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Novel - Hanno | Kerry

スパークル





外にはセミの声が鳴り響いて、時々それを電車の通過音が子気味よく遮っていく。

一方でこの教室内では、大きな業務用クーラーの機械的な音と、筆記用具とテスト用紙が擦れる音だけが教室にこだまする。そんな静かな空間だから、少し遠くの踏切の降りる音まで聞こえてくる。


ようやく1学期の期末テストの最終科目、数学が終わろうとしていた。

唯一の得意科目だからそれなりに対策もできたし早めに終えることができて、すっかり気が抜けてしまった。

お気に入りの歌の歌詞も、へなちょこな落書きも問題用紙の裏に書いてみたけど、あと残り時間15分、何しよう。
そんなことを考えながら、くっと小さく身体をのばして窓の外に目を向けた。

午後になっても外は文字通り猛暑を思わせる日照りで、校庭に見えるサッカーゴールは接地点がわずかに揺らめいて見える。

うわぁ、外出たくないなあ……

先週、梅雨明けが発表される最悪のタイミングでテスト期間の幕開けとなった高3の夏。

受験の足音を感じながら、暑さをまざまざと見せつけるようなこの光景を目にして、少しばかり気が遠くなって、先日の出来事を思い出す。


カカシくん…カカシ、と付き合って1ヶ月。1年の時からの友達だったリンやオビトに初めて打ち明けた時は心配された。


……カカシはああ見えて不器用だから、不安になったら話聞くからね?ぶっきらぼうだけど、他の女子にも正直モテるしね。

……カカシのヤツ、聞いてねーぞ。つーか、特定の女を作るなんて珍しい事もあるもんだな。


それはどういう意味なのだろうかと一抹の不安を抱えながらも、二人とカカシは幼なじみだからお互いのことをきっと私よりずっとよく知ってる。今のところ悪い意味ではないらしいけど…。

実は、最初は面倒見のいいリンとカカシが付き合ってるのかと思っていたから、告白されてからここ1ヶ月間実感のなさと緊張とで呆然と過ごしてしまった。連なるように、告白された日のことが思い出された──



「ねえ、name、今日は用事ないでしょ?ちょっと来てくれない?」
「え……は、はい。どこに?」

あまりにも唐突に帰り際に下駄箱の前で私の肩を叩いたカカシくんは、そう言いながらさっさと自分の靴を取り出して校舎を出ようとする。

「なんで、"はい"なの?」
「あ、いや……深い意味はないけど、なんかまだ二人ではちゃんと喋ったことないような気がして…馴れ馴れしい、かな、…って」
「へぇ、そうなの。オビトとリンには違うのにね。俺はnameと友達になったと思ってたけど、違ったワケ」


それは去年初めて同じクラスになったからで、二人とは時間が、などとカカシの冷ややかな言葉尻に一気に張り詰めた空気に取り囲まれながら言えるはずもなかった。

もしかしたら、私は自分の気付かないところで彼の気に障ることでもしただろうか…そんなことを考えてしまうほど肌をかすめる雰囲気がピリとしている。

「そういうんじゃなくて、カカシくんはみんなの人気者だし…!私なんかが…」

私なんかが出る幕はないし、特段目立つ存在でもない私が下手に前に出て、その他の相応しいであろう誰か、に目をつけられるのも自分では到底対処できないのだから、ただ大人しくしていただけのに。

「そう。ま、ちょっと付き合ってよ」
「で、その…どこにいくの?」
「駅前の喫茶店、それならいいでしょ?」
「う、うん」

実際にはお互いに身体のどこも触れ合っていないはずなのに、カカシくんにまるで引きずられるように歩き出した。いつも少し猫背だけれど、それでも十二分に均整の取れた姿にほんの一瞬時が止まったのを感じるのも束の間、あっという間に歩いて行ってしまう。そのあとを早足で追った。

──それにしても、二人きりで喫茶店なんて急にどうしたのだろう

カカシくんと私に接点があるとすれば、オビトとリンだ。2人についての話なのだろうか……

疑問を次々と頭の中に浮かべているうちに、私はカフェのふわふわとしたソファに腰掛けていた。腕に柔らかく触れた、品のよい貝殻のプリントされたパステルカラーのクッションを手元で抱き留めると、少しだけ緊張が解けた気がした。

