アンチ・フラジャイル 1
※五条家、夢主ともに捏造設定が多分に含まれますのでご注意ください
いつしか透けるようなその白い髪も、肌も、抜けるような青い瞳も、悟が纏うすべてが嫌いだった。
「初めて会ってから何年になるかな」
「え……あ、十一年」
「そう、十二年目」
この世界の表と裏のはざま、つまりちょうど真ん中に生まれ落ちた。人間どころか、呪いの視線まで恣にする瞳を持ちながら。
悟の、相伝のつがい、という肩書きだけがnameを覆い、その覆いの中だけでは悟との繋がりが保たれる。
冬の早朝、日の光はよわくnameの脳内には空白が広がっていく。
まだ位置の低いオレンジ色の朝日を透いても、目の前の瞳の青は濁りを見せない。
ブランケットが右肩から滑り落ちる。朝の乾いた空気が肌を冷たく覆った。
「おめでとう、ございます……当主様」
「そっちも、ご苦労さま。お務め」
弛んだ口元に反して、悟の下瞼にほんの一筋苛立ちが走る。古びたペンキ装のひび割れみたいに。
「当主」と、思いの外強調することになってしまった語尾のあとにすぐnameの視線は所在なく揺れる。
けれど、nameの視線の感触などいつも気める様子はない。全てを飲み込むような目元の青は、今日も大きく波打つ前に凪いだ。
悟の形なき怒りを回避した、そう予感して肩の力が抜けると、途端に肌寒い空気が肺を満たした。その感触に反して、nameの胸の奥まで凍えさせるほどに。
「……う、そ」
下腹の奥底に自分の体温より高い熱を感じる。身体に伝う感覚に、小さくnameの肩が跳ねる。上体をおこせば、刺すような痛みが腰に走る。どろりとした感覚が内腿に広がっていく。
「どうする?name」
「なに、これ……」
「なにって、最近のname、気をやっても締め付けるから、良くてね。一つずつ遡ろうか?」
「や、やめて!」
くつくつと笑う声が鼓膜を転がり落ちていく。nameの意識の輪郭をたちまち明確に切り出して、酷薄な現実を焼きつけるように響く。
この関係において、主導権はいつだって悟の気まぐれによって決まる。
そもそも、思えば「選定」だって、nameの意思を汲むそぶりなど片時も見せなかった。認識した頃にはすでに完了していたのだから。
小学生最後の、または、六眼の番として内定した初めての夏休み。何も知らずにあの広大な敷居の敷居を跨ぐ頃には、既にすべての手続きが滞りなく済んでいた。
ただの通りすがりだった。毎年名家の子息が引き継ぐ例大祭の稚児。白馬の上とその目下、雑踏の中の一人の子ども。異なる立ち位置は、決して交わることはない。
だから、はじめから五条家の人間からすればnameの意向、まして本懐など知る必要のないこと。そんなことはあの日から分かりきっていたのに。
それでもnameの胸に灯る淡い思いは消えないどころか、ひとりでに焦燥としてこげついて、爛れていく気がする。
動揺に暮れたnameの双眸と、緊張で色をなくしていく表情。nameを目下に盗み見ながら、悟は視線を与えずに駄目押しに言う。
「悠長にながめてるだけでいいの?もう腹ん中僕のでいっぱいだけど」
「ひど……い」
「酷い?ねぇ、それ僕の目を見て言えることなの」
「だって……い、いきなりどうして、っ」
いま自分にもたらされた状況を整理しようとも思考はもたついたままだ。いくら番といえど、初潮を迎えてからはむしろ進んで避妊具を手にするような態度だった。そこから唐突に、いま自分の中に吐き出されたものは怒りなのだろうか。
そもそも、時折nameだけに剥き出しになる枯渇することのない悟の感情の源はなんだったのだろうか。たどれどいつからだったか分からない。怒りにしては色褪せていて、孤独にしてはいつも熾烈な熱を帯びている。
「……」
「どう、して」
悟と今自分がなぜここにいるのか。この見え透いた自問自答はもう何回目だろうか。自分の役割は分かり切っている。悟を癒し、いつか後継者を産み落とすため。
