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Novel - Hanno | Kerry

アンチ・フラジャイル 2

以下ご注意を
※夢主に家系設定
※悟の出自、母に推定捏造
※呪術界捏造設定あり







 日の光が反射されて、規則正しく並ぶ街並み。そう感じるのは、いつもより高い位置で開ける視界のせいだろう。でも、退屈だ。

 目下、初夏の大通り沿い。爛れるような熱波の中でも、陽炎のむこうまで人々がひしめく。夏の幕開けを告げる祭りにふさわしい光景だ。

 人、呪い、人、呪い。特に祭りなんかでは、どちらも同じ位置でみなこちらを覗く。悟にとっては凡庸以外のなにものでもない日常のうちの一瞬だ。

 それがたとえ白馬の上で、神の使いの稚児として奉られていたとしても、いま悟の六眼にひと筋映る異質以外は、いつも通りの喧噪だった。

「坊ちゃん、給水しますか?さっきから呼吸が浅いですよ」
「いや、いい」

 目を離すわけにはいかなかった。一定の揺らめきから外れるように、金魚が数匹ばかり白い生地に泳いでいる。そして帯と、いかにもやわらかそうに結われた髪に揺れる飾りの色は、身体の深いところまで根を張る鮮烈な赤。

 数多の視線が悟を放射状に囲み、躊躇いなく貫く。気だるげな嘆息も、すぐに喧騒に上塗られた。
 縋るような視線から連なるシャッター音は、祭囃子さえ遮るように幾重にも重なり鳴り響く。

 その片隅で光が動いた。透明な何かが。太陽を透いた瞳は、透明な光を帯びて悟の方を向いた。

 ずきり、悟の瞼の裏にちいさな稲妻が走る。晴天の空の下、正午に向かう眩しさに目を瞑った。
 防壁となる色素が欠乏した悟の瞳は、強い日差しにすぐに疲労する。

 光の中ではただ見たいものを見ることすらままならいのに、六眼というものはどうやらこの世界で、随分と重宝するようだった。

 下唇を噛むと走るぴりとした痛みを合図に、戻した視線の端で小さく上下する肩。

 少女の右手はすでに母親らしき女性の左手の中だ。次の瞬きを急いで切り上げると、雑踏の中にすでに沈んでいく。

 まぶしさに白む視界のもどかしさを不意に奥歯で噛み締める。またこめかみが痛んだ。



 ようやく終着点の社殿に到着して、日程を終える。まずは休息にと屋内にまねかれて、ほどなくしてのことだった。

 敷居をまたぐと、視界の中央に一直線の廊下が抜ける。ただ広い檜の板がつらなる廊下を対称に、畳敷きの部屋が並ぶ。

 前髪伝いに梁の間を風がそよぐのを感じると、すぐにわかった。ぼんやりと睫毛を揺らす少女。そして隣には少女の母親だ。

 それは間違えなく先ほど通りで見物客の一員だったはずの少女と、付き添いの女性はやはり母親のようで、その隣で身体を横たえている。歳の頃は同じか、すこし下くらいだろうか。

 その他大勢に等しく、呪力のない一般人であるはずの少女の肉体に経絡する未知の、いや母親以来の流れ。

 呪力のようでいて、決定的な異質。華奢な身体を覆うように、ベールのような異形の力。色のない力を纏う肉体、切なさの既視感。
 
鈴の鳴る様な声が空間にただようと、少女は悟に背をむける。

「name」

 悟の鼓膜を低い音が逆なでる。父親にしては幾分よそよそしく、それでいてその音は間違いなく少女の名前だ。視線を移すと、声の主には見覚えがあった。

 並居る名家の立候補者の中から、悟を今年の生き稚児として推挙したひとり。この社殿の主だ。

「おじさま」
「よかった。落ち着いたようだね」

 目前の居室で、ブランケットが小さく上下する。

 穏やかな時間が流れるのに、なぜか悟の胸の内が沸き立つように熱を帯びる。呪いに囲まれたときより熾烈な焦燥。

 逃れようと踵を進めようとすると、あのちいさな稲妻がまた視界にきらめいた。あの色のない経絡に触れれば、また凪ぐのだろうか、この昂りは。

「決まりだ」

 今度は悟の掠れた声が小さく漏れる。まだあの大人の男のような完全な厚みを湛えてはいない。

 けれども、生まれながらにして呪術界の、御三家の当主として、完璧な六眼と相伝とを抱き合わせて生まれた男子。そんな悟の声は、何よりも明確な価値を宿す。

 だから千年の時を重ねた祭の最中だろうと、その祭りの中央で神の使いの真似事として奉られていても、ただ群衆の中からnameを見出せさえすればいい。

 そして事実、あの大路で自らの影にnameをおさめてから、壮大なこの社殿の主人が、つまりnameの母親の家系が、神職であることを確信に変えるまで、数時間とかからなかった。

