」
「俺には澄ました顔をしてもダメ。何が言いたいかわかるでしょ?nameちゃんなら。…さっき言ったよね、無駄な抵抗はやめなさいって」
「別に、何も……」
俺はまだ臥床の怪我人になぜこんな捲し立てるような物言いをしているんだ。ふと、そう理性はぼんやりと囁いたが、nameを二度とこの世からとりこぼしたくなくて、四方八方からnameの逃げ場を埋めるように、醜いままの言葉を積み上げていくことを止められない。
「しょーがないねえ、解説してやろうか」
「……」
「再手術の麻酔と、その後の抗生剤の鎮静作用に、おまけにその発熱。お前の歳じゃあ、まだ強強度の薬物訓練を受けていない。そのはずなのに……」
「別に、そんなつもりじゃ」
「先輩を、舐めるなよ……イ夕チに、与えられてたのか?」
「っ、違う!それだけは…そんな物言いだけは、いくら先輩でも、許せません!」
「じゃあ、素直に言いなさいって」
「…っ、どうして…?関係ないって、言ったじゃないですか!」
「あるでしょ。…お前ね、そんなこと言って、現にこうやって」
「先輩だって、…使ってたことあるじゃないですか!前に先輩と関係のあった女性から聞きましたから!」
つい語気を強めてしまった矢先、不意にnameに虚をつかれて、思わずカカシは息を飲んだ。
そうだ、俺も混迷の中で痛みを誤魔化すために一時──因果応報とはこのこと。いや、だから、だからこそ俺は今、情けないほど焦っている。そして俺が暗部を抜けた後も、年端もいかないnameに、下らない女から下賤な圧力がかかってたと思うと……。
過去の自分を呪いながら、カカシは一先ず自己嫌悪を踏みつけて、nameの言葉にたたみかけた。
「別に私はっ、私は…そんなことにつかったことなんか……!」
「用途は二の次だ。どこで誰から手に入れたんだ、……上等な、興奮剤」
今度こそ固有名詞で決定的に暴かれ、nameはさっきまでの勢いは何処へやら、発熱だけではなさそうに紅潮した顔をすっかりうつむけてしまった。
「……」
「あの日から半月以上薬を抜いても重篤な離脱症状も見られない、それにも関わらず睡眠周期には弱くない薬品の鎮静作用を破るほど影響が残っている。使った数は……一回や二回じゃないだろ」
「……」
「黙ろうが逃げようが、また俺がお前の世話係りになった以上、地の果てまで見つけに行くから、諦めなさい」
「……っ」
管だらけの腕を精いっぱい力ませて、なにも無いはずの小さなこぶしの中に握りしめている物が知りたい。
「早く」
「……着任から、二年くらいで殆ど眠れなくなってきて……さらに時間が経って、もっと忙しくなって、それから」
みるみる尻すぼみになっていくnameの語気に、つい助け舟を出してやりたくなるが、内容が内容だ。吐かせるプロセスを飛ばすことはできない。じっとnameを見つめたまま、次の言葉を待つ。
「……その、…イ、イタチが私を見かねて、薬屋を紹介してくれて、そこで睡眠薬を貰ってるうちに、…薬を紹介されて、」
「自分で、か?」
「……は、い…」
「なんで医療班に処方を頼まなかった」
「火影様に、処方を知られるじゃないですか。…そしたら、配置を変えられそうで、…そんなの絶対に嫌、だった、から……」
行動の複雑さと危うさに反して、あまりにも稚拙な理由に思わず天を仰いで息を吐くと、今になってさっきのサクラの言葉が、戒めのようにその正しさを脳裏で響かせた。
知識や技術に経験が追いつかない十代特有の歪みは、自分もよく知っているつもりだ。たった一縷の温もりのために、任務以外の自分の身を投げ打ってしまう心情は、痛いほど理解できる。
だからこそカカシは、nameに過去の自分を見出してしまうようで、こそばゆいような、それでいてやはり纏わり付くような切なさを拭えなかった。
「ハァ。…あー、調子狂う」
「……す、すみません」
「…あのね、そういうきっかけで大体みんな薬の深みにハマっていくわけ。あんたも何年も暗部にいて何も知らないわけじゃないでしょ」
「……そう、ですね」
「……どうでも、よかった…?自分の身体なんて」
瞳に動揺の色を纏ってしまったことが、弱みを引き出されることが、誰にも自分の中で膿み続けた本分など見せたことがないnameにとって、認めがたい羞恥心を引き出した。
今ここでは自分を少しも覆い隠すことは許されない息苦しさをぴりぴりと掻痒を残す。核心を鋭く突き続けるカカシの言葉の全てに、nameはすっかり半ば強制的に身ぐるみを剥がされ、傷だらけの心身を晒して、まじまじと裸を観察されながら尋問されているような気分だった。束の間の沈黙を破ったのは、再びカカシだった。
「……name、生きていくしか、ないんだ」
nameの脳裏に色を吹き返すカカシの壮絶な過去──思えばカカシもまた、輝かしい功績の裏で、若くして一度や二度は全てを失い、人知れず苦悩していたことに違いなかった。
「…っ」
「望もうが望まなかろうが、望まれなかろうが、生き続けて行くしか、俺たち残された者には…道はないんだ」
声を上げる泣き方を知らないまま、双眸を伏したままnameは静かに落涙を続けた。灼けるような悔しさか、底無しの孤独か、いや両方がごた混ぜになり、言葉の領域を超えて口をつかないのであろう感覚をカカシはよく知っていた。
追憶の断片を引き抜くことでnameに心を寄せているうちに、再びカカシ自身の中の傷もいくらか引き攣るった。
「ま、生きてちょーだいよ」
nameの小ぶりな頭を思わず抱き寄せ、柔らかな髪を撫でれば、腕の中の嗚咽が僅かに大きくなるのを感じ、少しばかり安堵が広がる。振り返ってみればこんなに人前で泣くのを憚らないnameの姿を見たのは初めてだ。どうやら今回の賭けは功を奏したらしい。
束の間の安堵により思索の熱がいくらか冷めると、カカシは自分がいつのまにか随分と感情に任せて怪我人を詰問してしまった事実を思い出した。ひやりとした懸念が背中を伝う。
……ひとまず目を覚ましたことだし…医者を呼ばなくては。いや、待て。まるで俺がnameを泣かせたみたいじゃないか……?いや、そうか、間違いなくオレが泣かせたのか。まずい、な。
綱手に詰められることをは想像にたやすい。後輩を思えばこそと言えば聞こえがいいが、コントロールしきれなかった自分の存在をどうしても否定できそうになく、心の中で盛大に溜息をついた。ゴクリと生唾を嚥下し、ナースコールを手にする。
腕の中のnameの顔色は泣き濡れた無垢な瞳を湛えてこちらを不思議そうに眺めている。先ほどまで踏みつけていた自己嫌悪が再び膨張するのを感じながら、ここは大人しく当直の到着を待つことにした。