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Novel - Hanno | Kerry

リトルエデン



※夏がお好きな方は閲覧ご注意ください







 晩冬の夜の学校はとても静かだ。まして、山間部に位置して学年も末の日暮れ。人気はおろか枯葉の音すらとうにきえて、あらゆる生き物が深く眠る季節。

 不規則な蛍光灯と緩慢とした暖房器具の音がかすかに空間を揺らすだけの静寂は、すぐに滑らかな追想をnameに促した。
 
 悟の知り合いが呪詛師となったことを耳にしたのは、nameが二年生に上がってからだった。

 どのタイミングだったのか、どうしてそうなったのかは知らないままだ。「だけど、そこから悟は変わった」そう言う夜蛾学長と、その隣で相槌を打つ家入さんの声色は、とても穏やかだった。

 nameの脳裏で再生されるのは、抑揚のない声を波立たせる、異質な声音。位置の高い音にnameの視線が上向く。
ドア越しのさらに向こう、通話先の音声が悟の間延びした相槌のつぎに途切れた。

 白いすりガラスの飾り窓に、影が浮いてはゆらめく。するとすぐに廊下の薄暗い静寂を破る音が空間を小さく裂いた。
 くしゃりと銀紙がひしゃげる音と、薄いビニールが剥がされる音。

 最近の悟がよく食べているものはほぼ決まっていた。とくに間食の始めと終わりに食べるのは、一律に整えられた純白の四角い包みのチョコレートか、アクリル絵の具で塗りつぶしたみたいな包みの、カラフルなロリポップ。決まってこの二つのどちらかだ。
 たびたびnameもそのうちの一つを分け与えられたが、ロリポップだけはいつも悟の手の内だ。

 ささくれたドアの木枠がnameの指先を掠めた。

「先生、戻りました」
「はーい」

 さっきと同じ間延びした声、そしてすぐに職員室には静寂が積もっていく。返答を合図に入室すると、やはり悟ひとりだけが佇んでいた。

「早いね、さすがname」
「ありがとうございます。すみません、明日の迎えでもよかったのに」
「いやぁ、かわいい教え子があれからずっと頑張ってるのに、そういうわけにも行かないでしょ」

 nameの手元の書面の束を悟の右手が攫う。資料の返却と報告書の提出、その分量を除けばいつも通りの流れだ。

「よし、いよいよ今日でこの任務はこれで終わり。本当にがんばったね」

 悟の顔一面を満たす、紛れもなく穏やかな表情。拒絶も受容もしない、薄膜めいて、しかし剥離する隙間なく、綿密に張りめぐらされた柔らかな笑み。
 先生、そう口をつくはずの音は喉元に出る直前で飲み込んだ。
 どこにも息を詰めるような要素はない。言葉を継げない理由を自分でも掴めないまま、nameの踵はひとりでに元来た場所へと帰ろうと後ずさる。

 冬と共に来た、元高専関係者のテロリストによる宣戦布告。そして高専側も予想しえなかった呪詛師との直接対決。

 視線の先で、やさしく微笑む乙骨先輩はいつの間にか立ち上がり、ねじ伏せられてはまた抗って、気付けばあの男はどこかへ消えていた。

 息を潜めて現場に向かった。逡巡を手繰り寄せれば、さっきまで全身を包んでいた禍々しい感覚に身体の深い部分が竦んで、身じろいだ。

 そんな一連の日々を辿るように思い起こしながら、nameは前髪の隙間から悟の様子を覗き見る。蛍光灯の作る青みを帯びた影が、悟の鼻梁に細い影を落とす。

「なに、どうしたの?」
「いえ……あ、あの人は、結局どうなったんですか」
「なんだ、そんなこと」
「資料、ほとんど黒塗りで。その、わたしには言えないんでしょうか」

 書面からロリポップへと悟の指先が居所を変えた。一定を刻む秒針のはざまで、カラコロと歯列にキャンディがぶつかる。その音は、触れるものを跳ねのける硬質さと、弄ぶような軽薄さを帯びている。

「そりゃあ、ボクが始末したに決まってるでしょ」
「はあ……」
「黒塗りばかりなのは、あいつがここに在籍していた元生徒だったからだねえ。きっと」
「それって……先生と知り合い、なんですよね」
「そりゃあね。でも、だいたい10年も会わずにいたからなぁー。それはそうと、元特級術師だった呪詛師の前でのんきなこと考えてるヒマないからね。そうでしょ?」
「は、い」

 nameの鼻腔を甘い菓子の匂いがくすぐる。視界の中心に悟を据えながら、右へ左へ、俯いた視線を立て直して、ぐるりと職員室中に渡らせる。

 いつもと変わらない職員室と先生。

 だからこそ何かが過剰で、致命的な何かが欠落している気がする。
 輪郭の曖昧な予感がnameに兆す。胸の深部から全身へ、滲むように冷たいものが染みていく気がした。

 廊下に出てすぐ、足首を掠める隙間風は、まだ春には届きそうにない。肌寒さから逃れるように踏みしめた床板がギシりと軋む。これまで通った学校は床板なんてものはなかったから、初めは少し新鮮だった。

