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Novel - Hanno | Kerry

face





「俺、二徹目なの。疲れてるの。分からない?」
「え、あっ……お疲れ様、でした…………っ」

 お疲れ様でした?バカげてる。少しでもそう思うのなら、いま時計の針が差してる数字を言ってみろ。とは言わなかった。掌ですっかりひしゃげた台本を片手に、込み上げる恨み言をぬるいカフェオレでどうにか押し込んだ。

 アイドル上りが覚えたての三文芝居でNG連発。まあここまではまだ許してやってもよかった。面倒だし、できない奴にできるようになれ、とせがんでも無理な話だ。
 それなのに、長い仕事終わりに連絡先を食い下がったあかつきに、断られた。ただそれだけのことなのに、自分の気に入らないことがあれば周りの迷惑も考えず泣きつく。このテの女の常套手段にはへどが出る。それなのに周りも馬鹿の一つ覚えみたいに「大丈夫……?頑張ってたよ?」なんて心にもねえ言葉を猫なで声をかけるからつけあがるんだ。


「悟、気持ちは分かるが…もう少しな、こう……」
「あ?てめえの仕事ができねえ自覚もないやつは新人でもなんでもない。ただの素人、そうだろ?」


 舌打ちを遮るようにマネージャーの盛大なため息を背に感じて、踵に込める怒りをためらう理由はなくなった。次のスタジオへと無味乾燥なビニールの床を踏みしめて三歩、思い付きにふわと心が軽くなる。徹夜に退屈は大敵、それが俺の最近のモットーだ。このスタジオは最近改装されて、進入禁止の区画が明確になった代わりに、頻繁に出入りする限られたタレントやタレント指名の直属のスタッフは通過できることになった。気分転換と目覚ましの散歩としよう。



 少しずつ規則的な重低音が大きくなって、肺をわずかに揺らす。スチールやドラマ撮影でなく、音楽系の撮影だろうか。
 張り紙に見知ったプロダクションと先月も見た名前……キーキー騒がしく群がる女にもうんざりしているが、逆にこいつはとっつきにくくてよく分からないやつだった。先月での撮影のことだ。まるで初対面の猫のように生意気そうで、それでいて一線を見せつけるような距離があった。


「たしか来週の表紙撮影は、こいつと……」


 ハイハットが心地よく速度を上げた瞬間、音楽が止められた。ズズ……と最後の一滴を啜る音が口元から漏れ出して冷えかけた背がすこしだけ涼しい。どうにか本番開始の合図でかき消されたそれは杞憂で終えることができた。冷や汗をかきながら歩みを止めて、左に広がる光源へと思わず視線を移した。

 暗く照明が落とされていて、夜の深い海の色ような空間。

サーチライトのようでいて、その役割よりは幾分柔らかい光がところどころ揺らめいている。いまにも微睡みそうな空間に、メロディーが満たされて、その中央に敷き詰められた淡い色の小花の中で、ブルーシルバーに染められた髪がそよぐ。


 俺はいつの間にか、セットと大型モニターに映る映像とを、交互に追っていた。




*****



 『うわぁー、綺麗な目ですね』その記憶の一つ一つが粒立つことなどありえない。それなのに、反吐が出るほど聞き飽きたはずなのに、なぜかその言葉が脳裏で生々しくリフレインする。
 色目にしてはあまりに単調な声色が、駆け引きにしては透明な瞳が、焼けるようなストロボを横でひしと俺に向けられていた。

 記憶の輪郭が鋭角に象られる頃、迷いに導かれた切なさの先で「one,two,three──」カウントのように効果的に響く歌詞の後、内臓まで揺らすようにベースが鳴り響く。そのすぐ後に「オーケー!」という低い声が遮って、拡声器の残響が耳障りだった。

 監督の声が響いてすぐに、モニター越しの表情が不意にほぐれた。

「……違う」

 心持ちのグラデーションの細部まで、あの白いだけだったはずの喉で奏でては、スタイリストに従順に飾られていた瞳はいまや意思を持って言外の領域まで紡いでいる。今しがたあの細い指先が振り撒いた色とりどりの花びらでさえ、ただ演出の一端にすぎない、当たり前に制圧するほど彩りに満ちた表情に視線を奪われた。