そう反芻するたびすべてを封じられたのに、自分の体内に根付く高い体温にnameの心は裂けていく。
そうだ、あの日もただ息がしたかった。体に篭もる熱から逃れたくて、とにかく雑踏の向こう側の、広い景色が見える方に進んだ。
だけど、どうしてあのとき、あの場所で、母の手を離れてまで打ち水の染みる小道ではなく、眩しい晴天の大通りを選んでしまったのだろうか。
何度目かわからない、答えのない問いが脳裏を占める。
京都四条通りにごった返す見物客。例年より早い夏の到来は、まだ背丈の低い身体の体力を容易に奪った。
浴衣の内側に堆積される温度は、さらに雑踏の熱気に封じられて、しだいに足取りは重くなった。まるで、深く黒い沼地に足を踏み入れてしまったように。
ただ地面を踏みぬくような感覚に、もたつく足元はやがてもつれて動かなくなった。
快晴を誇るような輝きの下で、くたりと座り込む。手をついた先は、日光をふんだんに吸収したアスファルト。内に含んだ熱をnameの肌に容赦なく吹き返した。
一呼吸したかしないか、身体から熱が遮断された。威圧的な熱線から自分を傘のように覆うのは、影だ。
影の差す方へと視線を上げた。
日差しを後ろから受けた少年。光をまとったような髪と、空をくりぬいたような瞳がきらめく。すっぽりとnameの身体を覆うように影を止めた主。ただ綺麗だと思った。
影のほとりで呼吸を戻すと、喉元でつかえていた気がした呼吸が、再び体内をまためぐる心地がする。
ありがとう、と言いかけたところでnameは言いあぐねる。
この少年が立ち止まったのは、果たして自分のためなのだろうかと。まして、こちらを見つめてこそいても、少しも表情は崩れない。
よく考えれば、長い行脚行列一行がたまたま止まる位置だったのかもしれない。
言葉を喉元でもたつかせていると、母の声に注意を引き戻される。次に元の位置を見やれば、また頭上には煌々とした太陽が照りつけた。視界を占めるのは往来する人々と、たまに見える馬や神輿を引く人々の足だけだった。
母も母の一族も、五条家相手ではなす術もないし、はじめから反抗する理由もなかったのだろう。
それから少しして、母親に手を引かれるまま見知らぬ門をくぐった。呪術界きっての名家、御三家にうたわれる五条本家が設えた、広大な敷地を閉ざす門構え。
荘厳な外観の目前で、母に唐突に抱きしめられた。いつもよりゆっくりと愛を囁く声は、どこか身体の深いところの音色をしていた。
これまでにもあったような食事会だと聞かされていた。
いつもより横顔ばかり見える母の表情が心なしか深いこと以外、特段の異変を疑う余地はなかった。
nameの母の実家は由緒正しく、一方で、優秀でもいわゆる一般家庭の出の父と結婚を許すような柔軟な家だったから、様々な人との交流も盛んだった。
いつものとおり知らない大人たちの談話の中で、暖かな視線を一身に受ける。たまに庭から通り抜ける風を頬に感じる時間が好きだった。
だから今日も柔らかな風に導かれる視線の先で、庭を彩る草花を眺めるはずだった。
目先で開いたままのふすまの先には、祭りで見かけた、あの白馬の上の白い少年。
そしてその少年と自分以外、みなnameの両親か、さらにそれよりも年長の人間ばかりが並び、座っている。
少年の親戚や付き人だろうか。そして、おそらくこの場に張り詰める空気は硬く緊張の感触を残している。
「お母さん……ほかに、お友達は、いないの?」
「今日はね。いないのよ」
母の横顔から目先の居間に目をやると、こんどは少年も同時にnameを見る。
この世から抜け落ちた、それでいて何かを象徴するような出立ち。やわらかく調光された照明の下で、少年の異質さが明らかになった。
nameを取り囲む色彩までが、急速に色褪せていく気がした。
しかし躊躇う余地は見過ごされて、室内から手招きが見えた。母に手を引かれ、手入れの行き届いた沓摺を跨ぐ。