注文を終えても、カカシから呼び出したというのに核心に迫るわけでもなく、盗み見るように視線を向けたカカシの表情からは、まるでその心持を読み取ることはできない。心地よい店内の緩やかなBGMと、食器がこすれる穏やかな昼下がりの音色も、さながら膠着するnameとカカシの間をおざなりにする感覚を増幅させただけだった。

「えと、私、何かカカシくんにしちゃった、かな…そしたら、さ」
「今日から、彼女になって」
「えっ、えと……あ、その、どういうこと…?」

心躍らせ、今にも舞い上がるように嬉しいはずの状況なのに、あまりにも色のない声調と文脈に耳を疑うどころか第一声に真意を確かめてしまった。

よくよく考えてみれば、至極自然なことではないか。整った容姿と学年トップの成績、それを引き立てるような無駄のない落ち着いた言動。同い年とは思えないスペックで、学年どころかこの学校で、男女ともに彼に興味を持たない人はいないくらいの人気者だ。

友達も恋人も選び放題のはずの彼が、なんの前触れもなく、自分めがけて突飛なことを言ってきた。罰ゲームの類かもしくは、からかいであったとしてもおかしくはない。思わず静かにあたりを所在なく見回した。

「いや、そのままの意味だけど。……いい?ね、聞いてんの?」

…こちらは渾身の勇気でこの半ば身勝手な沈黙を破ったというのに、一掴みの焦慮すら感じさせない様子で、なんの躊躇もなく、そして唐突に、この人は私の心臓を跳ねさせるんだ。

自信に満ちた余裕の差を見せつけるような飄々とした彼の佇まいに、nameはわずかに苛立ちすら覚えていたのもつかの間、まるで心の内をはじめから知っていたかのような口ぶりと、今まで知りようもなかった強引さに、さらなる緊張状態に押しやられた。さっと指の先が冷たくなっていくのが分かる。

「ま、そういうわけで今日から送ってくから。ケーキ食べちゃいなよ。早く」

どうしてと色々なことを聞きたかったのに、先ほど目の前に運ばれてきたこんもりとクリームが乗せられたシフォンケーキを指差して、カカシくんは私に次の行動を促した。

「あと、くん付けはやめて。カカシでいいから」

ケーキを口に入れたところで息つく間もない。とりあえずこくこくと頷き、反対の意見はないと意思を示した。まだうんともすんとも具体的な返事はしてないのだけれど、今の頷きですべての答えが清算されたようだった。




喫茶店では、目の前の非現実的な視覚情報にすべての感覚を奪われているせいで、いつもは味や歯ざわりだけでなく、香りも楽しむ紅茶のシフォンケーキを頼んでいたことを今思い出したくらいだ。

もう1か月たったけど、なぜ私と付き合う気になったのか、はたまたなぜ好きなのか、何も聞けていないままだ。もしかしたら好きという感情は持たれていないのかもしれない。またひとつ、不安が頭をよぎった。

今日こそはその真意を聞いてみようと決意を固めていると、テスト期間も相まって、疲れと不安が微睡に私を引きずり込んでいく。今はこの微睡に、身を任せることにした。


カカシくん、今日は一緒に帰るのかな──


「おい、ちょっと…チャイムが鳴っても揺すっても、こんなに気付かないってどういうことなの」

誰かがゆさゆさと私の肩を揺すりながら、聞き覚えのある低くてまろやかな声が少々の苛立ちを兆して左側から落ちてくる。瞼をあげるとマスクのと銀色の前髪の間から黒い瞳があきれたように私を見つめている。

