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Novel - Hanno | Kerry

ドリップ







 新緑の片陰で、今日も朝から競うように命を晒し合った。

 やわらかな肉に刃先を引くと、まだ動いたままの脈動に押し出される赤い散乱が風にそよいだ。

 読み通りに首から派手に扇を描く飛沫を掻い潜る。私の掌によく馴染んだ刃が、筋肉の繊維質の間に割り入った。刹那に到達した臓器は潰れ、次に骨を断つ無機質な感覚が指の先を舐めた。
 たちまち脳髄から再び指先まで、アドレナリンが放射状に這いまわる。意識から理性が剥がされるような痺れが走った。指先に到達する頃にはその振幅は最大に達して、均衡が崩れかける姿勢を手元の屍を押し返して立て直す。こうして断続的に理性と獣性の狭間で激しく思考が揺さぶられ、やがてその波は振り切れはじめると、痺れは鋭い快感に似た感覚にすり替わった。

 私の頬はこの時きっと緩んでいる──殺人の感覚を確かめるこの過程を抒情的にとらえられていたのは、一体何度目の任務までだっただろうか。

 命のやり取りの速度は、危うい均衡の上でなお加速し続ける。畏怖心が摩耗してしまったのか、それともその刺激的な魔性に取り憑かれているのか、そんな自分の意思さえも緊張と多忙の日々に沈んでゆく。

 季節は緑雨を迎えた。水分を多分に含んだ空気は野草を瑞々しく彩る一方で、日々不快に上昇を続ける温度と湿度が任務後の身体を疲労へと傾けた。

 皮肉にも近頃増加の一途を辿るばかりの任務量のおかげで、近頃は隊長としての職務も随分と身体になじむようになってきた。
 高ランクの任務でも身の危険を感じるレベルの局面はほとんどなくなった。私の中で、最近の任務の意味合いといえば、専ら忍術応用の試験場としてとらえているきらいがあった。

 難易度の高い状況を選び、仮説を立て、複雑な動線を描き、処理の面倒な血飛沫をいかに着衣に残さないかを基準にして陣形と術順を組む。それをどこまで見立て通りに再現できるか、という極めて単純なものだ。


 散漫と思索しながら朝曇りの空を見上げて歩いていると、何かを踏みつけた。足元を見遣ると、紫陽花が転がっていた。その薄青の花弁には、上塗りの錆色の足跡。

 先ほどの任務の遺体処理中に踏み抜いた血糊が拭いきれていないことに漸く気がついた。例え同じ里の者であっても、決して曝露は許されない任務が後に詰まっている。さっと背が冷えた。一瞬の間をおいて慎重に気配を読めば、幸い辺りに危険はないようだった。

 まろやかな半球を可憐に象るように咲き誇っていた小さな花々は、その頭をくたりと湿気た土の上に臥していた。一方で、その茎伝いには花弁のゆくすえなど素知らぬ顔で瑞々しく芽吹く葉が、誇らしげに光に満ちた朝露を空に掲げている。

 濁りのない雫が、陽光の屈折を私の瞳に当て続けた。たった一滴の輝きがやけに眩しく瞳孔の狭窄を押し広げては、煩わしく鋭い頭痛を走らせた。

 まだ脈には焦りが溶けている。差し当たり、痛みの根を探るより早く毟り取った。

 まだ瑞々しさを残すその青葉で、宿主を無くして色を失い始めた血液を今度こそ丁重に拭い、既に同じ色に沈んでいる花弁の隣で指を脱力させた。
 
 機動力を用いる主要な、つまり殺しの任務を終えれば、早々に緩慢とするようになった。
 自分の擦り切れた感覚に辟易として、錆色の隣で唇を噛み締めた。今しがたまで身体中を駆け巡っていたアドレナリンの濃度は冷めた思考が、すっかり下げていた。