 nameの母方が直系として宮司を担う全国の総本社であり、神事の要所。

 神事、つまり呪術界と一般社会との均衡を見張り、制御を司る家系と五条家とは、近くなくとも遠すぎず、お互いに補完し合うところがあった。

 代々神職の家系の血を継ぐこと、それは六眼を担う異質で強力な呪力系統を持つ悟にも、肉体的拒絶反応を起こさない肉体である可能性を意味する。悟の母に唯一欠けていたもの。

 呪力と双対するような透明な力をもちながら、自己を保ち続け、他者を受容し続けた母。人知れず、強き者でいること。


 肩から背中へと重くのしかかる伝統の装束から解放されると、脳裏に泡のように浮かぶ暖かな感覚。

 やわらかな温もりでも身体の深いところまで溶けていくような感覚。微睡みながら、『悟』と呼ばれたあの時間だけは、いまも鮮やかに蘇る。

 母の胸に抱かれている間は、たとえ自己の体中に流れる呪力が禍々しい色を帯びていても、日に日に術式が全身に深く根を張っていっても、自分という存在が保たれ、浄化されていった。

 その瞬間だけは、この世界と境界線なく自らの鼓動を穏やかに聞いていられた。

 そんな日々を重ねて、母は死んだ。

 安らぎの中で、悟が相伝の術式をその身体に克明に刻み、肉体が最適化されていくたびに、そばにいた母の大量の呪力と、母に根付く未知の力を相殺し続けて。

 それはまるで、ほんの些細なひび割れた器から水がこぼれ落ちるように。

 この世に悟を産み落としてから、失われはじめた世界の均衡から少しずつ滑り落ちるように、優しかった母の息は細く曖昧になり、やがて絶えた。

 奇しくも、呪力に相当するようなこの力の存在は、母の死によって明らかにされた。
 六眼を相伝した悟を生み、一定以上の術式や呪力に晒される術者を保護する力。未知の力をこの世界にしらせた。

 その天秤のもう一方には死をもって、悟へ、そして今後の五条家への恒久的な守護をもたらした。完璧な母だった。

 母の死後から、水面下で守護役をさがしまわる家の動向は異様ささえあった。あらゆる子女を調べあげては値踏みをする。そんな様子を横目にしながら、その日は訪れた。ただの夏祭りのうちのひととき。