「あ、カ、カカシ…どうしたの!」

さきほどまで思考回路のほとんどを割いていた当の本人が突然目前に現れ、急いで上体を起こすと、膝を机の脚にぶつけてしまった。
両隣の席から笑い声が聞こえてくる。

…やってしまった。

「どうしたの、じゃないでしょーよ。早く、その解答用紙」
「あ…、ごめん」

まだ回りきらない思考で、すっかり腕に貼りついた解答用紙をはがしてカカシに渡してチャイムの鳴り終えた余韻が消えると、ガヤガヤとみんな思い思いに騒ぎ出す。

そうか、念願の最後の夏休みが始まるんだ。開放的な気分になり、うっかり大きく欠伸をすると、リンの綺麗な横顔が目に入って慌てて口元を抑えた。


リンみたいに明るくて可愛くて優しくて、おまけに頭もよくて、女の子の完成形みたいな子が、カカシと釣り合うのにな──


「おう、さっきの慌てっぷり、カカシの夢でも見てたのか?」
「っ、ちがうよ!」
「顔がマジすぎ。おもしれー」

ぼんやりと考えていると、ここぞとばかりにオビトが私をからかってくる。カカシと付き合ってからは、余計に何かといえばこういうこと言ってくる。

あからさまに私が嫌な顔をすると、悪かった、とまるで悪びれる様子もない一言を投げ置いた。

なら、最初から言わなきゃいいのに。帰る支度をするべくオビトを無視しながらカバンに荷物を詰めていると、リンが前の席の椅子に逆向きに腰掛けてきた。

「ね、name、今年こそ海行こうよ。高校生活最後だし!で、水着一緒に買いに行かない?今セールやってるらしいから!」
「行きたい!」
「おっ、お前ら海行くのかよ」
「お前、一つ一つの動作が痛ぇーんだよ!」
オビトの肩をゲンマが叩くように掴んで会話に割り込んでくると、ぎゃあぎゃあと一気にうるさくなる。

「name、帰るよ。」

後ろから帰り支度を終えたカカシがやってきて、私のカバンを掴んで教室の出口に向かっていこうとする。

…私とリンの約束

「えーっ。カカシ、私、今日これからnameと買い物に行きたいんだけど」
「急だし、あとでラインして他の日に決めたら?明日海に行くわけじゃないでしょ。とりあえず、今日は無理」

急とは何なのか、どの口が言うのか。いつも急なのはカカシの方ではないか。今日こそは抵抗してみせるぞ、と意を決して口を開く。

「で、でも、今日はリンが先に声かけてくれたわけだし…」
「喫茶店で言ったこともう忘れたワケ?あの日に送っていくのは”今日から"って言ったから、先なら俺でしょ」
「あ……」

カカシは顔に似合わずこうして時々駄々っ子みたいな理由で意見を押し通す所がある。あの容貌と所作であまりにも抑揚なく言うから、周りは駄々だなんて思っちゃいないだろうけど。

「はぁ、nameも大変だね…。週末までやってるし、また連絡するよ!」
「うん!本当にごめんね、リン」
「いいの。実際私も急だったし高3だし期末最終日だし、二人で楽しんで?」
「え…う、うん」


くしゃりと微笑むリンの笑顔があんまりにも可愛くて、つられて私も思わず笑顔になった。リンのこういう所が本当に大好きで、同性の私ですら魅了されてしまうくらい眩しくて、ぎゅっとリンを抱きしめた。

じゃあね、と皆に言ってカカシに振り返ると、一瞬不満そうな顔をされた気がするけれど、ひとまずクラスメイトの前でもあるから忘れることにした。



学校内では、カカシは絶対に私に触れてこない。指一本でさえも。同じように私からも。

恥ずかしいし、周囲を気にしすぎかもしれないけれど、何より付き合ってることがバレただけでも茶化されるのに、触れ合ったら次はどんな目にあうかもわからない。今まで通り、クラスメートとして友達として過ごしている。それには私も不満はなかった。


私の家よりカカシの家の方が学校から近いから、いつもカカシは家に荷物を置いてから私の家まで送ってくれる。カカシがいつも私に触れてくるのは、このカカシの家を通過した地点からだ。

そして、私もカカシも片親で、職業柄もあってなかなか家に帰ってくることがない状況だから、付き合ってからはどちらかの家に上がり込むこともあった。今日も帰り道の道中でお茶でも飲んでいけばと誘われたので、お邪魔することにした。