 職業病だろうか?素晴らしい演劇は全ての芸術に通ずるという、シンプルかつ絶対的な家訓のようや父の言葉が染み付いている。


 所謂、芸能一家で生まれた。代々続く俳優の家系で、当たり前のように、そして山のように、ガキの頃から一流の作品に触れてきた。稽古だって重ねた。いや、そうするしか許されなかったワケだけど……。身も心も削れるような稽古と本番を何度も何度も重ねて、"七光り"なんて何にも知らねえ外っ面が大好きなメクラの雑魚どもの侮言にも耐えてきた。

 でもだから……だからだ。さっきの女みたいに、ちやほやされることが職業みたいなアイドルなんてものを、今目の前のものを何度でも疑っているのに、どうして何かを見せられたような気になって、俺は──


「おい悟。なーにこんなところで油売ってんだ!次行くぞ、次!」
「っ、いってぇーな!マジで最近人使い荒すぎだろ……」
「んぁー、流石に俺も最近のスケジュールは悪いと思ってる…もう少しで調整つくから、な?あと少し耐えてくれ。スマン……!」


 何回目だよと問うのも面倒だ。大きなクマつけてボロボロになったデカいオッサンを俺がいじめてるなんて言われたらまたダルいことになる。ため息混じりの舌打ちが思わず口を吐く。


「なぁ夜蛾ァー!オレ、腹減ったって」
「おーおー、朝食の時間は取ってあるから安心しろって。そこまでオレも鬼じゃない。もうすぐ到着するはずだ」
「っ、うぜーって」

 ガシガシと俺の髪を存分に乱して、次の台本をこちらによこす逞しすぎる腕越しに、アイツを横目にとらえた。
 腑抜けた顔でサンドイッチなんか食ってやがる。どうやらこの俺に気付いてない。何人かのスタッフは俺に気付いて会釈をしてるのに、だ。

 歩みを進めて、再び静寂が満ちた白い空間を進む。否応にも直近に聞いた音が脳裏に泡沫に浮かんでは消えていく。イマドキのキャッチーなフレーズ、俺も普段から好きな4つ打ちのサウンドは、あいつのレコード会社が草分け的なジャンルだ。

 いつのまにか何か得体の知らないものを吐き出す前に、いくつもの口当たりの良い解釈だけを喉奥へと押し込んだ。行きがけの脇道、半分だけ開いたシャッターの隙間から暁の空が漏れている。雨上がりの匂いと、昨日の曇り空よりも暖かな色を纏っていた。




*****



 リリースに間が空いたと思ったら、唐突に始まる過密スケジュール。連日レコーディング、練習、撮影のルーティーンに明け暮れる。

 目の回るような日々が始まって1ヶ月と少し、プロモーション直前に追い込みをかけたMV撮影。曲が途切れれば途端に瞼が重くなって、そのまま閉じてしまいそうだ。

 それでも表現したいことを表現できる、それが嬉しくて、この瞬間が大好きだった。歌詞とメロディーが混ざり合ってこの瞬間がなにより気持ちよくて、自分の全てを込める。

 監督の声が響く。一瞬の沈黙の後、周りの雑音が一つずつ色を帯びた。ざわめく周辺を見れば、こちらを向いたまま立ち尽くす人、拍手を送ってくれる人──自分の核心にある何かが伝わったのかもしれない。そう得も知れぬ快感がゾクりと密かに背を伝った。

 頭の後ろ、背後から「ふふ、お疲れ様」と聞こえて、自分が盛大なため息をついていたことに気が付いた。きっと私より忙しいはずなのに、抜け目なく細やかに準備してくれるマネージャーである硝子さん。こうして私が誤魔化す時間もなく絶えず動き続けてくれている。


「あはは…なんだか思ったより気が張ってたみたい」
「しょうがないよ、こんな毎日ハードによく頑張ってる。次ラストだから、もう少し!」


 いつも私が疲れたころに優しく微笑みながら渡してくれるこの冷たいメロンミルクが大好きで、冷たい甘さが喉元を通るのが気持ちいい。一気に気持ちが緊張からほぐれて頷いた。モニターチェックに移しかけた視線の先に、人影の間から頭一つ抜けた長身と、印象的な白髪が揺らめいた。

 
(…………五条、悟?)


