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Novel - Hanno | Kerry

サナトリウム

※ご注意事項※
ハピエンですが、原作軸悟の死亡と死亡捏造表現有り












 夏の景色を見ていると、まるで夢の中のようだと思う。このサナトリウムに入院してからというものの、気が付いたときには驟雨の季節はとうに過ぎていた。
 盛夏の日差しは位置高く、あらゆる色彩から影という影をほぼ刈り取る。視界を隙間なく塗りつぶすのは暴力的な青と、その紺碧から脱落するように白い縁取りで抜ける雲。
 目の前に広がる景色の色彩は、網膜に焼きつくような剥き出しの鮮烈を抱いている。まるでこの世界があらゆる影の存在を忘れてしまったかのように。
 夏を閉じ込めたみたいに景色を縁どるサナトリウムのバルコニー。私はここで、人知れず思い出を循環するだけの肉塊へと陳腐化していった。
 濁りのない色がひしめきあう夏の街。それでも日差しはなお強く降り注ぐ。競うような輝きに膨張していくばかりの色たちは、互いを照らしながら色彩を奪い合って、やがてハレーションして白い霞に沈んでいった。光の霧の向こう側だけで喧騒が軽やかに笑った。秩序に満ちた病室には静寂ばかりが堆積する。
 思えば夏はいつもこうだった。レースカーテンにも満たない薄霞のすぐ向こうにあるのに、あの色彩の一部に私はなれない。触れることすらできないまま、夏はいつもわたしを置き去りにしていく。
 いつかのあの人みたいだと思った。光の下にうまれて、光の中でたった一人死んでいった人。
 歩むたびに輝きを増す彼の軌跡はこの世界の闇を浮き彫りにした。彼の灯す光は消えることを知らずに、光はつどい、しだいに燃えるように輝いた。その明るさは彼の影の一切を認めるそぶりも見せずに、私の目の前で彼だけを焼き尽くした。

 私は前世らしき記憶を取り戻した。らしき、というのは、この世界の物理法則で考えれば、私の脳に突如として湧き立つこの種のストーリーは非科学的で、ひどい妄想に違いない。そもそも前世という概念自体が人類の論理から逸脱しているし、おまけに一連の記憶を自称するイメージを発露したタイミングといえば、任務失敗の真っ最中だった。任務は合成薬物の違法製造組織を解体することだったから、私自身ですらこの記憶を一度、いや幾度も検証するより先に疑ってみたりもした。
 それでも溺れるような情報量と連続性、くらむような解像度はやけに感情の感触まで伴っていた。
 しかし、だ。端から見ればいかにもこのサナトリウムに収容されるに相応しい症状だ。まがりにも正気を保ってこの世界に生まれ育ってきたのだから、それくらいは分かる。
 呪術について言えば、いまこの同名の国にも呪術の歴史はある。しかし国家での術師の使役や呪力に値するエネルギー物質の認定はない。秘密裏にも。というか、呪力なんてエネルギーは幸か不幸かこの世界には見当たらないし、ほぼ確実にない。現状で無いのだから語る必要もなかったのが不幸中の幸いだと思った。

 なぜこんなことを確信できるかといえば、私は通称公安部ゼロ課、つまりこの国の秘匿組織に勤務しているからだ。何の因果か、私は現世でもこの世界の表と裏との狭間で生きる道を選んでいた。
 現世では随分と恵まれた家庭に生まれることができた。愛情深く明るい母と、不器用でも暖かい警視総監まで昇りつめた父。完璧な両親だった。中等部時代に些細なことから父の役職がこの国の秩序の裏理事官であると知ることとなった。すべてはそこからだったような気がする。でも特段理由がなくとも、頼もしい親の背中に憧れるというのはとても自然なことだとも思う。大学学部で国一を取得したときに一度、そして次に公安に異動した時点で父に狙いを悟られ、その夜には母から実家に連れ戻されて、非番の日をまるまる使って反対の意を泣きつかれたけど。でも結局、ひとり娘の私が公安の最深部まですすむことを許してくれた。
 私はこの呪いのない輝かしい世界で、間違いなく自由と光の下に生まれることができた。それなのに、こうして再びこの世界の影を構成する情報の一つ一つを知る立場になった。
 メインとなる任務では主にこの社会に巣食う影の構成要素をどう明かして、対処していくかの諜報、分析、工作を指揮していく。だから結局、いまも光と影、その境界線の最も暗い色につつまれて昼も夜も過ごしている。帳の中で過ごしていたあの頃も、こんな景色だった気がする。夏という季節は。
 術師はもしかしなくとも一般人よりも生きる時間の中で夜を占める割合が大きかったと思う。昼も夜も夏も冬も、帳という夜を模した檻の中で日々を過ごすのだから。
 空や海の色を思い出したころにいつも夏は終わり、色褪せた時ばかりを過ごしていた気がする。それでも問題はなかった。色褪せた景色でも皆で分け合えたから。彩度の欠いた景色たちに何度だって帰ってくることができた。だから、この影のない輝きの季節に特段暗く苦い思い出ばかりが広がっていたわけではない。むしろ、ただ何も無かったのだ。
 特段の思い出のない景色は、いつまでも実感を伴わない。ただフレームの上を滑っていくばかりの美しく整えられた世界と、それを俯瞰する観客のように、時間だけがひとりでに進んで私の上を過ぎ去っていく。
 昏睡状態に陥った脳は無秩序に記憶を励起するのか、かつての日々の思い出を私は現世の走馬灯を巻き戻すついでに思い出したようだった。