上がり込んでも、半分お互い知っているような今日あったできごとを話すか、宿題を終わらせるのが恒例の流れになりつつあった。

今日はどこに座ればいいのかと考えていると、高台にあるカカシの家のリビングには西に傾き始めた太陽が直接入り込んでくるから、顔を照らして眩しい。

早く自分の居場所を定めたくて、カカシの方をふみれば、マスクを顎までさげ、バッグから今しがた取り出したであろう残り少ないペットボトルの麦茶を流し込んでいた。

何回見たって綺麗な顔をしているなあと眺めてしまう。ゴクリと下がる喉仏も、荒れたところのひとつもない滑らかな肌と、華やかな顔立ちをか象る骨格、ペットボトルの飲み口越しに見える形のいい唇まで完璧な配置で、恋人として以前にどうしてか嫉妬してしまうくらい綺麗な顔をしている。

「nameの瞳の色素って薄いから、光をよく通すよね。ビー玉みたい」
「へ?」
「いや、そんなに見られたらこっちも見るでしょ」
「あ、……ごめんなさい」
「…ねぇ、どうしてそんないつも申し訳そうにしてるの?…俺のこと好きじゃない?」

唐突にカカシが斜めにいた私の腕をとって、カカシと対面するよう私を引っ張るために力を込めた。マスクを取った状態の精悍な顔がこちらをじっと見つめている。とっさのことに何の心構えもできずに、顔いっぱいに狼狽の色を濃くしてしまう。

「い、いやそんなんじゃない。そうじゃなくて……」
「今日もリンとの約束を断るとき、随分申し訳なさそうだったし、他の奴等にも声かけられてたしね。別に、無理しなくてもいいから」
「え、ちがくて、なんで……」

どうして他の人のことが絡むと、途端に私の言葉に聞く耳をもってくれないんだろう。どうしてカカシは何も心の内を言ってくれないんだろう、いつも突飛なところで感情をぶつけてはすぐに閉ざすように理由を教えてくれないんだろう。

何を考えてるか、どうすればカカシの心の底で欲しているものが分かるのか。そういえば、そもそもカカシが私を好きな理由もまだ知らない。もう告白の日からひと月にもなるのに。

未だにあの日と変わらず疑問でいっぱいの思考を持て余して、じんわりと惨めさと不安に沈み込んでいくようで、咽の奥がきゅうと締まり鼻腔の奥に刺激を感じる。こんなことで涙を流す恋なんてしたくなかった。

どうしてよりによって、人生で一番好きな人との関係性でこういうことが起こるんだろう。愛には縁遠い人生なのかな、なんて一度考えだしたら、みるみる悲しみが堰を切ったようにnameの胸を埋め尽くした。

悲しみに浸り重くなった決意だったが、今日こそは、と心に決めた確かめたいことをもう一度引き上げる。そのせいか、可愛らしくやわらかなお願いの声など到底出せそうにない。

「…っ、どうして…いつも私の言葉を聞いてくれないの?…そ、それで、カカシの気持ちも何も教えてくれないの?…っ、私のこと好きじゃないのは、カカシの方なんじゃないの?カカシのことこんなに知りたいのに…何も、何も分かんないよ…!」

──ああ、もう駄目だ。涙は一筋でも流れたら止まらなくなるのに。こんな卑怯なタイミングで泣きたくないのに

「は、今なんて言った?……ちゃんと告白したでしょ?お前に」

怒りを孕んだような言動とは裏腹に、ちらと視界に入ったカカシの表情は狼狽を浮かべていた。あのカカシも感情的になって力加減を忘れているのか、いつの間にか私を取り押さえるように腕の上部を掴んでは一度揺すった力が、痛みを覚えるほど強くなっていた。

教室にいたときはこんな顛末を迎えるつもりではなかったのに。もう止まりそうにない涙に押し出されるように、次々に尖ったままの言葉をそのまま突き刺すように吐き出してしまう。

「…っ私は、まだどうしてカカシが私のことを好きになったかも、知らないんだよ?好きって言葉も、一度も言ってもらってない。好きな人の気持ちを知りたいって思うのは、私だけなんだね…!」

もっと上手い言い方もあったのかもしれないけど、今度は自分が小さな子供のようなそぶりをしているじゃないか。そう、自分を制す言葉を並べても、nameはしゃくりあげてしまう自分の喉元を制御できないいま、当然頭が回るはずもない。