 一般的な学校と違って、いかにも呪術を扱うらしい容貌の古風な校舎。一見して率直に薄気味悪い場所に不安だったものの、入学から少しして違和感の正体に気がついた。

 ただ広い校庭から日陰の薄暗い武器庫まで、古びたこの学校の敷地内には少しも呪いの気配がない。

 学校といえば、新しくても残穢はおろか呪いひとつない場所はないし、これまで何人かの術師に聞いてみても同じことを言われた。
 そう考えてみると、この潔癖なほどなにもない高専校舎内は、かえって異様だった。

「知らない、とはいかにも罪すら犯せない弱者の特権だね」

 疲労にした思考に漏れ出すゆるい物思いの空白で、あの男の嘲る声がnameの脳裏にこだまする。

「御三家が、高専が、呪術界が、この世界が、あの男に、彼に、五条悟に、これまでなにを強いてきたか、キミは一つでも知っているかい?」

 あのとき、恐怖に身を焦がしたまま取りこぼしたかもしれないなにかが、あの男の言葉から烙印のように形を変えて、消えることなく泡沫にnameの胸に浮かび上がる。背後で床板が軋む音がする。鼓膜に爪を立てるようなその音は、nameとは逆の方向へと遠ざかっていく。

「悟はね、くだらないほど小さくても、その報酬が気に入りさえすれば案外なんだってするんだ。呪術のためなら身体を捧げることも惜しまないし、友にさえ手をかける。絶対にね」

 ザー、ザー、ザー、静寂に夜風に震える枝葉がざわめきだす。

「本当にばかな奴」

 ホワイトノイズに緩慢とする脳裏は、思考を滑らかに遡行する。

 黒塗りの報告書、中飛びの資料。処刑直後だったはずの先生の上着には、血糊も残穢の一筋すらもなかった。まるですべてが何事もなかったかのように。

 同行が許されなかった検死の知らせのあと、立ち寄った学長の机の上に置かれていた、たった一つの小さな額縁。

 nameの喉奥が震える。
 柔らかいスニーカーの底で床板の隙間の太い所をなぞるように踵を返す。元来た方へ、そしてその先へ。

 ガシャリ、と重い金属音がした。保健室のその奥にあるはずの、重い呪傷遺体を安置するための部屋の厚い扉が思い当たる。扉までの消灯された廊下は、濃厚な暗闇に満たされて、突き当りを経たところで薄い光がようやく闇に混じる。


 ドアを開け放たれたままの薄暗い保健室では、机上のモニターだけが煌々としている。三つ並んだデスクに備え付けのものはスクリーンのままで、実質壁際に据えられたモニターだけが起動しているようだった。

 肺深くまで酸素を取り込んで、震える呼吸を抑えつける。

「任務終わってすぐ先生の仕事を見学に来るとは、ずいぶんとやる気だねえ、name。それとも、誰かに会いに来たのかな?」

 握り締めかけた手のひらが、爪の先までさっと冷えていくのが分かる。四角形の光源の向こう側、青い双眸がこちらを刺すように見つめている。

 息を継ぐ間もなく、向こう側を分厚く遮蔽していた扉が口を開けた。

「あはは、なんて顔してんの。そんな見たかったんなら、どーぞ」
「先生、これ、は……」

 なんだ、と言わんばかりの身振りで嘲るように言う。
 大部分が純白の布に覆われた、浅黒い遺体の横で。

「でも、布には手をかけるなよ」
「そ、そんなこと」

 こちらを見下ろす双眸に色はない。ただその奥深いところで色濃い影が渦巻いている。

「君が呪われないためさ」

 手元のロリポップみたいに、不規則に、表層から深くまで。二つの色は混ざりきらないまま、渦の始まりと終わりはわからない。

 硬直する喉元をこじ開けて呼吸を通すと、首が縦に揺れていた。すると悟はまた頬を緩ませる。
 がさりという音とともに、足元のバッグからレジ袋を取り出して、またいつもの調子でnameに言った。

「なら、一緒にいてオッケー」
「え……」
「そのかわり、nameとぼくだけのナイショ。絶対に。いいね?」

 色のない安置室の簡素なデスクの上で、菓子の包装が鮮やかに映える。
 バラバラと散らばる、ピンクにグリーン、スカイブルー。ロリポップの隣には、水玉のビスケットの包装と白と黒のチョコレート。

 さっき手渡した書面と同じ書式の用紙を左手に携えて、悟の右手がビスケットの包装を裂いた。
 ピンクはストロベリーチョコレート、つぎは白い包装のチョコレート。そして、やはり最後はいつものロリポップ。

「先、生……?」
「はは、どうして君が泣いてるの」

 学長の机上にぽつりと佇んでいた額縁。黒い四角形の中の笑みのまま、あの額縁の隙間を隙間なく埋める色彩で、悟の口内は満たされていく。

 まともに咀嚼しきらないまま、口もとに放り込んではつぎの包装に手をかける。

 ぱりぱりと包装の剥がれる音とともに、劈開する。耳を塞いでも濃厚に満ちていく。

 nameの耳朶から胸の内へと、悟の鮮烈な痛みが。



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