 ゼロ課での着任以来、初めての任務失敗。年始の諜報活動の疲労のせいか、帰省した直後なのにいつまでもやけにどこかに帰りたかった。それが自宅なのか実家なのかはいまも分からないけれど。そしてほんの一瞬隙が生まれた。
 あっという間に危機は内臓を切り裂き、喉を逆なでる血液はほんのりと冷たかった。異物を排除するような深い嗚咽を吐き尽くすと、反射的な呼吸は急激に酸素をかき集めて身体から漏れ出していく命を繋ぎ止めようとした。そうして、どうやら眠りから覚めるはずのなかった、どこともなく私に紐づいていた記憶の残骸まで呼び起こしてしまったらしい。
 すでに肉体も限界だというのに、この世界しか知らなかった私からすれば、いわば他人の一生分の記憶が濁流のように流れこんでは意識を保つ術もなかった。最悪の二文字をなぞる前に思考回路は焼き切れた。
 その後およそ二週間ほど眠って記憶域は整えられたのか、走馬灯と地続きらしい前世は、ピースの端と端とを少しも欠くことなく、いまも私の中で保たれ続けている。
 目が覚めて私が私を取り戻すと、当然私の日常からは任務という劇薬は奪われていて、休暇という空白を与えられた。空白は私を安らぎとしてでなく真空のように包んで、どうも上手く息ができない。だから減圧症で酸素を貪るダイバーみたいに、膨大な思い出に溺れるように浸ることが最近の日課となっている。
 両親が大切に育ててくれたものに、自分で望んで傷を受けたようなものだった気もする。それなのに、私の視軸が再び光をとらえた途端、何も言わず私を胸に抱いてくれた父と母。
 そんな慈愛に満ちた腕の中でもなお、この夢想に限りなく近い思い出ばかりを反芻していた。それどころか、大切な思い出を誰にも奪わせまいと、ついぞ今日まで打ち明けられずにいる。
 亡霊みたいだと思った。自分の選んだ道を進んでも、途切れることのない温もりをうけても、帰る場所に帰ってもなお、私はまだ何かを探し続けている。

「やあ、お久しぶり」

 考えるよりも先に肩が跳ねて息が詰まる。思考を遮断するには十分な音量だった。鼓膜を透過したその声に、聞き覚えがあった。今日から加わるのは、新しい主治医だというのに。
 胸に浮かぶ形のない輪郭はもう鮮明だ。それなのに、飢え続けた指先でなぞりながら確信は掴めないままでいる。震えそうになる声は、硬直する舌の根でできるかぎり整えた。

「次の回診は、夕方からでは。どなたですか」
「聞いたでしょ。身体は良くなってきたから、今日からはメンタルがメイン」
「あ……あの、人の話聞いてます?」
「……ああ、すみません。じゃあ、質問を変えましょうか」

 二歩と少し。男が切り返した呼吸音は小さくとも浅くなっていくのが分かる。足音は、対象との距離や体躯だけではなく、ときに心情さえ宿す情報源となる。情報量としては十分だ。
 随分と長身らしい男は、居室のドアからバルコニーに座る私の方へと距離を詰めた。そしてきっと、今聞いた声色通りの期待と、それとは裏腹の同量の躊躇も広い胸いっぱいに秘めながら。
 職業病もここまでくると大概だと思うけれど、ほぼ無意識に状況を算出するこのノイズめいた理性だけが、いまはかろうじて私を保っている気がする。

「どうして振り向かないの。公安の最前線の人間が、どなたですか、なんて聞きながら」
「あ、あの。あなた、私のお父さん、誰だか知ってます?」

 核心に息をひそめると、背中に温もりが広がってすぐに小さく揺れた。やがてくつくつとした笑い声がバルコニーに響くと、海岸の歓声と共鳴した。私の胸が高鳴る。
 きっと私はこの温もりをもう振り払えない。胸に浮かぶ充足が、何物にも変え難いことを否定できやしない。
 いつからか父の柔らかな眼差しが、母の暖かい腕が私を包むたび、私の欠点を明らかにされていくような気がしていた。
 その後ろめたさから背を向けるように、背を向けたことも悟られないよう、日の下でいて光の差さない場所へと行きたかった。そうしてたどり着いたのがこの公安ゼロ課だった。ようやく息ができた気がした。