──髪が長くてよかった。手で顔を覆えば、容易にこの泣き腫らした顔をカカシに見られなくてすむのだから

そう安堵したのもつかの間、制圧されていた腕が解放されたと思った矢先、顎と頭を固定されたかと思うと、カカシの顔が私の顔に近づいてくる。

まさか、こんな状況でキスなんて、そんな核心を隠すようなところで、絶対に受け入れられない。ましてカカシからなんて。いやいやと後ずさるが、当然に力の差は歴然としている。

「…嫌っ、こんなの、やだよ、カカシっ…やめてよ──!」
「そんなに彼氏からキスされるのが嫌なの?…笑えるね」

もがくようにカカシを引きはがそうとカカシの肩を強く押すと、途中でカカシ自ら離れてくれた。


先ほどまで精悍だったカカシの双眸には、偽りのない困惑と痛ましい悲しみを湛えられていた。


「ち、違うから…話を、聞いてってば!」

こんな力ずくの手段をとって、身勝手に当てはまるのは恐らくカカシの方なのに、どうして勝手を押し通す側がそんな顔をするのだろうか。涙と恐怖まじりの焦燥感でまだ呼吸が上がったままだったが、その双眸を見ているのが耐えられずにカカシを抱きしめた。

何が言いたくて何をやっているのだろう。もう何が何だかきっとお互い分かっていないけれど、自分の愛だけはカカシに信じていて欲しかっただけなのに。

自分の呼吸を整えようとしていると、気づけばカカシの鼓動もうるさいくらい速く打ち付けているのが伝わってきた。カカシの心を代弁するようにいつの間にか項垂れていた腕が、ようやく弱々しく腰に回された。

「カカシのこと、本当に好きなのに。……人気者なのに、たまに寂しそうな顔するところも、去年までは妬むような先輩がいても仕返ししなかったり、か、かっこいいのに美人な子にもすぐなびかないところも、陰で沢山努力してることも、私と一緒にいる時間を作ってくれることも、他にもたくさん、あるのに」
「────」
「私はここにいるから、信じてよ。…もっと、カカシのことも知りたいよ」
「…………っ、悪かった」

自分の肩越しに鼻にかかった声が聞こえてくる。ハッとしてカカシの顔を覗き込むと、はらはらと声もなく泣いていた。

「え、どうして、…どうしたの……?」

どうしてカカシが泣くのか、はたまたあのカカシが泣くほどのことが、ここまでの出来事の間にいつ起きたのか皆目見当もつかず呆然としていると、再び強く抱き留められてしまい、カカシの表情は確認できなくなってしまった。

「ごめん。……愛してるから、だから一緒にいて欲しかったんだ」

たったこの短い言葉で、私の心の中の凍った部分が溶かされていく気がした。さっきまでの強引さはどこへ行ってしまったのだろうか。もう少しだけ先ほどより強くカカシを抱きしめる腕に力を入れた。

体勢の変化とともに視線が変化した瞬間、私は自分の目に飛び込んできたもので、解け出したはずの背筋が一瞬で凍りついた。

カカシの父とは、一度だけ顔を合わせたことがあった。昨年の秋にオビトとリンとカカシでバーベキューをしたときに会ったのだ。その時の穏やかな微笑みはリビング奥の和室に、黒い額縁の中で時を止めたまま供えられていた。

「う、ウソ……カカシ、こんな、なんで…お父さんのこと何も言わなかったの……」

ずっと泣きたかったのはカカシの方じゃないか。それなのに、今また泣いているのは、私だった──カカシはこの大きすぎる虚脱感をここ数か月、この広い家でたった一人でずっと抱いていたのだろうか。

あー、と緊張感のない反応を合図に、こともなさげにカカシが語り始める。


「心臓病で、急だったから。……それに、春休み中だしわざわざこんなこと聞かされても、困るでしょーよ」
「そんな…こんな時にそんな風に笑わないでよ、カカシ…」

そんな風に、はにかむ様に、困った様に──

「…リンとオビトは知ってるの」
「いや、まだ…」
「やめてって、そうやって、こんな事まで…一人で背負わないでよ。こんな、おかしいよ…カカシ」
「おかしい、そうかもね…こんなタイミングで告白して、振り回して、余計なことを背負わせちゃって」
「そうじゃないってば、…いい加減にしてよ!」