 どうして…何のためにここにいるのか、はたまたどうやって入ってきたのか……?ふつふつと疑問が沸き立っては消えて、また別の疑問が浮かんでくる。

 そういえば今回の新曲のプロモーションの前に、初めて現場で一緒になった。父曰く、生まれたときから有名人らしい彼は、偉大なご両親の後光をも掠めるほど
 横顔からでもわかった。カメラを向けられた瞬間に表情を宿す彼の存在感は圧巻だった。胸の奥がズキズキとするほどに。

 ただそこに立っていれば絵になるような居ずまいで、事実そうだと彼を見なす人たちもいる。あの日は女性向けのファッション誌でゲスト撮影だった。

 事前に提示された大まかなイメージやその日の服のテイストで、感覚的にかいつまんで撮影したって持て余すほど恵まれた容姿。
 それでも、あの短い時間でも、そして表現など要求されていなくとも、そのことすらあざ笑うように彼の中には確固たる意志がきちんと用意されていることが隣でひしひしと伝わってきた。

 新曲制作の真っただ中とはいえ、どこかで上の空だった自分が恥ずかしくて、余裕を見積もれなかったことが悔しくて、せめてその場の、五条悟という星の気迫に負けないように必死だった。


「ねぇ!そういえば、この前の五条くんとの表紙、めちゃくちゃ好評だよ!この忙さじゃ状況知らないと思って」
「へ、えっ…………?!」
「人の話聞いてた?それとも何か不完全燃焼だった?」
「んー、いや……あ。なんか、若い子向けなのに過激すぎたかな、って……」
「あんた、若い子って同い年くらいでしょうよ。大丈夫、かっこいいって話。編集部の方たちも二人をほめてた。ほんと」


 くつくつ笑う硝子さんにあの時の焦燥がバレないように息を詰めながら笑いを合わせた。渡されたゲラを片手に、完成版の表紙へと目を通した。

 挑発的に輝く存在感。端正という言葉は相応しい瞳に宿った色は、晴れの日の大空みたいだった。

 撮影の構成上とはいえ、見つめ合った時に視界を占めたあの色を今も忘れられない。でも、あの時、あの瞳は何をみていたのだろう。シャッターフレームが落ちる音がする度に、何度でも探したのに、誰もが焦がれているはずのあの瞳は間近で覗き込んでも何も映していない、そんな予感がした。そのことが私は少し……そうだ、少し恐ろしかった。

 抜けるような輝きに見えて、あの青に触れたならどこまでも吸い込まれたら上も下もない世界に落ちていきそうで、身体がすくんだ。誰もが考ええない解釈で時間を咀嚼して、鋭くスタジオ全体の空気を変えていく力が確かにあの場に、そしてこの表紙にある。それなのに、どこかぼんやりとすらしながら、あの瞳はひとつも揺らめかった。


「衣装替えお願いしまーす!」


 私が椅子から立ち上がる頃、あたりを見渡せば、等身の高い白髪は既に背を向けていた。片手には台本を握りしめて、次の収録だろうか。


 ここがスタジオたらしめる、白魔とした壁の間にその背が溶けていく。




 
*****




 煌々としたライトと今俺の髪に手を伸ばすスタイリストの間、マネージャーの大きな体躯のさらに奥で、そろそろと背景が揺れた。
 隙間からいくつかの影が連なって、最後に焦点を合わせると、ぺこりとこちらに会釈をしながらグレーのチェックスカートと小ぶりのネクタイが揺れて、白いワイシャツの肩には栗色の髪がしたたっている。


「……?あいつ…普通校行ってるんだ」
「そーいえば、凄いですよね!最近本当に忙しいだろうに、ちゃんと卒業したいってこの前現場一緒だった時に言ってて──」
「ッ…………あ、そう……」


 とっさに口を閉ざして、ほんの少し背が冷えた。ただ今まで通信制か芸能高校に通うやつしか身近で見たことがなかったから、見慣れない恰好だった。それだけなのに、疲労についに合理的な判断まで奪われているのだろうか。


「あー、でも五条くん、たしか1年で高認取りきったんでしょ?尊敬……」
「いえ……別に」


 面倒だった。肩甲骨を寄せて、大きく伸びる。午後の風がぬるく肺にもたれて呼吸を吐き出した。

 集るやつらからも、休みがちだった出席日数からも中学でオサラバ──そう思った気がする。幼稚舎からエスカレーターの学園でも、外部生が増えてくるにつれて、そして仕事量を見かねて、大きくなるノイズから俺を守るという名目で、気付いた頃には両親が届を出していた。