 次第に眠気と疲労で重怠い感覚だけが肉体に残されてゆく。
 深く息を吐いて身体を引き上げると、今日最後の極秘任務、イタチへの物資補給と情報共有へと歩を進めた。



 川沿いを基準にしばらく進んでいると、対岸の向こうには崖が少しずつその背丈を伸ばした。
 景色は一見して一様なようでいて、崖を造る岩々はどれもばらつきがあってマーキングを残しやすい。つまり、身内には認識しやすい一方で秘匿性を保ちやすく、潜伏に最適の立地だ。

 岩壁にたまに開く洞窟のある入り口を入って数歩、広い空間沿いに口を開いた分岐路の一つに入った。

昼にかけてじっとりと湿度を上げていく不快な外気が随分と薄まり、細く冷ややかな空気が肩をかすめた。さらに歩みを進めれば、再び空気の温度がわずかに高くなるのを感じた。今回落ち合う場が近い。

 浅く安堵の溜息を吐いたのち、反射的に肺に注がれた空気の残り香が鼻腔をかすめた。

 ここ一帯の地層は、これほどに金属質を含むものだっただろうか。

 ほんの僅かだが、金属臭が織り込まれている──いや、違う。これは、擦れた鉄の匂い。

 前線で戦い続け、幾度頭から浴びても慣れることはない。鼻腔から軽やかに脳髄に浸潤しては心身を陰鬱の池に重く沈める臭い。そうだ、血の臭いだ。

 何か近い時間に激しい交戦があったのだろうか。それでも、イ夕チは血を吸うような大きさの剣は持ち歩かないはずだし、実力的にも返り血を浴びるような局面にはそうそうなり得ないはずだ。それならばいっそ、負傷だろうか。でも一体、誰ならばそんなことが。脳裏には絶え間なく憶測が膨らんでは弾けて不快だ。

 イタチは複雑な局面ほどその俊才を発揮する。選択肢に対して常に的確な優先順位を付け、鮮やかに実行の判断を下していく。
 そうこうしているうちに彼自身の日常は、営みの配列の途方もなく後方に置かれてしまった。本人は何事もなく日常を営んでいるつもりらしいが、それが近頃随分遠くまで離れている。幾度か進言しても核心はかわすばかりで、いつまでも一人肩を張り続けるイ夕チの言葉が私の鼓膜に蘇ると、無力感が引き出された。

 あれこれと思案しているうちに、再び分岐路に出会った。結界の前に敷かれた幻術を破れば、その奥に小部屋のような空間が設えてあるはずで、そこが今日の宿だ。事もなくイタチの結界を確認し、入り口を入ると、途端に私の心持ちは安寧の空気に凭れかかった。

 入り口で汚れた装束や装備を取りまとめながら、間仕切りの奥の方を見やると、どうやら暗く調光されている。また瞳術の使用による不調だろうか。胸中に不穏の狼煙がくゆった。
 それでもすぐそばにあるイタチの気配を手にしたくて、まだ細やかだった警鐘の硝煙から逃げるように、私は間仕切りに手を伸ばした。



 やわらかな入り口の照明が見下ろす私の影の先、暗闇の中でさらに深い黒の陰影が、ゆらと蠢いた。

 堰を切ったように激しい呼吸音と嗚咽の残響が鼓膜に切り込む。次いで鼻腔を突き上げたのは、先ほどまで周りに満ちていた、生命が肉体から分離した時の臭いと同じだった。

 唐突に目前に現れた不協の光景を拒絶できないことを本能的に察すると、仕切りに添えられていた私の腕はいつの間に支えを失ったようだった。
 立ちすくんでいれば、通路灯の残渣が隙間なく溜め込まれていた暗闇を次第に溶かし始めた。その暖かな色合いとは裏腹に、暗闇に沈んでいた酷薄の色を照らし出した。


 一つの崩壊を示唆するような鮮烈な赤が、暗闇に微睡んでいた視界を殴りつけた。

 薬袋は粗雑に裂かれ、鎮痛剤は口に運ばれる寸手のところでその機会を失ったらしい雰囲気を湛えている。
 力なく折られた膝、その隣で開かれた指先は赤黒い色を宿していて、その赤は次第に筋張った腕伝いから、胸板にかけて赤の明度を上げていた。
 青白い肌色、異常な発汗、何かを抑え込むようにはくはくと浅く呼吸をする口元はすでに血染めだった。