頑なにカカシが心の最深部は開いてくれないことで、もどかしさのあまりに、今度は私が彼に向かって無理やりこじ開ける様に、強引な声色で言葉を吐いてしまった。もうこれでさっきのキスのことはもう咎められないかな…こんな声色でに他者に物を言ったことは今までの人生で一度も無かったから、自分で自身にも驚いてしまった。

カカシの目を見てちゃんと言いたくて、視線を合わせようと顔を見たらそこには目を丸くしたカカシがいた。自分でも驚いたことに、カカシが驚かないわけがなかった。

少しずつ気分の落ち着きも取り戻してきて、途端に羞恥心がせり上がって、顔いっぱいに熱を帯びてくるのが分かる。


「ほ、本当にずっとに一緒にいたかったら、こういうことも言い合えなかったらきっと続かないよ?そうでしょ?私はカカシの心の痛みを全部は取ってあげられないけど、こういう時に頼られないなんて寂しすぎるよ…」


ここまで自分が感情的になることなんてなかった。心の奥底を他人にぶつけたことがないのはカカシも私もきっと同じだった。黙りこくってしまった恋人には、ついに嫌われてしまっただろうか。

すると、はぁと観念したかのようなため息を吐いたカカシは、もう一度私を抱きしめ、私の肩の上の顔にさっきより体重を乗せてきた。

「俺がnameを好きになったのは、お前が去年のバーベキューで俺の父親と身の上話をしているのを見てからだよ。あのあと少しして、気持ちに気が付いた」
「う、ん…?」

身の上話とは、私の両親も離婚しており、出張が多く一人で身の回りのやるべきことがあったり、父親との軋轢だったり、つまり私の悩み相談だ。

サクモさんの包み込むような優しい人柄に身を任せているうちに、つい当時息の詰まりそうだった寂しさや不安を吐き出してしまってしまった。

でも、その時カカシはリンとなにやら料理の仕込みをしていなかったっけ。聞いてたんだ…。

「だから、もう去年にはお前のことを好きだった」
「は…」

あんなにも心から望んだ疑問の答えを漸くいま手にしたというのに、あまりの予想外の展開が自分の思考回路を目まぐるしく通過していき、情けない返答しかできない。

少々物事の咀嚼に時間がかかってしまう。カカシが言葉を続ける。

「一見、ただ温室育ちで穏やかだと思ってお前が、そんなに孤独を知ってるなんて思いもしなかった。それなのに、相変わらずお前が学校で見せる顔はずっと明るかったから。……俺もお前みたいに、強くなりたかった」
「そう、なの…」
「あとは、その…そういう訳で、取られたくなかったから、急いだ」
「え…?」

そういう訳とはどういう訳なのだろうか。まだ少々の疑問は残るけれど、思いがけずカカシが自分の予想以上に自分を見てくれていた嬉しさと、初めて見る余裕のないカカシの顔に口元が思わずほころんでしまう。
幸い今はこの体勢のおかげで、彼のプライドやらを傷つけなくて済みそうだ。

「はぁ……ダッサ」

深いため息と同時に吐き捨てるようにそう言うと、私からそそくさと離れてソファに倒れこんでスマホを開いた。自宅内なのにマスクがいつもの位置に戻っていた違和感で、よく顔を見れば、カカシの顔も赤く染まっていた。

私はこんどは口元のほころびを隠しきれず、思わずそんなカカシのもとに近づき、マスクを取ろうと試みた。

「だーめ。」
「いつも逆に目立ってるよ?」
「今日は随分と積極的だね」

nameは今日のカカシの家に入る前の半ば怯えていた所作と今の所作との差異を思い出しだのか、今度はカカシの思惑通りまた顔を赤らめ口をつぐんでしまった。カカシの方も、いつもの調子が戻ってきたようだ。

沈みはじめだった夕日も、もうすぐその姿は地平線の向こう側だ。夜はすぐそばまで来ている。

「今日はカカシの家でお夕ご飯たべても、い、いいかな?」
「ふーん?」
「か、からかわないでって…」
「ごめん、食べよう。……一緒に」
「出かけよっか」
「ありがとう、…name。」

少しずつでいいから、君の心の重荷を分けてくれないかな。大きすぎて重すぎて分け方が分からないときは、一緒探したい。そんな願いをこめて、今度は私がカカシの手を引いた。





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