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Novel - Hanno | Kerry

ブルートパーズ




 うっすらと瞳にやわらかな白を感じる──朝まで任務だったからもう正午も過ぎているだろう。時間を確認しようと、疲れた朝の寝起きの重みを瞼に感じながらゆっくりと開いた。

 光とほのかな風にそよぎ、ふわふわと柔和に揺らぐ銀髪にすっかり視線を奪われた。自分を包むすべてがあまりにも穏やかで、あたたかい一日の始まりを感じる。


「起きたの。おはよ」


 まだ少しぼんやりとする視界の端にふわふわと漂う銀糸。やわらかな髪とは相対的な偉丈夫そうな後姿がふとこちらを見返った。


「おはよう」


 穏やかな空気と愛しい人の気配に包まれながら、起きかけのけだるさの残る身体をできるだけ伸ばすと、朝方までまとっていた血腥ささえ忘れてしまえた。


「今朝は随分と激しかったみたいじゃない。大丈夫?」
「想定外なことも起きたけど、それでも疲れたで済むなんて、ありがたい話よ」
「そうね。よかった……朝ごはんは冷蔵庫にあるから、ちゃんと食べなさいよ」
「ありがと」


 彫の深い双眸が細めて微笑んだ。端正な横顔が再び書斎に向かうのを眺めながら、遅い朝食を採りにリビングへと向かった。

 長身痩躯にふさわしい細く長い指が筆記具を美しく握り、さらさらと筆を走らせる。一方で、眼差しは今しがた私に与えてくれたそれとは異なる鋭気をたたえ、存分にその端正な輪郭を際立たせている。
 机には忍術の応用書をいくつも従えていたから、新術開発か敵忍に対する自分の仮定を検証するべくそれらをなぞっていたところだろう。カカシの手元に広げられていたノートには、ここ数か月の間、もともと無い時間を割いては机に向かい続け、緻密に書きあげられられた数多の術式たち。

 暗部、上忍と最前線で長く務めてきた忍者の手とは思えないすべらかな手と、普段の気の抜けた容貌からは想像しがたい真剣な面持ちで難解な忍術を読み解く姿を想い出し、この人の隣に居られることに得も言われぬ心地よさがこみあげてくると、思わず笑みがこぼれた。

 カカシ先輩、いや今はカカシと呼んでいるこの人は、里の誉、天才忍者、さまざまな異名を持っている。伝統的な忍の名家の出身ではないにもかかわらず、才能にも体格にも恵まれた彼は、幼いころから数えきれないほどの名誉を欲しいがままにしてきた。

 天才と謳われる者は往々にして、大衆からその輝かしい功績のほぼすべてを、さながら我にも無く才能や幸運、つまりただ神に愛された人物と定義するきらいがあると感じる。

 人々は腹の底では認めたくはないのかもしれない。眩しすぎる天賦の才として垣間見えるそれとは裏腹の、まばゆいばかりの光明の陰で途方もなく意図的に積み上げられた、血のにじむような、もしくは地味で愚直な日々を濃密に重ねていることまでは。

 こうして光と影を強烈に放つカカシが過ごす日々を共にできることが欠けがえのないことに思えて、そんな孤高の境地で生き抜くカカシが愛おしくてたまらなくなった。
 こんな風に恋人への想いを一人でかみしめる時間も悪くないものだと、自然と微笑みを浮かべれるようになった自分に新たな一面を見出しながら、温めた朝食をテーブルに並べた。箸をとり、ほんのり湯気のたつ椀を取る。


「どうしたの?ひとりでにやついちゃってさ」
「っ、人の寝起きに気配を消さないっ!」


 背中に自分より少し高い体温を感じた瞬間、右肩に重みを感じた。この穏やかな場に不釣り合いな妖艶な低音が耳元で囁いた。つぎの瞬間には揺れた左の手と太ももにさらなる高温を感じて、はっと思った時には少し遅かった。


「あっつ……!」


想い人に一人ほくそ笑む一部始終を見られてしまったのかと、思わず動揺を隠すことすら忘れてしまった。


「あらら、こぼしちゃったね」
「あららって…カカシが、驚かすから!」
「はいはい、ごめんごめーん」


 ポンと私の頭に手をのせて、あははと気の抜けた声で笑う猫背をさらに丸くかがめて、タオルを取る背中を眺めた。

 こんな人だったかな、なんて過去の深沈とした”カカシ先輩”の背中を重ねた。あの時を思えば、こんな子供じみたいたずらをしてくるカカシを見れるんだから、と許してしまう自分がいた。こんな彼のことも、他人にこんな感情を向ける自分がいることも知れたのは、この人の地道な背中を知れたからかもしれない。