「五条さん、本日はよろしくお願いします」
「おーー。つーか、この前名前でいいっつったのに、もう名字呼びに戻したの?」
「あ……ちがく、て……その、なんかまだ三回目で慣れない、し……?」
「そう」
「あの、怒ってます?」
「どこが」


 挨拶もそこそこに、想定外の低い音が喉元に響いたことくらい自分でもわかる。カラコロと先ほど口内に放り込んだキャンディーだけが能天気に響く。ぽかんと小さく口を開けて、大きな瞳がこちらを向いた。気付けば喉の奥がしくりとして、二の句を手すがら探した。


「あ、いや……随分進学校に通ってんじゃん」
「え……なんで、東京じゃないのに…………あ、そっか!」
「そーそ、オレもお前の系列校のひとつだったから……そんな眠そうな顔してまで、楽しいか?学校」
「は……?まあ、それなりに…最近そんなに行けてないけど。悟…は、寂しくない?大丈夫なの」


 あんぐりと口を開けたままの俺を横目に、0.5mmのシャープペンを携えた指先は休むことなくさらさらと動いて、白黒刷りのプリントを往復していく。するすると自分の中の何かがほどけて、主導権をにぎっていたはずの指の隙間からなにかが零れ落ちていくようでせわしない。


「はは、お前って本名のほうが芸名みたいじゃん」
「ちょっと……待って、ください。…もう…終わるんで」


 手のひらで軽く制されて、喉仏の位置からして今しがたの重いトーンを再現しかけている。ラムネ味が舌の上に甘く広がっていたので飲み込んだ。

 プリントの下の四角い枠に記されたものとは異なる呼び声に、隣からハリのある声が凛と響いた。




 単純な表現要素で演者が空間を掌握する時、ほんのたまに肌の上をピリと痺れが走る。緊張感さえ噛み付かれるような、食われるような、それでいて目を離せない引力を伴っている。

 脳髄から集中だけを細く吸い出すような、ストロボがチャージされる電子音。次に鳴り響くシャッター音を自ら刻むように瞳孔が収縮して、漆黒のレンズの奥底をとらえる。

 見慣れたはずの光景が、カメラのその向こう側まで見透かすようで、尖鋭に研がれた眼差しに密かに息を呑んだ。目下、先ほどまで隣で”宿題”なんてしていた少女に雰囲気を掌握させるつもりなどさらさらない。首に絡められる体温から意識を引きはがすように、今回の撮影のコンセプトをはじめからなぞる。

 頬にやわらかな手が触れた。いたずらに獣性すら孕んでいた気がした琥珀色の瞳が、瞳の奥まで見つめてふわりと微笑んだ。

 ドクドクと身体の中心が脈打っている。それが速度を上げ続ける鼓動だと認める頃、じわじわと皮膚へ指先へと血管が拡張していくのがわかる。強く、そして挑発的なイメージにテンションを上げすぎただろうか。シャッターが切られるたび、ストロボが明滅するたびに、視界の余白も雑音も消えて、それなのに思考回路に大粒の言葉がいくつも降りつけて、堆積して重くもたげてしまいそうだ。


「え……?あの…さ、とる?あの……終わっ──!」
「好き、だ」
「っ……え?あ、ちょっ……とりあえず離しましょ?みんな……」
「見せつけてるの」
「ど、どういう……」


 指定されたカットではない抱き留めた姿勢のまま、腕の中で小さな白い耳が紅潮していくのが分かる。間もなく自分の頬も温度を上げているのだと分かった瞬間、音と色が瑞々しく放射状に色を取り戻していく。    

 ざわめく音の中にいくつか悲鳴が辛うじて飲まれる音がする。差し当たり、視界の左端と右端で、それぞれの異なる社員証と同じIDをつけたまま、天を仰ぐスーツの二人。


「じゃ、そういうことなんでー。夏休み頂きまーす!お疲れっすー」


 次は意図する通りの声音が空間にこだまするほど大きい。

 色のないドアへとつま先が踏みこむ時、同時に引いた手首の細さに背中が冷えかけた。


「悟ってそんな顔、するんだね」


 振り返ればそこには、まだ赤みを残した頬は形よく膨らみ、桃色の口角は悪戯っぽく上がっている。

 顔を見合わせて、時計は既に午後三時、正午より少し影が伸びて、白く光に霞んでいた世界が色を取り戻した。





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