 今イタチの瞳に、私は映っているのだろうか。

 疲弊していた思考回路にたった一瞬で次々と崩壊の奔流が押し寄せた。脆くなった思考の筋が次第にひとすじずつ焼き切れてゆく。
 冷え切った指先に力を込めて硬直する喉の奥をできるだけ制し、紡ぐ言葉はを選び取れないまま、震える唇を無機質な空気に滑らせた。

「なに、してるの……」
「……っ、は」

 不安定に上下する肩はただ浅い息を繰り出すだけで、イタチは一向に言葉を結べそうにない。
 いつの間にか滲み始めた焦点を恐る恐る正すと、滑らかな肌の上で冷や汗と流血が混沌とうごめいて、時折小さな反射が悪趣味な貴石のようにきらめいた。

 不穏な眩しさから目を逸らすようにりんかくを捉えた。いつも通り端正なままで血色を失っていて、赤がよく映えていた。


 私がたとえ幾人の内臓を突き、骨を断とうが情勢は変わりやしない。どれほど重厚な内容の任務をどんなに迅速にこなそうとも、寧ろこなすほどに、確信が削がれては無力さとなり私自身に深く刻みつけられた。

 何も背負えず、ただ鬱蒼とする均衡の歪みの一端をを食むことしかできない。その上唯一のツーマンセルであり旧知の恋人は自分の知りえぬところで、おそらく取り返しのつかないところまでその身を削いでいる。

 嵩高に積み重なっていた小さな無力感は、今では獣めいて、とうとう腹の底を裂き始めているようだった。

「ねえ!……イ夕チ」

 叩きつけるような語調に、赤い光を露出した双眸が静かに私を射抜いた。

 時が止まったように感じていたのも束の間、急速に不可逆の喪失の始まりである映像が目前で再生された。

 すでに十分に赤く染め上げられた形の良い口角の左側から、再びの出血か残渣なのか、見紛うほどの血液がそろそろと細く零れ落ちた。

「……た、い」
「……え?」

 破られた薬袋を今一度確認してみれば、徐放性の鎮痛薬だ。ということは、もう通常の鎮痛剤では、彼の痛みは取り除けないところまで来ていたらしかった。思い至らずとも必然だった。
 一族、如いては国をその背一つで背負い、悲しみと憎しみとを全てを呑み、それでも虚心を揺るがしはしない。幼くして自ら足枷と濡れ衣の磔となる道を選び、またその救世主めいた道を行く聡明さに恵まれていた。だが、イタチの生体機能は、やはり徐々に、そして確実に削がれていたのだ。

 恨めしいほど残酷な平等が私たちの足元に転がっていた。

 ようやく小手先の術だけでも渡り合えるようになったと思えば、自分の与り知らぬところで、今度はいよいよ梵我を等しくしようとしている。別れの陰影が、これまでになく色濃く私の脳裏を覆った。

 重苦しく残酷であっても枷がなければ繋ぎ止められない儚さから、今すぐ立ち去って欲しい。たとえ真似事だけの儀式だったとしても、たとえ穢すことでしか繋ぎ止められなくても。

 焼き切れた思考回路に呪いめいた祈りだけが残った。

 差し当たりイタチの口から首元、胸まで滴る枷のように纏わりつく赤を手すがらに引き千切りたかった。

「……まるで奴隷、だね」
 
 痛みの本懐を打ち明けてもらえなかった無力感、それでもそこから透けて見えるのは、イタチの歪なほどの無垢な優しさの一片であること。決して拭いきれない過去と、これから残された未来はきっと避けられないこと。