 ベッドルームでも横目に見た、長い銀糸の睫毛を湛えた双眸と鼻梁をみせる横顔。見慣れたはずの景色なのに、カカシが私の濡れた太ももをタオルで押さえるのを半ば見惚れながら眺めていると、先ほどのことが気になった。


「さっきのは、新術開発中?」
「ま、そんなとこ。いつまでも写輪眼に頼ってるつもりじゃあ限界なんてすぐ来ちゃうからね。優秀な奴は次々と出てくるし。…例えば、オマエみたいに」


 ああそうだ、この人を愛した理由はここにあったんだ。常に追われる立場で命を削って、決して消えることのない陰と代償に当たり前に向き合って、穏やかに微笑むんだ。


「なーに、照れちゃってんの?」
「そうじゃなくて……」
「……え?本気で言ってるのよ?」
「ちが……カカシ…死なないでね……大好きだから」


 今度は私に不意に抱きつかれたカカシが瞳を大きくしていた。


「ちょっと、どうしちゃったの……任務でなにかあったなら言いなさいよ」
「っ、それは私のセリフだよ!」
「あらら…今度は泣いちゃったの。こんな泣き虫じゃなかったよね、子供の頃は」


 微かにカカシの耳元で漏らしてしまった嗚咽を、彼が聞き逃すはずもなく、ぐいと私の肩を掴み顔を覗き込んで、まるで赤ん坊をあやすようにそう言った。


「そんなにオレのことが好きなんて、なぁに、嬉しいじゃないの」
「本気で言ってるんだよ!」


 全く余裕のない反論する私とは裏腹に、のんびりとありがとうねとカカシは言った。再び私の両肩は温かな体温に包まれる。思わず私も腕に力を籠めた。それも束の間、カカシの腕はほどかれてしまった。

 なにやらごそごそとポケットをまさぐっている。水を差された気がして、少しばかり主張してやろうとカカシの背に回した腕を解こうとした。ぐい、と左の手のひらだけを引かれ、自宅の中なのになぜか仰々しく指を絡め手をつなぐ形になっていた。


「ね、いつもありがと」


 相変わらずカカシは私の肩に頭を乗せ、独り言ちるかのようにぼそとそう言うと、そのまま微動だにしない。今度こそ、と空いた右手でカカシの肩を押し返してみると、ほんのりと赤く染まったカカシの顔がそこにあった。


「…え?」


 あまり見られない光景にあっけにとられていると、どうやら私の指にひんやりとした感覚が広がっているようだ。
 せっかくカカシの視界の中に私の表情をおさめることができたのに、先ほど計画した主張の内容などすっかりどこかへ追いやられてしまっていた。


「……これ」


 煌めく淡青色の輝きが私の視界を彩った。

 カカシの頬にほのかに差す淡い赤色と自分の指に宿された澄みきった淡い青色に思考回路を染められて、息をのむことしかできないでいる。


「お前、欲しいもののひとつも言わないし……ありきたりかもしれないけど、まずは、ね」
「ありが、とう……」


 もっと可愛らしくロマンチックな表情と言葉がふさわしかったかもしれない。でも、年頃なのに、なんて周りに揶揄されるくらい欲しい物なんて元から少ない私には、それこそありきたりな言葉しか持ち合わせていなかった。
 カカシといられたらそれだけでよかったから。本当にただそれだけで、深く考えたりする必要がないくらい満ち足りていた。

 お互いに裏と表として最前線で戦う立場である以上、明日突然に残り時間が断たれることだって充分にあり得る。そのことをこれまで身をもって学んできたのは、カカシも私も、同じだった。だから、ともに時間を過ごせるだけで、本当に十分だった。


「カカシの顔が!……赤い!」
「こら、大人をからかわない!コレ、早く食べなよ」
「あ……ごめんごめん。いただきます――って、私ももう大人だってば」


 はてさて、どっちが先に仕掛けてきたんだっけなどと、いつも通りカカシに丸め込まれてしまった気がしたけど、きっと今日の私はきっと充実の表情をしている。

 冷めかかった朝食に手をとり、再び書斎に戻るカカシの表情を一瞥すると、まだ少し赤みのさす頬は満足げにほころんでいるようだった。


 さあ今日はどんなふうに過ごそうか、そんなことを考えながら食事を口元へ運ぶと、ブルートパーズが優しく私を照らしていた。



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