 次期当主としての務めを果たすためにすぐにnameを家に呼んだ。捕らえる代わりに、真実を捧げよう、そう決めた。

 だから、手はじめにあの日のうちにnameの処女を奪った。

 初潮も迎えないnameの薄い腹に収まらないほど、感じたことのない感覚をただ貪っては吐き出す。

 抱き竦めればすぐに壊れてしまいそうな肩を抱いて、くちづけだけで首筋まで紅潮させる羞恥が、涙に変わってもさらに焼き付ける。

 それでも少女は、nameは、まるで母のような体温を腕に宿して、背に腕を伸ばした。温もりに身体が竦む。



 あの時と同じ感覚だ。いま、明確に噛み締めるこの感情の名前を知ってしまったこと以外は。

 だけど、悟にとっては変わらずただのつがいでしかない。この十二年もの間ずっと、変わらずに。

 そんなこと分かりきっているのに、いつからか未練がましくたまの温もりに似たこの通例儀式を待ちわびている自分がたまらなく惨めだった。

「俺はね、その目が好きなんだよ」

 悟の指がnameの顎先を掴んで、下瞼だけ歪ませた瞳で視線を捉える。

 青い光を透き通して影さえ見せずに、それでいて心のうちは閉ざしたままだ。

 それでも、今日こそはnameもこのまま服従するわけにはいかない。もうとうに抱えきれないほど膨張して、裂傷から漏れる血液みたいに、思いは無秩序に流れ出ていく。

「さ、さわらないで」
「自分の役割をちゃんと分かってるってその目が。あー、大丈夫、まだ僕しか知らないから」

 コレ、と子気味よくところどころ銀紙のひしゃげた薬包を弾く指先は、いかにもnameをあざ笑うかのように軽やかだ。

 指先につままれたブリスターパックの色とりどりの中身を見て、nameの表情はたちまち蒼白に固まった。

「なにも、わざわざ去年の末から飲まなくてもね。どおりでいくら種付けしても孕まないわけだ」
「……最低」
「なんにせよ、うちの人に知られたら大ごとだよ?」

 実際は、血の気が引く思いがした。一方で、高専を含めて長く過ごしているのだから、いつか見つかってしまう。そう予感する脳裏に、ほんの少しばかり悟の表情が硬直することを夢想した。するとnameの心の内側がすこし暖かぃ緩んだ。

 それでも目の前の悟といえば、子供をあやすみたいに少しの焦りも見せない。だからもう、止められなかった。

 悟自身の義務に意義を唱える勇敢さを少しも持てないまま、狡猾さだけが自分に巣食っていく。黒い嫌悪だけがnameの胸を染めていく気がした。

 だけど、どうやらnameだけに植え付けられる悟の痛みに似た制圧の意味を、確かめたかった。

 胸を裂くほど鋭い切なさのままで、これからも愛を模していくことが耐えがたいほどに、悟が好きだった。

「っ、ばかにしないで!」

 渇いた音と、ぱり、と薬包の落ちる軽い音がした。nameの手のひらに衝撃が重く残る。
 咄嗟に視線をあげると悟の明るい色の瞳の奥深くが暗く翳る。

「あ、ごめんなさ……っ」

 手をあげながら、ぽろぽろと頬を水滴が伝う。でも、もうその理由さえ掬いとる余白はnameの思考に残されていない。

 胸の内に押し寄せる感情の色は、すでに濁ってしまっていて、もとの姿はわからない。

「なぁ、もっと酷くしてもいいんだよ。俺は。でも」

 一度首筋をまたぐように添えられた悟の大きな手が、断たれるようにnameの前髪に触れる寸前でかわされる。

「っ、わたしは……つがい、だから?」

 嗚咽で引きつった喉元から、当て付けるように絞り出す。

 視界が滲んでもわかる悟の怒りがいま、またnameの胸を締め付ける。

 言葉をもたつかせていると、nameの足元から悟が馬乗りになれば、ここからひしゃげたシーツに手首を縫い留めるまで少しもかからない。

「そう。お前は俺のつがい、だからこんなの飲んだって無駄」
「っ!もう、嫌なの……どいて!」

 これまでになく噛みつくように吐き捨てて、悟の腕を押し返す細い腕。

 ほどなくして押し返すどころか、さらにスプリングに沈み込むことになるけれど。

「おまえ、この期に及んで……っ」

 それでもじたばたと悟の下で抵抗を試みると、悟の口を吐いた言葉がnameを効率的に威圧する。

「どいたら?どこかに行って、一生逃げ切れると思うわけ?この家から」
「そんなこと……!」

 nameの存在を、意志を、思い知らせるように、手首をきつく掴み揺さぶる。

 nameの泣き濡れた双眸から透明な雫が零れ落ちると、悟の心がさっと冷えていく。

 とっさに引いた掌の下、nameの手首には悟の制圧のあとがべったりと痛みの赤を超えて、青黒く色付いている。
 背に冷たいものを感じながら、心のどこかがほどけていく心地もする。気が付けば、悟自らに渦巻く不均衡を見つめていた。