たとえ色のない世界でも、目を合わせてはいけない。いつまでも色を手放さない、あの美しい青い瞳だけは覗いてはいけない。そうnameは直感した。
いつのまにかnameを褒めそやす大人たちの声が値踏みの熱を孕むと、少年の声によってぴしゃりと断たれた。
少年の形のよい唇から繰り出された言葉は、最も効率的にnameの胸を深いところまで刺しぬくため、鋭さを湛えていた。
「お前、見えてるだろ。それから、もう祓ったこともある」
老年の男数人が感嘆の声を上げる。
「……ち、がう」
「なにが」
「し、知らない……な、に」
焦燥に似た感覚にnameの胸は怯えに染まって浅い呼吸を繰り返す。少年の口角が固く結ばれる。だれにも知られるはずのなかった心の内側まで、見知らぬ人の前でこじ開けられてしまった。まして、あの日たった一度だけ視線を奪われただけのこの少年に。
「悟様、初対面のお嬢様に少々お言葉が──」
つぎに、女性が声を上げる。悟様、とこの少年を呼ぶには不釣り合いな敬称で呼ぶのは、少年よりはるかに年老いた女性だ。nameが女性に縋る視線を向ける前に、悟と呼ばれる少年がnameの正面に立っていた。
「じゃあ、今日はうちに来い」
「どうして」
しまった、そう兆した時にはその瞳の奥底に蠢く異形がいまにも飲みこもうとこちらを向いた気がした。
正確には、ただ正面に立っているだけだ。それなのに、身体に冷たい感覚が流れ込んでくる気がする。竦む内腿は引き攣りながらやがてがくがくと揺れる。
これまでたったひとりで胸に秘めてきた真っ黒な扉を、ほぼ初対面の少年、そして何より母にまでのぞかれてしまったようで恐ろしい。指先、手足から全身へと冷たいものが伝播していく感触に抗おうと、踵をわずかに後方に擦る。
「ほらね」
「あ……やめ、て」
会話と足取りごとに、面前で小さく列をなして座る人々から感嘆の声があがる。
いくつか小さく後ずさると母の体温を背に受けた。見上げた表情は決定的に色を失っている。nameの肩に置かれた母の手が力んだ。
「大丈夫よname。悟くんも、きっと初めて会って緊張しているだけだから」
母の声は脳裏であわく反響するばかりで、いつものような安堵の暖かさを帯びる前にきえてしまった。
だれにもいえなかった。変な子だなんて思われたくなかったから。それに、初めて呪いや式神を見たときからずっと自分のどこかがおかしくなってしまったと思っていたから。
それなのに、矢継ぎ早に得体のしれない感覚と言葉とが押し寄せても、ここまでひた隠しにしてきた事実を掬いあげられ、どこか認められた気さえしている。
「言う気がないならいい。お前は俺の器だから」
「う、うつわ……?」
「本当になにも分からねえのかよ」
言葉と心情と、チグハグな方向へと引き延ばされて、張り裂けそうだった。とにかく、今日これから一緒に過ごすというのはいくらなんでも急すぎる。
理解の境界線をゆうに超えた事態の連続に、手当たり次第に言葉をさがす。そしてそれがnameの口をついた瞬間、遮る母の言葉に焦燥がやどる。
「あ、あなたのお母さんは?……こんなこと、いいって言っているの」
「name!それは」
一瞬の空白を噛み締めたままニヤリと口角を上げると、悟と呼ばれた少年は迷いなく言葉を連ねた。
「ハァ?……母さんなら、死んだけど。とっくに」
悟の双眸はこともなげにnameのほうを向く。するとnameの心はふたたび怯えに沈んでいく。
nameを包囲するように隙間なく張られた静寂にではない。
その静寂越しに見えた、少年のまなざしに。視線の奥で、母の死さえ掌握したような彼の孤高に。恐怖に漏れ出し始めている畏怖に。
ぴったりと肌に沿うように隙間なく伝う静寂。それは、ときに形のない怒りや拒絶の色を孕んだ執着に性質を変えながら、愛以外の感触のまま、あの日からずっと、悟とnameの間に張られたままだ。