「あはは。せっかく辺鄙な医局に入ったのに、警視総監様直々に懲戒令は勘弁してほしいなあ」
「……っ」
「ボクの調査能力に免じてさ。いいでしょ?」
「五条、悟」

 だらりと視界にうなだれてきたネームプレートの氏名欄にそう書いてあった。所属には『東京警察病院』と書かれているから、このサナトリウムの医師会とは別の所属であり、名前の通り便宜上警察病院から秘匿保持のために私の元へと派遣されてきた、特務員用の精神科医であることに違いなかった。
 視線を斜め上にずらすと、また白い髪に青い目を携えて、あの日みたいな自信に満ちた顔がこちらを見下ろしている。今日はすでに下瞼がほんの少し赤く色付いているけれど。
 高鳴りはいつのまにか胸を裂きそうなほどばくばくと乱れて、乱暴に胸に打ち付ける。予想だにしない状況とはいえ、いまだにこれほど動揺してしまうことがあるのかと悔しささえ滲んだ。そんなことは取るに足らないことのように、この男は言葉を紡ぐ。多分、絶対に。

「……ただいま、だったかな。久しぶりじゃなくて」
「……お、おかえり?」
「え、僕本当にヤバいやつになってない?」

 背中に馴染みかけた体温がさっと離れた。すると、私を視界の一番開けた真ん中に据えるように、次はしゃがんだ悟がこちらを見上げた。いまの視線は本気で私の感情と記憶とを確かめている動きだ。相変わらず色素のない髪はよく光を通してきれいだった。
 こころなしか冷えた背を感じて、気が付けば指先がのびていた。離れてしまった体温にもう一度浸りたくて。今度こそこの手で引き戻したくて。
 あの日、反転術式の領域が届かないまま跡形もなく光そのものになっていった手のひらに、腕に、輪郭に、戸惑いにこわばる頬に触れる。
 あの墜落してゆけそうな青空のような瞳は、じっと見つめてる癖があるはずだ。だからまだもう少し、見定められそうにないけど。

「は、はは……よかった。よかった……反応薄すぎて、本気で焦った」
「ねぇ、どうやって」
「どうやら、今回は立場が逆みたいだね、name」
「悟、だから!」
「まさか君が公安勤めで、僕が特殊部隊員の専門医になるなんてね」

 悟が立ち上がると、短いはずの影にでもすっぽりと収まることができた。青天の下でぽつりぽつりと大粒の滴が頭上に沈む。潮騒のすきまに、悟の苦し気な嗚咽が密かに息づく。震える胸はあの日より少し薄い。絶対的な欠落が満たされていく。苦しいほどの充足に身体が軋むようだ。

「嘘みたいだと思わない?夏の景色って」

 悟の腕の力が少し強くなる。初めて見る景色に怯える子供がしがみつくみたいに。見上げてみれば、横顔。涙の筋に潤う頬を強ばらせて、ふり絞るようにして言った。

「前はこんな風に見えなかったからかな。見ようとも思わなかったか」

 悟の視線の先には、さっきまでひとり私が眺めていた空と水平線が広がる。鋭ささえ湛えていた日差しは今はすこし傾いて、バルコニーに投影される影はいつのまにかやわらかく面積を増やしている。
 悟のつくる影から立ち上がるのは少し惜しいけれど、ハレーションから取り戻された色を湛えた景色が広がった。白衣の肩越しに、うず高い雲が刻一刻と青空にのびている。穏やかな波面は光をうけてどこまでもきらきらと輝いて、視界の端では緑がたまに風にそよぐ。バルコニーから下を覗き込めば、夏季休暇を楽しむ人々の装いが思い思いに色付いている。

「悟から見た景色は、どんなだったの」

 あの世界で最後の景色が、この世界で最初の景色が、少しでも光と影以外のやわらかな色に満ちていたのなら。そう思った。悟の呼吸が一拍詰まる。

「悟の行きたいところはどこ」

 悟のいなくなった後の世界でも、やがて冬は明けて春は芽吹き、夏が照ってまた秋が巡った。
 私の心で暗い色を深める影をあざ笑うように、酷薄なほど世界は色褪せなかった。
 悟の残した世界は、悟の望み通りに穏やかに鮮やかにまわり続けた。私に巣食う暗い色は積もるばかりでも、抱えきれないほどの色を遺されたから、少しも取りこぼしたくなかった。貪るように前を向いた。
 彼の望んだ世界を見届けられるなら、例え私の心のどこかが潰れてしまっても、もう悲しみさえいらなかった。

「じゃあまず、nameのこれまでを教えて。それにここら辺は綺麗だし、君のお気に入りの場所を教えてよ」

 だけど願うなら、今度はこの季節、抱えきれなかった鮮烈さも、手放しがたい影も、できる限りの時を分かち合いたい。
 もう呪いが結ぶことはない不確かでいて色彩に満ちた領域へ、あの夏空の下へと、もう一度このサナトリウムから歩み出していきたい。





”サナトリウム:Sanatoriumという言葉は従来からあったsanitarium(保養所)と「健康」を意味するラテン語のsanitasの部分を科学的な治療に、手当の意味を付け加えていることを強調するため、「治る」という意味の動詞sanoに置き換えることで作られた造語である。” Wikipedia より一部引用

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