「なんで飲んだわけ」

 疲労した身体にまかせると、子供のようにnameは咽ぶまま言う。

「悟が……」
「分からない」
「好きだから。もう疲れたの。っ、全部……邪魔だってわかってる、から」
「……は」

 悟の語尾が小さく震える。怒りのような、怯えるような。

「お前さ、誰に何言ってるか、分かってんの?」
「だ、だから!」

 諦めるようにnameから放たれた言葉は、無秩序な質量となって悟の内側まで侵食していく。

 あの日、痛々しいほど細い腕で悟にすがりついた腕から伝った温もり。もう二度と手に入らないはずの充足。ぐらぐらと悟の奥深くで凝っていた何かが揺らぎだす。

「……やめてくれ」

 言い淀むnameに悟の声が揺れる。目下の小さな身体は、手首だけじゃない。嗚咽だけで呼吸する喉にだって、悟自身でつけた赤い痕が十分に鮮やかだ。

 苦し気に悟が狼狽する。怒りも悲しみも、色彩と引き換えに抜け落ちてしまった双眸。

 表向きの強さも取り払ってしまえば、今日も空虚に輝く。

「いや、誰が許したって俺が許さない」

 nameだけが知っている、六眼はいつでも煌めいて、悟の核心に巣食う虚ろささえ沈めてしまう。悟でさえ知らない、圧倒的な青の果て。

「母さんを死なせて、つがいを言い訳に、未だ幼かったお前を手籠にして、こんなところに閉じ込めて、それなのに、俺は」
「悟」

 悟の指先がnameの方を向きながら、小さく空を切る。そこにnameの指先が触れる。

 いつも暖かいはずの悟の手のひらは凍ってしまいそうだ。しっかりと手を繋ぎなおすと、悟がnameを覆うように崩れる。

 すっぽりとnameを抱きすくめると、まだ強ばったnameの肩越しに、悟の力んだ声はひび割れ、崩れていく。

「俺はお前を、愛しているっていうのか」

 nameの息が詰まる。鼓動がうるさい。悟から流れ込む感情はいつもとうてい咀嚼しきれない。

 nameの視線の端、こめかみの横で、取りもどしかけの感情を握り直すように、悟が掌をきつく結ぶ。もうその中にnameの温もりはない。

「君を、nameを選んだのは、そう決めたのは、ほかでもない俺だ。家の人間じゃない」
「え……?」

 nameの擦り切れた心に、堰を切って漏れ出した悟の感情が、みずみずしくひりつく。

「本当に偶然だった。だから、そんなこと……許されるわけないだろう。でもどうだ、調べてみるとnameのすべてが完璧に必然を繕えるに足りてしまったんだ」

 悟の身体にnameの体温が穏やかに染みていく。焼けつくような体温も、快楽でさえも、浸透しない領域に何かがかよっていく。

 悟の内で一気に融解された感情が濁流となって口をついて苦しい。

「それなのに、そんな偶然でお前を俺の元にずっと縛り付けて、道具でしかなかった母さんの温もりはこの家でもう俺しか知らないのに、それなのに……っ」

 nameの心が震える。位置を高くした陽ざしを受けて、色のない髪がきらきらと揺れる。
 
「お前のことが、好きだ、なんて」


 ただ、誰にも、悟自身ですらなおざりにしていた悟の核心が、いまnameの目の前で剥き出しに晒されている。

 切なさにしてはあまりに鋭利で、慟哭にしてはあまりに曖昧な。
 贖罪にしてはあまりに痛ましく、怯えにしてはあまりに無防備な。

「っ……許されるわけないだろう」
「悟」

 柔らかな声が鼓膜をゆらすと、気が付いたようにnameを見た。疲労を残した表情は、あの炎天下の日のままだ。それでいて大人びていくnameは、またどこかに消えてしまいそうだ。

「悟のお母さんはどんな人だった?」

 肺の奥で、悟の呼吸がつかえる。逃げ場をうしなった鼓動は、ドクドクと打ち付ける。

 胸の内から触れたことのない感覚が吹き上がる。いや、とうてい自らでは触れられなかったのかもしれない。腹の奥底から喉元を押し広げて、何かがせり上がる。

「悟の好きな色は?好きな場所はどこ」

 nameの声を除いて静寂が充満した部屋に、水滴が潰える音がひとつ、ふたつ、ささやかに響く。

「悟の夢は何」

 制圧の色に染めたnameの手首が、悟の頬にのびる。小さく後ずさると、少し低い体温が悟の頬を包む。柔らかな温もり。

 頬の感覚に戸惑う悟の瞳は、やがて全てを明け渡すように弛緩していく。

「悟の一番悲しかった日は?嬉しかった日も知りたい」
「私はまだ、悟のことをなにも」
「name、俺は」

 言葉を忘れたように、代わりに悟の指先がnameの髪に触れる。

「俺は、お前を」

 限りある貴石のかけらをかき集めるように、そしてその形を留めていられるように。髪の滑らかさを、肌の柔らかさを、輪郭を、nameという存在を確かめる。応じるように、nameの腕は悟の背をさする。

 自らの輪郭を取り戻していく。ただ生まれたままの、名前もない、変えられない何かを手繰り寄せ、掴んだ。

 カーテンの隙間のむこう、陽炎は燃えたままでも、日がやわらかく傾きだした。正午、白んでいた景色たちが影と色とを取り戻す。自分たちの、ありのままの。




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