 激しく逡巡する思考の奔流のなかで、さながら瓦礫に縋るように掴んだ私の言葉の端々には、きっと醜く怒りが滴っている。

 だけれど、抑圧と興奮の両極に振り切られた理性のなかで、崩れ行く最愛の人を面前に差し出された今、有限の正しさなど何の意味を成すというのだろうか。

 ただ目の前で手の届かぬ聖域へと密かに運命の手に引かれて行くイタチを、この手元に引き戻すために、目の前で零れ落ちていく残り時間を、たった一片でも多くイタチへと押し戻すために、必要だと思った。

 胸元の赤を掴む手は粗くぶれたが、そのまま赤く濡れた下顎を拭うように食み、唇まで滑らせた。

「……っは、お、まえ!」

 イタチはこの状況に不釣り合いなほど強い力で私の肩に掴みかかった。だが、浅い呼吸の上に再びいくつか深く咳き込んだせいで、イタチの拒絶は失敗に終わった。

 咳嗽の残響に、崩壊の感覚を拒絶していた私のシナプスはすっかり刺激されて、再びむせ返るような鉄の匂いが私の鼻腔に立ち込めた。

 息を継ぐ間もなく、先ほどまでこの手で人肉を犯し壊していた感覚と、今目前で崩れんばかりの愛しい肉体に触れる感覚が溶け合いはじめた。

 曖昧になりつつある意識の中で、嫌悪感がたちまち焦燥に姿を変えていた。

 差し詰めまだここでイタチが時間を消費している実感をこの手で何度でも確かめたかった。広がり続ける冷や汗と痛みで体温を失った頬に、震える手を添えた。痛みに緩んだ唇へと舌を押し込んだ。

 イ夕チの舌を伝い、ほろ苦い鉄とほのかに甘みを帯びた体液がどろと口内に流れ込んでくる。イタチの内臓から漏出する命の汁は、凄惨に擂り砕かれ摩耗しているようで、思うより滑らかに喉を押し上り、抵抗なく口内に流れ着いた。
 たちまち私の口内でも保ちきれ無い量に到達したので飲み下した。痛みに散漫に移ろうイ夕チの双眸に、急速に焦燥かもしくは怒りに似た色が引き戻された。

「……く、吐きだせ!」
「……っ、やだ」
「いい加減に、っ……!」

 ぬらりと赤く艶めく武骨な右手が私の輪郭を掴んで、乱暴に揺らした。イタチは私の慟哭の兆しを捉えると、口元に指を差し入れようと試みた。

 積み上がった悲しみと慕情に圧し固められた喉奥のせいで、上擦ったままの抵抗の声を盾にその手をかわすと、次の咳嗽で、ついにイタチの上体が支えを失うまま私に凭れた。

 耳元でイタチの呼吸が二度、三度とかすめた後、私の肩にじわりと温い感覚が広がり、やがて流れ落ちてゆく。
 鼻腔がつんと収縮するのと同時にイタチを抱きしめれば、心音と呼吸音が私の身体に伝播した。
 
「……っ、暖かいね、イタチ」
「っく……」

 冷たい汗と血に滲んだ薄い頬に、涙に濡れた自分の頬をすり寄せれば、滑らかに傾いた。そのままたどり着いたイタチの口元から再びその呼吸を確かめた。転がっていたボトルの残りを口に含み、イタチの口内へ押し出すと激しく咳き込んだが、もう継続的な出血は無いようだった。
 ささやかな抵抗のごとく返事の音を刻まなかったはずのイタチの舌が、私の口内にザラつく感触を残した。高い鼻梁の間に深く彫られた双眸が、一瞬怯えと慈しみに揺れた。

 長い睫毛が羽を休めるように翳を落とし、穏やかに瞼が閉じられた。
 
 はっとした。昏倒後の窒息は早い。イタチの唇を指の先で割り開き、舌の位置を正して回復体位へとその身体を整えた。ひとつの呼吸をおいて、疲労の果てに散漫と弛緩した自分の身体もその横に臥した。

 目前に広がった水たまり、血だまり。

 そこに伏して私と向かい合うイタチの瞼の先にも、一滴の雫が通路灯を頼りなく反射していた。

 



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